第3話
◆
一本木高校の昇降口から下校しようとする生徒に混ざって辰馬が出てくる。
辰馬は一人で、しかし堂々と、平然とした様子で歩いていく。周囲では男子女子の区別なく、生徒たちが笑いさざめき、賑々しく歩いている中で、一人きりの辰馬は浮いていた。
浮いていたが、本人はそれにまるで気づいていないようにも見えた。
足は自然と住宅街に向かい、真新しい家々の間を抜けていく。そのうちに周囲には人気がなくなり、古い建物が多い区画になる。まさにそこは、優希楓が訪ねた住宅地であり、辰馬は楓が侵入した家に正面から入っていった。門の戸の鍵を持っているので、塀を飛び越えたりはしない。
建物に入り、玄関で雑に靴を脱ぐと足音高く奥へ進んでいく。
夕方の空を背景に、縁側に座り込んでいる老人の背中が見えた。
「ただいま、爺さん」
「辰馬」
老人は振り返らない。しかし声はまっすぐに辰馬に向いていた。
「よその風使どもがお前を気にしている」
「気にさせておけばいいさ」
「目立つな」
老人の簡潔な言葉には、強烈な圧力が含まれていたが、辰馬は怯みもしなかった。
「どうせ目立つさ。早いか遅いかだ」
「まだ早いと言っている」
「呪香が俺たちを忖度してくれるなら、そういう老人の理屈も通用するかもな」
あくまで取り合おうとしない辰馬に溜息を吐き、老人がさっと手を挙げた。
「洗濯をしておけ。料理もな。風呂掃除も忘れずに」
「了解」
辰馬はそれだけ答えて、自分の部屋で荷物を放り出し、制服から部屋着に着替えた。
日が暮れるまでに風呂を掃除し、同時に回していた洗濯機が洗い終わった衣類を室内に干し、次には台所へ移動し、あるもので簡単に料理をした。実にテキパキとした、無駄のない一連の動きだった。
食卓に料理を並べ、さて、老人を呼びに行こうという時、居間の襖がわずかに開き、入ってきたものがいる。
人ではない。猫だ。
辰馬がニャスと呼んでいる猫だった。
「辰馬よ。呪香が一点に引き寄せられているぞ」
エプロンを外しながら、辰馬は溜息を吐いた。老人には強気で答えたが、目立つのは辰馬としても望むところでない。だが、状況はそれを許さないようだ。
「じゃあ、出かけるとしよう」
答えると、辰馬は足早に庭に面した部屋に向かった。廊下を進むと、もう日が暮れて薄暗い中、縁側に老人がまだ座っているのが目に入った。すぐそばまで進み、片膝をつく。
「師匠、呪香を祓いに行ってきます。料理は出来ていますし、風呂も用意できています」
「布団は敷いてもらえたかな」
「自分でやってくださいよ」
「老人に布団など敷けるものか」
まじまじと辰馬は老人を見たが、老人の視線は庭から動かない。もう何も見えないだろうが、何かが見えているのかもしれない。
「布団を敷いたら出掛けます」
「好きにせい」
結局、辰馬は老人の寝室へ移動し、布団を敷いてやった。ニャスはすぐそばに座り込んでいる。
「なあ、辰馬よ」
敷き布団のシーツを整えている辰馬に、猫が声を向ける。
「お前たち、風使の使命であるところの呪香への対処より、布団を敷く方が優先なのか」
仕方ないだろう、と辰馬は羽毛布団を広げ布団の上に掛けた。
「老人の世話も大事な仕事だ」
「やはりお前は真面目だよ、辰馬よ」
「手を抜いているさ。今日の料理だって、ただ煮込んだだけの煮物と、切っただけのサラダだ。飯は炊飯器に任せたし、味噌汁はお湯で溶けば出来上がる奴だ」
甲斐甲斐しいな、と猫が呟く。
その視線が不意に遠くへ向けられた。
「まずいぞ、辰馬」
「何がまずい。布団はちゃんと敷けている。師匠も文句は言わないさ」
違う、と応じる猫の声は緊張していた。
「呪香の密度が、呪渦のそれだ」
そいつはまずいな、と答えた辰馬の言葉にも、硬い響きがあった。
少年と猫は足早に建物を出ると、すでに日が暮れた街へ駆け出していった。
◆
淵見皐月は地面に倒れている少女を前に、息を詰めていた。
場所は園木市の中心市街地にぽっかりと空いた空き地のような場所だった。細い道からさらに細い道を入ったところにある空間で、昔は駐車場だったのかもしれないが、舗装は風化し、どこから盗まれたものだろう、長く使われていないらしい錆まみれの自転車が放置されている。
