呪いの香り漂うところに

和泉茉樹

第1話

     ◆


 園木市のショッピングモールの立体駐車場は静まり返っていた。

 すでに時刻は日付が変わろうとしている。止まっている車はわずかしかない。

 アスファルトで舗装された床を静かに踏みしめるのはバスケットシューズで、少女は長いコートを羽織り、伸ばした髪の毛は一つに括られている。

 視線は油断なく周囲に配られ、何ものも見逃すようではない。

 ただ、視線は目標を捉えられないようだった。

 照明がほとんど存在しないせいでもあるだろうか。差し込むのは壁が取っ払われている部分から差し込む街灯と月の明かりしかない。

 その少女がつと視線を外した瞬間、何かが動いた。

 少女がそちらへ向き直る。

 影の中から小さなものが進み出てきた。

 猫だった。しかしどこから迷い込んだのだろう。

 緊張していた表情を刹那だけ緩め、少女は猫から視線を外す。猫の方も少女を見遣ったのは短い時間で、足音も立てず、壁の方へ歩いていく。

 少女はそれから三十分ほど、駐車場を上から下まで見て回ったが、結局、何もせずにその場を離れた。

 彼女を目撃したものは誰もいない。

 もちろん、防犯カメラはあった。警備室では二人の男性がやや弛緩した空気ながら、モニターをチェックしていた。

 彼女の姿が、そこには映っていない。


      ◆


 猫がショッピングモールから駆け足で住宅地の方へ駆けていく。

 が、ふと、足を止めると方向を変え、夜の闇の中でも光を放つ自動販売機へ向かった。その自動販売機の前では、指を右往左往させている少年がいる。

「辰馬よ、同類がいたぞ」

 猫が人語を喋った。やや聞き取りづらいが、立派に人語だった。

 少年の方はそれに驚いた様子もなく、「あ、そ」などと応じ、やっと決断して自動販売機のボタンを押し込んだ。騒々しい音を立てた筐体から少年がペットボトルを取り出す。即座に封を切ると泡が溢れ出し、「おっとっと」などと声に出して少年がすぐにボトルを口元に近づける。

 猫はやれやれといったように、首を左右に振っている。これもあまりにも猫らしくなく、人間じみていた。

「風使というのは何故そうも反目する? 仲間なのだろう?」

「派閥があるのさ」

 少年が炭酸ジュースを飲んでから、溢れた泡が付いた手を振りながら答える。

「お前だって、呪香の癖に俺のそばにいるじゃないか」

「私がいてお前も助かるだろう、辰馬よ」

「まあね」

 ぐっとペットボトルを傾げると、フゥっと少年が息を吐く。

 その息が、不意に火の粉に変わる。

 そんなことは見慣れているというような猫が振り向いた先では、唐突に像が歪んでいた。

 住宅街の外れで、個性のある一戸建ての住宅が並ぶが、まるで陽炎に包まれているように激しく揺れている。いや、陽炎の域を超えている。

 ペットボトルを捨てた少年が、首を捻って骨を鳴らす。

「お前が呪香を連れて来てくれるおかげで、仕事がやりやすいよ。ニャス」

「その呼び名はなんとかならんのか」

 猫がぼやくのに、いい名前だろ、と応じながら少年が陽炎へと歩を進める。

 少年の手、その指先でも火花が散り、やがて火炎へと変わると少年の右手を完全に隠してしまう。

 その火を纏う拳が、空間の揺らめきに衝突する。

 劇的だった。

 火炎が膨れ上がり、壁のようにそそり立つと揺らめきを覆い尽くし、そして、次の一瞬には盛大な火の粉の滝となって、消え失せた。

 不自然だったのは、その炎が周囲を照らさなかったことだ。影が揺らめくこともない。

 終わってしまうと、そこはなんでもない深夜の街角で、異常など何一つなかった。

「これでいいな」

 少年が息を吐くが、もう火花が散ったりはしない。

 猫も溜息を吐くような素振りをしてから、「真面目よな、辰馬」と少年に声をかける。

「他の風使どもに任せないのは、お前なりの責任感の表れなのだろうな。難儀な性格をしているものだ」

「責任? これはただの趣味だよ」

 なんでもないように少年が答え、あくびをした。

「趣味で危険と戦う奴を、真面目というのだ。もっとも、こんなことを趣味と呼ぶ奴も珍しかろう」

 猫の指摘に、お前こそが真面目なのさ、と答えて少年は歩き出した。猫がその後ろに続く。

「辰馬よ、勉強はいいのか。テストとやらがあるのだろう」

「どうでもいいさ」

「どうでもいいのか?」

「高卒という学歴が欲しいだけで、ないならないで構うもんか、という気分だな。そういう意味ではニャス、お前は楽だな。俺も猫になりたいよ」

 嘆かわし気に猫が首を振るが、少年は応じなかった。

 少年の名前は、一ノ瀬辰馬。園木市にある一本木高校の二年生だが、ただの高校生ではなかった。

 世界を守るといえばかっこいいかもしれないが、彼にそこまでの力はない。

 むしろ、今にも高校を落第しそうな、実に無力な少年だった。

 辰馬はフラフラと歩いていく。その様は、夜の散歩の姿そのものだった。

 今の彼を見て、異常事態がついさっきに起こったとは、誰も想像できないだろう。



(続く)

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