溶けたアイス

うたた寝

第1話

 昨日、一昨日と会社で寝泊まりが続いていたせいか、今日は定時前にも関わらず帰宅の許可が出た。帰宅ラッシュにはまだ早い時間帯のため、電車内は空いており、座ることもできたが、座ったら最後、寝てしまって起きられないと思ったため、彼女はドアの脇に立って景色を眺めていた。

 普段からあまり電車内ではスマホを弄らない彼女ではあるが、今日はまた少し特別だ。朝早くに出社して、夜遅くに帰る社会人にとって、夕焼けを見るタイミングというのは中々無い。いつも乗っている電車ではあるが、いつもは見られない景色に少し感慨深いものがある。

 若い人なら写真でも撮ってSNSに挙げるのだろうか? いや、景色のいい所の夕焼けであればいざ知らず、電車の車窓からの夕焼けなんか挙げないか、と言うほど歳を取っていない彼女がそんなことを考えていると、電車が最寄り駅へと着いた。

 この駅に戻って来るのも実に2日ぶりである。毎日出勤に使っている駅に対して、懐かしい、という感情を抱く社会人もそういまい。頻繁にあるわけではないが、3,4カ月に一回くらいこういう繁忙期が着て、出勤した日に出勤した駅に帰って来られない時がある。それでも会社に泊まったのは今回が初ではあるが。

 駅のホームから出て、そういえば会社から帰る連絡を同居人にし忘れたことに気付いた彼女はスマホを取り出し、今更ながら同居人に駅に着き、今から帰る旨を連絡しようかと思ったが、途中まで文字を打ち込んだ後、その指を止めると、送信手前まで書き進めていた文字を全て消していく。どうせここまで来たのだ。せっかくなのでちょっとしたサプライズとして突然帰って驚かせてやろう。

 彼女には二人暮らしをしている同居人が居る。交際してから3年、同居を始めて1年。正直、彼女としては結婚もそろそろ視野に入れたいところではあるが、子供を作る、というところまで視野に入れると、少し及び腰、というのが彼女の本音だ。子供が嫌い、というわけではない。今の状態で子供の面倒まで見られるのかが自信が無い。

 終電で帰る、会社に泊まる、は頻繁ではないにしても、それでも残業・土日出勤自体は比較的多い会社だ。お金はちゃんと支払われているのでブラック企業とまで言う気は無いが、それでも拘束時間が大分長い会社であることに変わりはない。その中でも何とか時間を作って、自炊や洗濯、掃除などの家事をこなしてはいるが、今は自分の世話だけで精一杯、という部分がある。子供ができた時に果たしてちゃんと子供の面倒を見る時間を作れるのか、ここが一番の不安要素だ。

 結婚してもすぐには子供は作らない、という選択肢もあるだろうが、彼女としてはそれであればあまり今結婚する必要性を感じない。実際、彼女は交際している彼とのそういう行為は今のところ全て断っているくらいだ。今の時代、古臭い思考だと言われてしまえばそれまでだが、そういう行為は結婚後にしたい、というのが彼女の考えだ。

 お酒の席でつい酔って友人たちとそんな話をした時、『よく彼氏我慢してるねー』なんて言われたものだった。同年代の友人たちからしても、交際してそれだけ時間が経っているにも関わらず、肉体関係を持たないということは彼氏が可哀そうに見えるものらしかった。

 そういうものなのだろうか? 彼女としては子供を作る行為だと思っているので、あまり共感できかねる意見ではあるのだが、交際経験が無駄に多い友人たちの言葉は経験の少ない彼女には参考になるかもとは思いつつ、この友人たちは中学生くらいの頃からいかに早く初めてを捨てるかを競ってたような奴らなので、参考にはならなそうだなとも思いつつ、話半分で聞いてはいる。

 断り過ぎたせいで察したのか、彼氏の方も特に言ってこなくなったし、彼女としても自分から言うのはちょっと、という部分でもある。そうなってくるとやはり、結婚した辺りがそういうことをするきっかけにはなるのかもしれない。

 普段あまりこういうことは考えなかったハズなのだが、やはり今日は疲れているのだろうか。そんな思考が頭をずっとグルグル回っている。いかんいかん、と思考を振り払おうとした時、一組の親子が視界に映った。

 結婚式場にもウェディングドレスにも、正直あんまり興味は無いが、ああいう風に親子が一緒に手を繋いで歩いている光景には少し憧れる。母性本能の目覚めなのかは分からないが、子供が欲しいという感覚が年々強くなってきた。以前は子供を作った友人を見ても何とも思わなかったのだが、最近は羨ましく感じてくる。