そこに倒れている少女を前に、皐月は強烈な圧力を受けていた。
ただの呪香を祓うだけのはずだった。それほど強い気配ではなかったのだ。だから学校の帰りに図書館へ寄っていたまま、足を伸ばしてここまで来た。制服姿のままだった。
しかし現場に着いてみれば、呪香の気配は唐突に膨れ上がり、それは呪渦と呼ばれる強力な存在へと変貌していた。
呪渦とは、呪香の吹き溜まりである。呪香はそばにいる人間の体調を狂わせたり、事故を誘発させる程度の、些細な影響しか与えない。しかし呪渦はそれとは比べ物にならない。人間の精神を狂わせ、場合によっては人命にかかわる。
だから最初、倒れている少女を見たとき、皐月は焦った。
運悪く呪渦に巻き込まれた少女が意識を失っているように見えたのだ。放ってはおけない。早急に呪渦を祓い、少女を医療機関に運ぶ必要があった。
それができないのは、まるで強風が吹き寄せるような圧迫感に、足を進ませられないからだった。
皐月が歯を食いしばり、両手を持ち上げていく。たったそれだけで彼女は汗まみれになっていた。
両腕がとてつもなく重い。息が詰まる。意識して細く息を吐いて冷静さを心がけるが、その吐息でさえも震える。
皐月の両腕の周囲に、揺らめきが起こった。それはまるで、水面に油を落とすと見られる七色の光に似ている。
その光が空間に広がっていく。
風使には三つの系統がある。風、炎、雷である。
皐月は風を司る風使だった。風を操る風使は、風使の中でも正道とされる。
今、その力が彼女を取り巻き、また名も知らぬ少女を取り込んでいる呪渦を削り始めていた。
パチパチと光が瞬き、それが激しくなるにつれて、皐月は自分が楽になっていくのを感じた。
呪渦を相手にするのは初めてではない。どうとでもできる。自分は風使なのだ。これしきのことに対処できずに、この先、どうするというのだ。楓に並び立つことを目指すなら、今の事態を容易に解決する力量が必要になる。
いつの間にか呪渦の強烈な気配は消えており、呼吸も楽になっていた。
ほっと安堵の息を吐いた皐月は、額にびっしりと浮いた汗の玉を無意識に制服の袖でぬぐっていた。少女を助けないといけない。知り合いの医者はまだ受け入れてくれるだろうか。
まだ爆ぜている細かな光の粒の間を抜け、うつぶせで倒れて動かない少女のそばに進み出ると、皐月は両膝を折って少女の肩を揺すった。反応はない。
意識がないのだろう。急いで措置しないと命に関わるかもしれない。
そんなことを考えていたために、反応が遅れた。
少女の体が不意に動き、一瞬でその手が皐月の首筋を握り込んでいた。
手は小さいが、そんなことを無視する常人離れした握力が発揮され、皐月は呼吸ができなくなった。
何が起こったのか、皐月は目の前の少女を見た。
元は可愛らしい顔をしていたはずだが、今、そこにあるのは凶相だった。
「風使にしては未熟だな」
少女の口からひび割れた声が漏れる。
まさか、と皐月はやっと事態を察した。
呪香は大抵の場合、一般人には視認不可能な揺らめきのようなものとして存在する。呪渦もまた、やはり一般人には見えない。
その呪香が人や物に宿ることがある。それを風使は、受肉、と表現し、受肉した呪香のことを、呪風と呼ぶ。
たった今、皐月の目の前にいる少女がまさに、呪風だった。
呪風となった人間は、もはや本来の形には戻れないとされる。風使が対処すれば、その体は塵へと帰る。行方不明として処理されてしまうのが大半だった。
皐月はこの一瞬に、決断できた。
決断できたはずだが、彼女には決断できなかった。
瞬間的に最大の力を行使すれば、呪風と化した少女にダメージを与えられたかもしれない。
皐月は、迷った。
少女は本当に呪風なのか。殺すしかないのか。
そんなことが許されるのか。
そんな躊躇が、彼女に決断させず、結果、首の血管が圧迫され、彼女は瞬きする間もなく気を失った。
どこかで猫が鳴いたような気がしたが、皐月がそれを思考する余地はなかった。
(続く)
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