彼方の約束

由希

彼方の約束

 伝承に曰く。

 この国で最も高い山の頂は、神の住処である。神は遥か高みより、下界を常に見守っている。

 そして自らの元を、勇者が訪れた時。神はその願いを、何でも一つだけ叶えてくれるのだという——。



「……お前が、この山に住まうという神か」


 豪奢な椅子に腰掛ける目の前の壮年の男に、燃えるような赤毛の女剣士は言った。

 男は人の姿をしていたが、明らかに人とは異なる特徴を備えていた。青黒い肌、額の三つ目の目、こめかみから生えた山羊のような角。いずれも、人の有し得ないものだ。

 だが神と呼ぶには、男の姿は奇妙だった。身に付けているものは薄汚れた腰布だけで、痩せ細った肉体は両手両足を椅子に拘束され、身動きが取れないようになっていた。

 それは、神と言うよりは、まるで罪人が如き姿だった。


「……愚かな。また我欲にまみれた者が来たか」


 男が口を開く。その声は静かで重く、恐れすら感じるような威厳に満ちていた。


「神に願えば、何でも願いが叶うと? 笑止。人の愚かさは、どれほど時が経とうとも変わる事なし」


 その言葉と共に、場の空気が揺らいだ。山頂の冷え切った空気が一気に熱を帯び、灼熱へと変わる。


「どうせこの有り様ならば、自分の身は安全だと思ったのだろう。笑わせるな。ちっぽけな人間一人葬るのに、手も足も要らぬ。ただこの目で睨んでやれば、それで終わる」


 男の三つの目に、強い殺気が満ちていく。常人であるならば、それだけで死を確信させるほどの殺気だ。だが。


 ——それを一身に受ける女剣士は、ただ、深い笑みを浮かべていた。


「これはこれは。長生きしすぎて随分と耄碌もうろくしたらしいな、魔王ゼファー」

「……っ!?」


 女剣士の口にした名に、初めて男の表情が変わる。魔王ゼファー。それは今や誰も知る事のない、かつての男の呼び名。

 男は、魔王ゼファーは今から五百年前、当時虐げられていた魔族を解放すべく立ち上がった魔族の英雄だ。その戦火は世界中に広がり、治まるまでに百年もの歳月を有した。

 戦いに勝利したゼファーは、世界の支配者となったが——人間だけでなく魔族の事も厳しく律した為、やがて守ったはずの魔族に疎まれるようになっていく。そして再び争いが起こり、敗れたゼファーはこの場所へと封印された。

 その後魔族は人間に圧政を強いるようになり、やがて人間達の蜂起を受け種そのものが絶滅し、魔族という種がいた事実ごと歴史から抹消され——かつての歴史を知る者が誰もいなくなると、ゼファーはいつしか、名も無き神として扱われるようになったのだった。

 そのゼファーが魔王であった事を、そして何より名前を知っている。この時初めて、ゼファーは目の前の人間に対して関心を抱いた。


「貴様は……何者だ」

「解らんのか。……まあ、無理もないかもしれんな。これだけ姿が、まるきり変わってしまっては」


 自嘲気味に笑う女剣士に、ゼファーの中である一つの仮説が生まれた。この口調、この仕草、そしてゼファーを知っている。記憶の中に、該当する者が一人だけいる。

 かつてゼファーが唯一、友と呼んだ男。人間でありながら、誰よりも心を許せた存在。


「ルード……まさかルード……なのか」

「ああ。久しいな、ゼファー」


 震える声で、ゼファーが呼んだ名に。女剣士は、ルードは小さく頷いてみせた。



 ルードは五百年前、人間達に勇者と呼ばれていた男だ。当時魔族最強と謳われたゼファーと互角に戦い、魔族の侵攻を阻む最も大きな壁として立ち塞がった。

 しかし彼自身は決して、魔族を嫌っても憎んでもいなかった。ルードは魔族の苦しい現状をどの人間よりも理解し、人間と魔族が共存共栄出来るよう働きかけていた。

 立場上は敵同士であったが、そうした事情から、ゼファーはルードと何度も酒を飲み交わした。他の者には話せないような事も、彼になら話す事が出来た。


『ルード、頼みがある。もし私が誤った道を進んだならば……その時はお前が、私を殺してくれ』


 ある日ゼファーは、ルードにそんな事を言った。いつも通りの二人きりの、静かな酒宴の最中だった。

 当時のゼファーの心には、漠然とした不安があった。自分のしようとしている事は、本当に正しい事なのかと。

 だからこそ、最も信頼出来る者に。目の前の友に、判断を委ねたのだ。

 ルードはその言葉に、さして驚くでもなく。いつも通り静かに、盃を傾けて。


『……さてな。そうするかどうかは、その時が来たら決めるさ』


 と。そう答えて、ただ笑ったのだった。


 ——だが。ゼファーのこの願いが果たされる事は、ついになかった。

 ルードは殺された。彼が守ろうとしたはずの、人間達の手によって。

 当時の人間達の多くは魔族との共存など考えておらず、皆殺しにしようとしていた者がほとんどだった。そんな彼らにとって、ルードのしようとしていた事は目障りでしかなかった。

 彼らはルードを脅し、追い詰め——最後は魔族と通じ合った裏切り者として、大々的に処刑したのだった。

 ——もっとも。人間達のこの行いがゼファーの逆鱗に触れ、結果的に人間側の敗北を招く事になったのだが。



「どういう事だ、ルード。お前が何故……それに、その姿は……?」

「生まれ変わり、という奴らしい。俺自身、自分がルードである事を思い出したのはごく最近だ。今の俺の名はアイリスと言うが、このアイリスは婚約していた男に裏切られ、国外追放を受けてな。余程絶望したのだろう、そこで俺の記憶が目覚め人格が入れ替わり、今はアイリスの代わりに生きているという訳だ」


