第4話

       ◆


 なんだ、こんなものか。

 呪風はぐったりと力を失った少女を放り出し、息を吐いた。

 人の体に宿ったが、まだ慣れない。今も、危うく格好の標的を死なせてしまうところだった。

 呪香は死体に取り憑くことはできない。生きている人間でなくれは、呪風へ生まれ変わることはできない。

 呪風は何度か手を握っては開いてを繰り返し、受肉の感触を確認した。

 悪くない。これが肉体というものか。

「大丈夫かい」

 不意な声に、呪風は顔を上げた。

 そこには、野暮ったい服装の少年が立っている。

 何者だ? いや、そうか、すぐそばに例の風使の少女が倒れているのだ。平然としているのは不自然だ、と呪風は思考した。

「呪風だ」

 またも不意な声に、呪風はそちらを見た。

 離れたところに、一匹の猫がいる。

 違う。

 こいつは猫の姿をしているが、猫ではない。

 自分と同じ存在。

 呪風だ。

「じゃあ、容赦する必要はないな」

 少年の周囲で火花が沸き起こった。

 呪風は我知らず、冷や汗をかいていた。

 これはまずい。

 実にまずい。


       ◆


 辰馬は力を解放していく。

 右腕が痛み始める。それは辰馬の本来の力が制限されている証だった。

 煩わしいが、何も全力を出さずとも、呪風など対処できる。

 周囲で渦巻いた火花が火炎へと変じ、呪風にぶつかっていく。

 逃れようとしたようだが、火炎の方が早い。劫火が少女の肉体を包み込む。

 息を止めた辰馬は、自分の風使としての力が作用する対象を精密に選んだ。

 呪風をそのまま破壊すれば、元になった人間は消滅してしまう。

 そうさせないことが、辰馬にはできる。何度も何度も実践を繰り返した末にたどり着いた技術だった。その道のりには、多くの犠牲が伴った。それは全て、辰馬が背負っていくしかない。

 火炎が呪風となった少女の肉体だけを残し、呪香だけを焼いていく。

 少女も普通ではいられないだろうが、死ぬよりはマシだ。

 炎の中から悲鳴が聞こえてくる。呪風の断末魔だ。辰馬は容赦せず、最後の一片まで呪香を焼き尽くした。

 炎が刹那で搔き消えると、そこには制服姿の少女が立っており、ゆっくりと倒れていく。辰馬は駆け寄り、その背中を支えると、そっと地面に寝かせた。一本木高校の制服だった。女性の制服はセーラー服で、リボンからして同学年だ。

 さっさとずらかろう、と思いながら辰馬はすぐそばに倒れているもう一人の女子を見た。

 目が開く。

 邪悪な光に、辰馬は久しぶりに背筋が凍る感覚を味わった。

 風が、突風が吹いたようだった。

 辰馬の足が宙を離れ、しかしなんとか着地し、両手を突き出す。

 火炎が沸き起こるが、圧倒的な不可視の風に吹き消され、押し込まれていく。

「やはり」

 起き上がったのは、先ほどとは別の少女だ。声は明瞭で、実に力に溢れているのに辰馬は舌打ちができるならしただろう。しかしその余裕すらない。

「やはり風使の肉体は素晴らしい」

 その言葉に、なるほど、と辰馬は納得していた。

 おそらく呪風に対処しようとして逆に制圧された風使だったのだろう。呪風は滅びる寸前に、そちらへ取り憑き直したのだ。

 迂闊だった、と辰馬が口元を歪める間も、狂風は勢いを増している。

「おい、お前!」

 辰馬は叫んでいた。

「助けて欲しいのなら、頷いて見せろ!」

 呪風が鼻で笑い、何かを言い返そうとした。

 その顎が、わずかに引かれた。ぎこちないが、頷いたのだ。

 たったそれだけのことが、形勢を変えた。

 辰馬の周囲の火炎が勢いを増す。激しい火炎が風を飲み込み、そのまま周囲を席巻した。そして呪風が取り込まれる。

「馬鹿な! ありえない!」

 呪風が喚く間も辰馬は一言も発さず、ただ、対象を焼き払った。

 火炎が消えると、少女がふらりとよろめき、自分の足で立った。

 顔が上げられ、辰馬を見る。

「今、何が……」

 少女の視線はまだ焦点が合っていない。

 まさか、と思ったが、見間違いではない。

 厄介なことになった。

 辰馬は少女の視線の曖昧さを吟味し、すぐに回復するだろうと判断し、背を向けて駆け出していた。

 背後から猫が追ってくる。

「礼を受けるくらいは許されるのではないか?」

 猫の指摘に、辰馬は忌々しげに答えた。

「面倒ごとはごめんだよ」


      ◆


 皐月は前日以上に不愉快な気分で一本木高校の昇降口で靴を履き替えていた。

 呪風と化した少女に掴まれた痣は首に残っている。あの後、気づくと自分は立ち上がっていて、すぐそばには人間に戻った少女が倒れていた。それはそれで異常だが、あの場の全てが異常なのだった。

 誰かが目の前にいた気がしたが、意識がはっきりした時には姿が見えなかった。

 少女も自分も医者に診察してもらったが、異常はないらしい。ちなみにあの少女は一本木高校の二年一組の生徒だった。事態を偽るのに苦労したが、なんとかなった。

 しかし、誰が助けてくれたのだろう、という皐月の疑問は消えていない。

 風使として、許しがたい失態だった。

 いつになく強く下駄箱を閉めた時、一人の生徒がやってきた。

 同じクラスの、一ノ瀬辰馬という男子だ。どこかで見た気がしたが、それもそうだ、同じクラスである。

「おはよう、一ノ瀬くん」

 なんとなく声をかけると、彼はギョッとした様子だったが、「おはよう」と軽い調子で返事を返してきた。

 結局、それ以上のやりとりはなく、皐月は教室へ向かった。

 まったく不愉快なことばかり起こる。

 いつか、相手を見つけて、借りを返してやる。

 そう誓う皐月だった。


      ◆


 辰馬は昇降口でホッと息を吐いた。

 これ以上の面倒ごとは、勘弁だ。

 下手なことを言えば、どうなるやら。

 当分は目立たないように大人しくするとしよう。



(了)

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呪いの香り漂うところに 和泉茉樹 @idumimaki

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