 あんまりずっと見つめていると不審者として捕まりそうなので、すぐに視線を外したが、距離はまだ近かったので親子の会話が聞こえてきた。どうやら子供が習い事のプールで頑張ったのでご褒美にアイスを買ってもらうらしい。

(アイス、か……)

 普段そんなに甘い物を食べる方ではないが、会話を聞いていたせいか無性に食べたくなってきた。あるいは純粋に疲労から脳が糖分を欲しているのかもしれないが、彼女は帰り道の途中、コンビニに寄ることにした。

 普段であればコンビニなどよっぽどの非常事態でなければ彼女は利用しないが、流石に二日間会社に寝泊まりしていた人間としては、帰り道から逸れるスーパーに寄る元気は無い。

 ただでさえコンビニには買う予定の無い物を買わせる魔力があるのに、頭も回っていない空腹のこの状態では冷静さを欠いて不用意な物を買いかねない。そのため、最短で目的の場所まで行き最速でコンビニを出ようと思う。

 蓋を開けてから悩むと中のアイスが溶けてしまうかもしれないので、蓋は開けずに中を覗き込みアイスを物色する。お目当てはカップアイスなのだが、同じ味でも3種類くらいある。メーカーのブランド力か原材料の差か知らないが、一番高い物は一番安い物の3倍くらいする。だからって3倍美味しいってことは無いだろうなと悪態付きつつも、たまにはいいかと、いつもなら絶対買わないであろうアイスを2つ手に取る。

 二人居る部屋に自分のアイスだけ買って帰って、一人で食べているのも何か嫌だし、ここ数日は会社に泊まっており、その前も深夜残業などで彼の起きている時間に帰れないなど、同棲しているにも関わらず、中々顔を合わせられていなかった。アイスをきっかけに久しぶりに二人でゆっくり話す時間でも作ろうかと思う。

 二人暮らしする際に作った共有の口座から引き落とされるクレジットカードもあるが、今日は奢りだとスマホを取り出し、自分のアプリで決済をする。エコバッグを取り出そうか少し悩んだが、アイス二つくらいならわざわざ出すこともないかと、バッグの中に直接入れる。

 コンビニを出ると、横断歩道の信号が点滅していた。普段であれば焦らず次の信号を待つところだが、今はバッグにアイスを入れている。そんなにすぐ溶ける物でもないだろうが、小走りになって信号が変わる前に渡り切る。信号を渡ってしまえばもうすぐ近くが暮らしているマンションの敷地内である。

 マンションの入り口に入ってすぐにある郵便受けを確認した後、エレベーターの方をチラリと見たが、タイミング悪く行ってしまった後らしい。上の方の階でエレベーターが止まっている。ボタンを押してエレベーターを呼ぼうかとも思ったが、普段から健康のために階段を使うようにしているので、その辺りは特に抵抗を見せずに階段で上がっていく。

 目的の階まで上がり、目的の部屋の前まで向かう。ようやく着いたという安堵からか、会社に連泊した疲れがどっとと出てきた。寝る前にシャワーで汗くらい流そうかとも思ったが、この疲労度だとシャワーを浴びている最中に寝かねない。すぐ寝よう、そう思いながら彼女はバッグに手を入れ、部屋の鍵を探していると、

「あっ……」

 サプライズだ何だと言いつつ、部屋の前でバッグに手を突っ込んで今気付いた。部屋の鍵が無い。え、落とした? とちょっと不安になったが、そういえば数日前帰宅直前に雨に打たれ、ずぶ濡れにさせられたことがある。その時、濡れたバッグから中身を一度全て出したから、恐らくその後に入れ忘れたのだろう。次の日は物音を聞いて彼女の出社前に起きてきた同居人に鍵を閉めてもらい、その後2日間帰れなかったからずっと気付かなかったのだろう。

 バツの悪そうな顔はしつつも、部屋に入れないのでは仕方がない。彼女は部屋のチャイムを鳴らす。地味にこのチャイム鳴らしたの初めてかもな、と彼女が考えていると、

「……?」

 少し違和感を覚えた。そんなに広い部屋では無いハズなのだが、中々ドアが開かない。マズいな、ひょっとしてどこかに出かけているかな、と一瞬彼女の背筋に嫌な汗が流れたが、いや、それならそれで連絡くらいあるな、と思い直す。連絡が無いところを見るに、どこか遠くに遊びに行ったとは考えづらい。出かけているとしても近くを散歩くらいだろう。であれば、夜まで部屋の前で待ちぼうけ、ということは無いハズ。待ってもせいぜい10分、20分程度。待てない時間ではない。バッグのアイスだけはちょっと気がかりではあるが。

