第2話

       ◆


 一本木高校二年二組の教室に、深夜のショッピングモールの立体駐車場にいた少女の制服姿がある。

 むっつりとした顔で椅子に腰掛け、机に肘を置いて頬杖をついていた。

 彼女の名前は淵見皐月という。

 二年生では意外に美人という評判で、一年生からは頼りになる先輩と見られている一方、三年生からは油断ならない女子と見られていた。

 勉強の成績は上位に位置して、部活動こそしていないが球技大会やマラソン大会でも活躍する文武両道の生徒というのが、おおよその共通認識になる。彼女に否定的な生徒もいることにはいるが、さほど多くはない。

 というわけで、皐月の様子にクラスメイトが声をかけてくるが、皐月はつれない様子だった。クラスメイトは、どうやら小テストが気になっているようではないな、とか、しかし人間関係でもなさそうだな、家庭の問題でもないな、と察していくが、では実際に何が皐月を不機嫌にさせているかは、見当がつかなかった。

 高校の方針としてアルバイトは禁止されているが、生徒の中でにはアルバイトに勤しむ者もいる。しかし皐月がそんなことをするとは誰も思っていなかったし、そういうことを思考する性格ではないことに友人たちは確信を持っていた。

 皐月自身、自分がやっていることはアルバイトとは思っていなかった。

 それはいわば、使命である。

 彼女は登校する前に、学校の近くにあるコンビニエンスストアへ寄り道していた。普通に飲み物を買ったが、彼女はすっと建物の裏手へ入った。それを見たものはいなかった。

 いるわけもない、彼女の姿は目視できないように細工されていたのだ。

 コンビニの裏では、二十代に見える若い女性がタバコを吸っていた。

「不機嫌そうだね、皐月」

「師匠」

 皐月はそう言葉にしてから、続ける内容にだいぶ迷ったようだが、結局、昨夜のことを報告した。

 立体駐車場で彼女が対応すべき異変である、呪香の気配がした。彼女はわずかな気配をたどり、そこへ辿り着いたのだ。しかし呪香の気配は消えてしまい、取り逃がしたかもしれないとその時は思った。

 直後に、すぐ近くで呪香の強い気配が沸き起こり、そして即座に消えた。

「つまり、他の風使に手柄を取られたわけか」

 皐月が師匠と呼ぶ女性の言葉に、苦々しげな顔で皐月が頷く。

「どこの誰でしょうか」

「どこの誰でも構わないさ。呪香が消えるならね」

 ゆっくりと煙を吐く女性に、でも、と皐月は食い下がろうとするが、それ以上の言葉は出なかった。

 世界に悪影響を及ぼす呪香を滅ぼすのが皐月たち、風使の使命だった。

 これは仕事ではなく、使命である。

 誰かがしなければならず、選ばれたものにしかできない。

 風使は師から弟子へと技術を継承し、発展させ、長い時間を呪香を滅ぼすことに費やしてきた。呪香が根絶される兆しはないが、それは風使が自らに課した使命を放り出す理由にはならない。

「次に頑張ればいいさ、我が弟子よ。話はそれだけ? 私の休憩もそろそろ終わりだ」

 タバコを携帯灰皿に押し込み、女性が立ち上がる。そしてポンポンと皐月の肩を叩いた。

「学校の勉強も頑張りなさい。私みたいにならないようにね」

 反論しようとする皐月に余裕の笑みを見せ、女性はコンビニの建物に裏口から入っていった。

 皐月にとって風使としての師である女性は尊敬の対象だった。定職を持たないとしても、その尊敬が曇ることはない。むしろ、本来的な人生より、風使としての生き方を優先していることに憧れを抱いていた。

 しかしそれはどうやら本人には伝わらないし、理解もしてもらえないと、この時も皐月は落胆した。

 そんな一場面があった後の学校の教室で、不機嫌さはなかなか収まらなかった。

 それにしても、と皐月は考えていた。

 誰が私の獲物を横取りしたんだ?


      ◆


 昼過ぎ、園木市の古くからある住宅街の一角に、皐月が師匠と呼ぶ女性、優希楓の姿がある。

 一軒の板塀に囲まれた屋敷の正面を通り過ぎたと思うと、ちらっと周囲に目を走らせてから人間離れした跳躍で背丈よりもいくらも高い塀を飛び越えた。

 着地したところは日本庭園である。松の木の横へ伸びる枝の下をくぐり、一面の苔からじゃりへと進む。

 建物の縁側に、老人の姿があった。ぼんやりした表情で庭を眺めているが、楓に気づいたようではない。間違いなく視界に入っているはずだが、老人は無反応だった。

 その前に進み出て、楓が膝をついて老人と視線の位置を合わせた。この時になってほんの短い時間、老人の視線の焦点が定まった。

「標野殿、お久しぶりです」

 楓の言葉に、老人が首を傾げる。

「誰だったかな、お嬢さん」

 しわがれた声は聞き取りづらい。しかし楓は構わなかった。

「風使の優希楓です」

「フウシ? なんのことかな? わしはお嬢さんのことなど知らん。いや、家政婦か? 家政婦だろう? ちょっと洗濯物が溜まっておってな、洗ってくれるか。まともな飯も欲しい。買い物へ行ってくれ」

 老人が一人で話し出すのに、楓の瞳に殺気がこもった。

 ただ、それでも老人はペラペラとしゃべり続けた。

「風呂掃除もしてくれ。カビが酷くてな。あとは蜘蛛の巣も払ってくれ。蜘蛛はどこにでも入ってきよる。ああ、テレビも調子が悪くてな。修理に出すのと、新しく買うのとどちらがいいと思う? 金はあるのだが、粗大ゴミは捨てるのが面倒でな。この体では運ぶのもままならん」

 楓は溜息を吐くと、低い声を出した。

「標野殿、今でも弟子を取っておられるのか、お聞きしたい」

 老人が眉をひそめた。

「出汁を取る? わしはうどんもそばも、出来合いは使わんよ。削り節と昆布で出汁を取り、醤油と砂糖で仕上げておる。評判はいいほうだぞ」

「出汁ではなく、弟子」

「丁稚と言ったのか? よく聞こえん」

 いよいよ楓は諦めるしかなかった。とぼける老人など手に負えない。

 また来ます、と楓は立ち上がった。その背中に老人が声を向ける。

「おい、洗濯をしてくれないのか。家政婦ではないのか。金ならいくらでも払うぞ」

 楓はもう完全に無視して、元来た方へ戻り、塀を飛び越えた。

 道路に出てから溜息を吐き、やや強めに板塀を蹴りつけるとヒビが走った。

 怒りを発散したところで、楓はその場を離れた。



(続く)

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