■ その他 ■
女剣士の他愛の無い話さ
雨が降っていた。
霧のような雨である。
雨音どころか、音という音を飲み込んで雨自身が静寂を作り出している。
だが、それは私が室内にいるせいなのかも知れない。
窓から見える景色は、眠りから覚める意識のように白く靄がかり、拙い画家が描きだす幻想世界のようだった。
全て、ぼやけて見える。
硝子一枚隔てた外の世界。
だけど、今はまだ、その世界に挑むことはできなかった。
別に寝たきりな生活をしているわけじゃない。
私はそんなに病弱ではないし、窓枠の下で死に干涸びた虫の残骸を見て悲鳴を上げるような繊細な神経も持ってない。そんな乙女らしい乙女なら、私だって今頃は格好良い人と結婚して子供の一人や二人は作っているだろう。
それをしないのは、いや、そんな願望がないのはひとえに、私が一本の剣を頼りに命と体を張る剣士だからだ。
確かに、私も多くの剣士達同様、剣の腕を研くだけという目的のようであって目的にもならない目標を掲げている。そんな暇があるのなら、家事を覚えて夫に嫁ぎ、妻となって母となって家庭を支えたほうがまだマシなのかもしれない。実際、旅立つ直前まで両親にそう言われ続けていた。
女としての幸せを捨ててでも剣士となった理由は、はっきり言って私には無い。
自分の将来を自分で選ぶ自由は、ありがたいことに私にはあった。父も母も最後には私のわがままに折れてくれた。勘当という条件の上であったが、尊重してくれた。
理由はないが、覚悟はあった。
自分の故郷を捨てたのはその覚悟の一つの表れだと私は思っている。
くだらない事かもしれないけど。
「よう。一人か?」
使い古されて、色さえも褪せている二人用のテーブルの上に、琥珀の液体が半分だけ入ったグラスが置かれた。
声をかけられるよりも早く、テーブルに近づいてくる物好きな客の気配のせいで、私の意識は窓の外から室内へと既に引き戻されている。
それでも、もったいぶったように、怠く相手の顔を見たのは、僅かばかりの警戒を含めた、私の癖であった。
ここで相手がどんな奴だろうが、驚いたり怯えたりしたら、主導権は得られない。
互いの優劣は視線が絡んだ刹那で決まる。優位を勝ち取りたかったらここを押さえておけば、あとはなんとかなると場合が経験上多かった。
瞳の色を強め、無言の無表情で、相手を睨みつけるように爪先から上へと、舐めるように見上げた。ここで睨むのではなく、足を組み替えながら流し目を送ったりしたら、別の効果が得られる。これは、相手の反応を見るのが密やかな楽しみで時折やるが、今はそんな気分じゃなかった。
「なにようだい?」
意図して作り上げた、落ち着き、やや大人びた口調。
口調と声色を変えれば、年齢も多少誤魔化せる。埃と汗にまみれて生活しておきながら、媚びる気がないので化粧はしていない。だから、実年齢より老けて見られることを私は知っている。
軽く目を細めて、私は自分のほとんど中身がなくなっているグラスの縁を指の腹で撫でた。
相手は、見てからして軽そうな若者だった。
全身すっぽりとむらなく濡れているのは、部屋ではなく外から店に入ってきたのだろう。ご丁寧に毛先から水滴を滴らせているので、さっき来たばかりということが容易に想像できた。
黒い髪に黒い目。顔立ちからも貴族の血が流れているようには見えない、一般人。くたびれた旅装束と、最小限に押さえた装備、腰に提げられた一本の剣。よく見かける流れの剣士スタイル。
どこにでもいる駆出し剣士の若者だった。
滑るのを防止するために、剣の柄に巻き付ける皮紐のすり減り具合を除けば、だが。
この減り様、へらへらにこにこのくせに、そこそこ力のある同業者だと私の脳は判断を下す。
「あんたも剣士?」
相手は、私の威圧など意にかいした様子無く、懐っこく笑う。
気づかないわけではないだろう。わかるようにはっきりと、殺気さえ孕んだというのに、警戒する事無く笑うのは、それを受け流す術を知ってるから。
