‘He’ の悲劇〜150年の恥辱〜

土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)

第1話 ‘He’ とはなにか。彼でもヘリウムでもない。

 海外の某日本語学校での会話。


「おや、今時珍しいですね。エアメールですか、サブロウ先生」


「ええ、ヨシノ先生。実家にクリスマスカードを送ろうと思いましてね」


「サブロウ先生のご実家はたしか北陸の・・・・・・」


「そうです。石川県の金沢です。ヨシノ先生は東京でしたね」


「ええ、多摩の田舎の方ですけどね」


「なにをおっしゃいますか。うちなんて、金沢のはずれの山沿いだったから、子供のころ近所には『クマに注意!』の看板がありましたよ」


「それはすごいですね。負けました」


「ふっ。勝ってしまいました」


「あれ、サブロウ先生、そのご実家のアドレス、なんで ‘He’ で始まっているんですか?」


「・・・・・・」


「ちょっと、サブロウ先生。どうしたんですか!そんなに怖い顔をして。先生、大丈夫ですか!」


「できることなら、ヨシノ先生にだけはこのことを知られたくはなかった。本当に残念です」


「サブロウ先生、一体どうしたんですかt!」


「ついに、私の秘密を、そして我が故郷、金沢の秘密を明らかにするときがきてしまいました」


「サブロウ先生・・・・・・」


「あれは今を去ることおよそ150年前、明治6年、西暦1873年のことです。明治政府は国家の財政を安定させるために、国民の土地所有権を認めるかわりに、収穫高ではなく地価に課税するという税制改革、『地租改正』を行いました」


「サブロウ先生、ちょっとどうしたんですか!」


「お願いですから、もう少し、もう少しだけ聞いていてください!これから、大事なことを言わなければならんのです!」


「は、はい!」


「課税のため土地の所有者を明らかにする必要があった明治政府は、それらの土地の小字(こあざ)として、カタカナの『イ、ロ、ハ』などをナンバリングとして順番にふったのです。さしずめ現代ならば1丁目、2丁目というところです。昔は『イロハ』でよかったのかもしれません。だが恐るべきことに保守的な金沢の人々は、田舎の地番については150年前のまま『イロハ』を現代も使い続けているのです」


「ええっ!」


「ヨシノ先生、いろは歌はわかりますよね」


「ええ」


「では順番に言ってみてください」


「いろはにほへと ちりぬるを・・・・・・」


「ああ、その通りです。もうけっこうです。ところで江戸の町火消しも『め組』を含む『いろは四八組』で有名ですが、いろは48文字の全てが使われたわけではありません。」


「そうなんですか?」


「ええ、『ん』は『終わり」に通じるから縁起悪いので『ん組』の代わりに『本組』に、『ひ』は『火』に通じるから火消しにならないんで『ひ組』の代わりに『万組』に、『ら』はなぜか男性器である『魔羅』に通じるので『ら組』の代わりに『千組』に変更されたのです」


「よい意味ではないと、使われなかった仮名があったのですね」


「そうです。上品なヨシノ先生にはわからないかもしれませんが、使われなかった仮名は『ん、ひ、ら』の他にもう一字あったのです」


「なんでしょう。血液の『血』につながるから『ち』でしょうか?」


「いいえ、ちがいます。『ち組』と言うのは存在していました」


「では、いったい?」


「『へ』です!」


「へ?」


「そう、『へ』なんです。たしかに仮名一文字で意味を持つことばの中でこれほど締まらなくて下品なことばはありません!」


「は、はあ」


「『へ』は放屁、つまりおならを意味する『屁』に通じるから、あまりにもみっともないってことで、『へ組』の代わりに『百組』の名称が採用されたのです」


「そ、そうだったのですね」


「いいですか、江戸町火消しですら、そういったまともな感性でもって『へ』を欠番にしたのです。なのに、明治政府はそのような感性をまったく持ち合わせていなかったのです!それが最大の原因です。これは許すまじきことです!」


「じゃ、じゃあ、まさか」


「そのまさかです。明治政府の役人は何も考えず集落の名前に続く地番に『イロハ』を機械的に振り分けていったのです。その結果、悲劇が起こりました」


「そんな」


「そうです。地番の6番目には機械的に『へ』の文字がふられたのです」


「いやああああああああ!」


「それは悲劇です。たとえようもないほどの悲劇です。ほんとに嫌な思いをしました。友達に自分の住所を教えるのがほんとに恥ずかしかったんですから。友達だけでなく、親戚にも散々からかわれました。『サブロウの住所は〇〇町屁をこいた〜』ってね」


「住所に『へ』ですか、さすがにないわー」


「でしょう?全くなんで150年間もそんなカッコ悪い住所を使い続けているんだか理解できません」


「でも、それを変えようという運動とかはしなかったんですか?」


「さあ、聞いた事はありませんね」


「なにか、それができない大きな問題があるのでしょうか」


「いや、だって、色々とめんどくさいじゃないですか」


「・・・・・・よくわかりました。その土地に住む人々の意識が150年間変わらないから、地番の『へ』も150年間変わらないんですよ」








 古き伝統を愛する街、金沢。


 そこに住まう人々はちょっとだけ他所よりも古いものを大切にしているような気がする。


 そんな故郷が私は大好きだ。








「うううう。『へ』は嫌だけど面倒も嫌だよなあ。誰か変えてくれないかなあ」


「サブロウ先生を見ていると、きっと22世紀になっても金沢に『へ』は残り続けると確信できますね」






おしまい

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‘He’ の悲劇〜150年の恥辱〜 土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり) @TokiYorinori

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