 淡々と説明するルードだが、ゼファーには驚きばかりだった。生まれ変わり。物語として聞いた事はあったが、まさか本当にそんな事が起こり得るとは。


「記憶を取り戻した俺は、まず世界中を旅した。その過程でここが俺が生きていた時代の五百年後の世界である事、そしてかつての歴史が今の歴史から抹消されている事実を知った」

「……ここに来たのは?」

「神とやらが、俺の時代に生きた誰かなのではないかと疑ったからだ。五百年前の世界に、そんな伝承は存在しなかった。強いていえばそれがお前であって欲しいという願いはあったが……まさか、本当にお前だったとはな。俺の勘も、なかなか捨てたものではないという事だ」


 かつての彼とはまるで違う顔で、かつてと同じ笑みを浮かべるルード。それを見れば、目の前の女が確かにかつての友なのだと実感するには十分だった。


「……ならば、かつての約束は覚えているか。ルードよ」


 気付けば、ゼファーはそう言っていた。五百年の間どこにも行けなかった思いが今、ようやく形になった気分だった。


「人は愚かだ。だが魔族もまた愚かだった。そして何よりも愚かなのは、相手を力で屈服させる事でしか何かを為せず、結果、魔族という種を絶滅させる引き金を引いたこの私だった」


 ゼファーはずっと、裁きを求めていた。だが同時に、自分を裁けるのは心から認めた相手のみだとも決めていた。

 やっと現れたのだ。ゼファーを裁くに、これ以上ないほど相応しい存在が。


「きっと私は、この瞬間の為だけにこれまで生き永らえてきたのだ。他の誰でもない、お前に罰される為に」


 ゼファーが、初めて笑みを浮かべた。それは見た目以上の老いを感じさせる、しかし安らかな笑みだった。


「約束の時は来た。さあ、ルード、約束を果たしてくれ」

「……そうだな」


 ルードが頷き、腰の剣を抜く。それを見届けるとゼファーは、ゆっくりと目を閉じた。

 死への恐怖が、全くない訳ではない。だがそれ以上に、やっと終わらせられるという安息感の方が強かった。

 後悔ばかりの人生だったが、最後にこうして友と再び巡り会えたのだから、悪くない。ゼファーの胸中は、そんな思いで満ちていた。


 ——パキン。


 その時ゼファーの耳に、小さく乾いた音が響く。ゼファーが何事かと目を開けると、ルードがゼファーを拘束する枷を剣で破壊している姿が視界に飛び込んできた。


「……ふむ。魔力の鎖も、純粋な物理には案外弱いものだな。正直駄目元ではあったが」

「ルード、お前、何を」

「何と言われても、お前の封印を解いているんだが?」


 事も無げに言い放ち、ルードはどんどん枷を壊していく。そして間も無く、ゼファーをその場に縛るものは何も存在しなくなった。


「……何故……」

「魔王ゼファーは、もうどこにも存在しない」


 戸惑うゼファーに、剣を納めながらルードは言った。


「この世界に最早、かつてのしがらみは何も存在しない。そこに過去の罪だ何だを持ち込むのは、実に馬鹿らしいと思わんか」

「し、しかし」

「それに俺は、あの時言ったはずだぞ」


 顔を上げ、ルードは笑った。それは精悍な戦士のようにも、慈愛に満ちた聖女のようにも見えた。


「お前の願いを聞くかは、その時が来たら決めると。俺はお前の願いを跳ね除け、この世界でお前と、やっと巡り会えた我が友と共に生きていく事を望んだ、それだけだ」

「……っ」


 皺の刻まれたゼファーの三つの目が、泣きそうに歪んだ。五百年の時を経てなお自分を迷わず友と呼ぶルードが、心から眩しかった。

 自分はこの世界で、友と共に、自由に生きていいのか。喜び、恐れ、希望、不安、その他様々な感情が総て一つに混じり合った、言葉に出来ない感情が心の奥底から溢れた。


「さて、まずは山を降りて街に行き、お前の服を見繕うか。そうそう、幻術の類は使えたな?」

「あ、ああ」

「ならばその姿を、少しでも人間らしく見せておけ。そのまま人里に出たら、大騒ぎになる事受け合いだからな」


 一方的に畳みかけながら、ゼファーがこの世界で生きる計画を組み立てていくルードに、ゼファーの口から苦笑が漏れた。互いに責任ある立場だった頃は解らなかったが、この少し強引なところが彼の本来の性格であるのかもしれない。

 だが、そんなルードの態度が、今のゼファーにとって何よりも救いであるのも確かだった。


「そうそう、これからは俺をアイリスと呼べよ。今の俺はルードではなく、あくまでアイリスなのだからな」

「……解った、アイリス」

「その調子だ。俺達の関係は……夫婦にでもしておくか?」

「おい、それはさすがに見た目の年の差がありすぎるだろう」

「すごく年の差婚という事に」

「却下だ。何か別の案を考えてくれ。大体お前と夫婦などゾッとしない」

「不服か? 自分で言うのも何だが美人だぞ、今の俺は」

「中身の問題だ、中身の!」


 もう会えないと思っていた友との、久々の軽口の応酬を楽しみながら。ゼファーは己のこれまでに、同時にこれからに、深い思いを馳せた。





fin

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彼方の約束 由希 @yukikairi

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