 ただまぁ念のため、もう一回くらい押してみるか、と彼女がチャイムへと指を伸ばしたタイミングで部屋のドアがゆっくりと開いた。


 寝不足と疲労でロクに回っていなかったハズの頭が、その時だけ嫌に冴えていたのを、彼女は今でも覚えている。少しだけ開いたドアの隙間から無数の思考が流れ込んできた。


 怯えるようにしてゆっくりと開けられたドア。それは決してドアの前の人物を気遣ったわけではないだろう。少しでも開ける時間を遅らせ、少しでも落ち着きたい、という気持ちの表れだったのだろう。

 家の中ではだらしない恰好しかしないハズの彼の服装が、まるで誰かと会う外出時のようにしっかりとした服装をしている。だが何故か、その服装は不自然に乱れてもいる。ボタンがハマっていないのもあるし、シャツも一部ズボンの中に入っていたりする。脱いでいた服を慌てて着たらこんな感じになるだろう。

 玄関にはちょうど靴一足分だろうか、不自然に空いているスペースがある。きっと見られたくない靴を慌てて隠したのだろうな、とは思うが詰めが甘い。であればそのスペースは消しておくべきだったし、何より誰かに見られないように隠したのであろう彼女の靴は元に戻しておくべきだった。

 彼は香水を2種類使い分けている。一つは仕事用。もう一つはプライベート用。プライベート用の方は以前彼女がプレゼントしたものだ。プライベートとは言っても、休みの日にいつも付けるようなものではない。彼女とデートする時などに付けてくれていた、思い出の香り。そこに、記憶には一致しない別の香水の香りがほのかに混じっている。


『彼氏可哀そう』。そう以前友人から言われた言葉が耳の中に大きく響いてきた。


 ドアを少し開けた状態で静止画のように止まっていた彼女の光景がゆっくりと時間を取り戻すようにして動き出す。ドアを完全に開かないのは心理的に彼女を部屋へと招き入れたくないからか。ドアを手で押している状態で彼は口を開く。

「ビックリした……。帰るって連絡無かったからさ」

 連絡してたらどうなっていたのだろうか? もう少し上手く隠してくれていたのだろうか。なら、連絡すれば良かったかもしれない。いや、結局は早いか遅いの差だけか。

「ああ、ごめん……。疲れてて忘れてた……」

 そう言って彼女は一歩前に出て部屋に入ろうとする。止めるのも不自然だから何もできないのだろうが、それでもせめてもの抵抗なのか、彼はゆっくりと動いて退いた。

 普段なら開いているハズの部屋のドアが今は閉まっている。恐らく、そこに居るのだろう。そちらに行きたい衝動に駆られるが、同時に足が酷く重たい。行けば終わり。それを体が分かっているのだろう。

 もうロクに見ることもできない彼の顔から目を背け、彼女は相手が望んでいるであろう言葉を口にする。

「ごめん……、疲れたからちょっと先にシャワー浴びるね」

 顔は見えないが声音で分かる。嬉しそうだ。切り抜けられる、きっとそう思っているのだろう。彼女はドアが閉まっている部屋へとは向かわずに、お風呂場へと直接向かう。この行動だって、本来であればおかしい。スーツやバッグくらい部屋に置いてから向かうだろうし、何より着替えなどを浴室に持って行っていない。それが不自然、ということに頭が回らないくらい、お互い冷静ではないのだろう。

 彼女の方はお風呂場に入ってから着替えが無いことには気付いたが、下手に取りに行くわけにもいかない。というか何なら本当に入る必要など彼女には無い。ここで時間を潰せればそれでいい。

 だが、彼女は疲れた手つきで服を脱ぎ、浴室へと入った。出た時髪などが濡れていなければ不自然に映る。着替えはその後、忘れた、とでも言って取りに行けばいい。仕事で彼女が忙しいことは向こうも知っている。加えてここ数日会社に泊まり込んでいた。多少おかしな行動を取ったところで、疲労のせい、ということにできる。久しぶりの自宅でのシャワー。普段であればもう少し感慨深いハズなのだが、今は憂鬱でしかない。

 手で温度を確かめもせずにいきなり頭から浴びたものだから、シャワーの水はまだ冷たい。ああ、いや、そもそも給湯器のスイッチを入れていないのか、ということに気付いたが、もうどうでもいいな、と水をそのまま頭から浴び続ける。

 シャワーを浴びるだけだ。本来であればそれほど時間は掛からない。だが、今だけは必要以上に時間を掛けてシャワーを浴び続ける。迂闊に早く出てしまって遭遇してしまう可能性は避けたかった。

 閉まっていた部屋のドアが開くような音がした。それを聞いて彼女は蛇口をひねると、シャワーの水圧を上げ、水の音で外の音が聞こえないようにする。彼以外の足音が聞こえてきてしまえば、言い訳はできない。


 カバンに入れたまま忘れられていた二つのアイスは、バッグのなかで静かに溶けていった。

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