物思いに耽っていたところを引き戻された不愉快さから、勝手に相手の格を決め付けていた私は、その順位をあげてやる。
「ああ、そうだよ。なんだい、女が剣士をやるなんてけしからんとか言うのかい?」
言ってから、後悔した。
我ながらなんて卑屈な問いなのだろう。
男は、そんな私に軽く驚き、笑った。
「なんだ。結構クールそうに見えたから、ちょっと気後れ感じてたけど……おねえさん、相当酔っ払ってるね?」
微かに首を傾げ、私の顔色を伺うような仕草。
艶を失い所々色のはげた椅子を引き寄せて、許可無く私と相対するように座った。そうするのがさも当然と言わんばかりの自然さで。
「馬鹿におしでないよ。これでも私は強いほうさ」
まだ一杯しか飲んでない私は、反射的にそう言い返していた。それが、更に相手の笑いを誘うことさえ知らずに。
「本当に酔っ払ってるよ。ほら、目の焦点が合ってない」
自分の目を指差して、男はけらけらと笑い続ける。
初対面の相手にここまで笑われたくはない。正直、そう思い、脚を組み替えた。胸の奥でのむかつき、目の下に皺が筋を刻む。酔いの勢いもあって、私の不快は急速に臨界を目指して膨れ上がった。
ふいに、男の笑いが途切れる。
身を乗り出し、テーブルに両肘を乗せ、組んだ指の上に顎を置いた男は、一度表情を消した顔に、穏やかな微笑みをゆっくりと時間をかけて広げた。
突然の豹変に、拍子抜けし、臨界点を突破しそうだった激情が一瞬にして収縮する。
「ねぇ、ひとつ聞いていい?」
私が感情を落ち着かせたのを見計らったようなタイミングで問い掛けられる。
「何を見てたの? 窓の外。別の意味で目の焦点が合っていなかったから」
だから、知りたい。
「他人の好奇心を満たしてやるような趣味は持ち合わしちゃいないよ」
一蹴する。内心、動揺に心臓が早鐘を打っていた。
驚いた。男の目と声は、その質問が好奇心からではないことを如実に物語っている。
しかも冷たくあしらったのにめげる気配は微塵にもない。
「雨」
ぽつり、と男。
つられて私は窓の向こうへと視線を転じた。
「降っているよね」
ああ、と頷く。
相変わらず、雫さえ見えない霧のような雨。
「まるで、別の世界のようだ」
その一言に、喉の奥で息が詰まった気がした。
目が眩む。
思い描いている世界の内容は違うだろうが、この窓の向こうの光景をそんな風にとらえている人間が自分の他にいたことに驚きを禁じ得なかった。
「不思議だよね」
「何が?」
窓から自分に、視線を戻した私に男は満足そうににこりと笑みに満たない笑みを作った。
「だってさ。この窓の硝子一枚を隔てた向こう側は、もっと平和で穏やかな生活が約束されているのに。だからこんなに羨ましく時には幻想や夢みたいに目に映るのに、俺はこっち側にいるんだ。いつ、命を落とすかわからないのに」
いつ、命を落とすかわからないのに。
胸の内で小さく反芻した。
私がいるのは、主に冒険者を歓迎する酒場。時間帯も時間帯のために店にいる連中全てが――店主を除き――個性に富んだ冒険者と名乗る者達だ。
冒険という空気に包まれ、それ一色に染まるひとつの小さな世界。
「幻想を抱き、感傷に浸るのは今だけ。雨が上がったらそこは、この窓の向こうは、退屈で窮屈な日常と言う名の世界に戻ってしまう」
私は初めて男の顔をしっかりと見た。ぽつぽつと語りだした私に、驚き目を瞬かせるその顔を。
「剣を手に取った理由はない……だけど…」
だけど、普通の幸せにも興味はなかった。
今は、生きているという実感が欲しかった。
生き抜くための覚悟がなんなのか知りたかった。
そして、慣れすぎてしまった。
この生死隣り合わせの世界に。
だから、雨というベールで隠され、ぼやけ見えない日常に、戻る勇気がなかった。
退けられた紙束 保坂紫子 @n_nagisa
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