恍惚

ナナシマイ

断絶が起こるまでの

 思えばそれは、予感めいたものであった。

 優秀で信頼のおける部下のふとした視線や、予想よりも早い段階で目標を達成した前期の成績。活気のある職場で囁かれる、噂話のようなかすかなノイズ音とか。

 小さな小さなそれらを拾って、妙な責任感で抱えていたから。

 だからわたしは、きっと――。


       *


「僕の、休日の過ごしかた、かい?」

 年上で、社内でもトップクラスの技量を持つが、とある事情によりわたしの部下となっているジジェフュールさんは、整った顔を丁寧にやわらげながら、首を傾げた。

「はい。普段はなにをして過ごすのかとか、趣味とか。勿論、言うのが嫌でなければでよくて。その……」

 これではなんだかお見合いみたいではないかと我に返り、少しの逡巡のあと、やはりここは正直に言うべきだとわたしはお腹にぐっと力を入れた。彼は部下だけれど、事情が違えば会社を率いるような立場にいてもおかしくないような人なのだ。

「ジ地域からいらした人は、みんな優秀です。でもそちらに学校はありませんし、受けてきた教育はわたしたちと同じでしょう? だから、休日の過ごしかたになにか秘訣があるのかなと思って。わたしはリーダーになったばかりですし、凡庸ですから、できるだけのことはしたいんです」

「……凡庸、ね。うん。ジ、それじゃあ今度の休みにでもジ地域へ来るかい? 案内してあげるよ」

 ジジェフュールさんは考えごとをするように目を細め、なんてこともなくお誘いの言葉を口にした。そういえばジ地域へ行ったことのある人というのは聞いたことがないなと思いつつ、わたしは思わぬ機会に一も二もなく飛びつく。

「え、いいんですか?」

「大したものはないと思うけれどね。ツツハコさんから見たら新たな発見があるかもしれない」

「……か、カメラを持って行っても?」

「そんなに慎重にならなくても、大丈夫だよ」

 あはは、と声を上げて笑ったジジェフュールさんに恥ずかしくなりながら、ジジジわたしは週末の約束を取りつけたのであったジジジ。


 そもそも首都を出るときは転移扉を使用するのが一般的なのだが、ジ地域は特別で、転移扉からでしか入れないのだという。この国はそんなに大きくないはずだけれど、地図に描いてあるその場所へ向かってどれだけ歩いても、ジ地域にはたどり着けないのだ。

 わたしは待ち合わせ時間の少し前に扉商店街の入り口に到着した。さてどこで待っていようかなと辺りを見回すと、ひらりと手を振ったジジェフュールさんの姿を見つける。

「すみません、お待たせしてしまいましたか」

「いや、今来たばかりだよ。落ち着く前だったからすぐに見つけられたんだ」

 決まり文句を嫌味なく言えてしまうジジェフュールさんに、わたしはなんとか微笑みだけを返す。

 そんな彼は、濃いグレーが上品なセーターに薄くチェックの入った赤みのあるパンツを合わせ、鮮やかな紫色のジャケットコートを羽織っている。ちょっとしたパーティーならそのまま出られそうな格好だ。普段のスーツとは違った私服姿を楽しみにしていたのだが、予想外に華麗な雰囲気に戸惑ってしまう。ジジッ。

 対するわたしは動きやすいパンツスタイルで、裾へ向かうほどに深みを増す夜明け色が一応お気に入りのセットアップ。仕事の一環だという意識があったおかげで、なんとかジジェフュールさんの品位を損なわない程度の服装を選んだ昨晩の自分を褒めてやりたい。

「うん、やわらかい雰囲気もいいけれど、今日みたいにキリリとした格好もよく似合うね。……ただ、その髪は下ろしておいたほうがいいかな」

 気合を入れるためにきゅっとひとつに結わいた髪だったが、ジジェフュールさんの好みではなかったらしい。特にこだわりがあったわけでもないので「そうですか」と言って髪留めのリボンをほどく。

「……念のために言っておくけれど、似合わないわけではないからね? うちの事情なんだ」

 であればなおさら仕方ない。詳しくは知らないけれど、ジ地域にはいろいろな事情がある。それをこれから調べに行くのだ。

 そんなこんなでわたしたちはジ地域へと繋がる扉を管理しているお店に到着した。ジジェフュールさんは「二人ね」と後ろに並ぶわたしを示しながら、店員にカードを渡した。近年ではサブスクリプションサービスに加入している扉も多いが、ここは昔ながらのカード契約で運用しているようだ。

 情報を確認した店員にカードを返してもらい、扉の間へ入る。

 そして思わず、わ、と驚きを漏らした。

「時の女神、なんですね」

「そう。今どき珍しいでしょ」

 真っ暗な部屋の中に扉が浮かび上がるのは見慣れたものだ。

 驚いたのは扉に描かれた紋様。土地と土地を強制的に繋ぐものなので、そこには目印としてその土地にとって重要なものが描かれる。よって昔はその信仰にしたがった神や精霊、自然物などが描かれてきたが、今は効率よくするために有力な一族の印や特産品、土地そのもののデータを記した扉、なんてものもある。

 そんな風潮の中でこの女神像。こうして時間を大事にするからジ地域の人は仕事が早いのかな、なんて予想する。勿論自分でも頑張るつもりだが、これからの彼らにも期待大だ。


 ジ未ジ来ジのジこジとジをジ考ジえジるジなジんジて、ジ時ジのジ女ジ神ジへジのジ冒ジ涜ジだ!


 さて、扉の向こうにはどんな風景が広がっているのだと年甲斐もなくワクワクしていたが、転移をくぐったそこは、わたしの目にも普通に映る、ごく一般的な街のようであった。ぱっと見で特に行きたいところが思いつかなかったので、案内をしてくれると言っていたジジェフュールさんにお任せしようと振り返り、ぎょっとする。

「ジ、ジジェフュールさん?」

「ん? ああ、『これから着けるものが欲しい』と言ってごらん」

 わたしの驚愕に気づいているのか、いないのか。彼は……真面目な顔でそんなことを言う。だけどわたしも混乱でうまく頭が回っていなかったので、従うしかなかった。

「これから着けるものが欲しい、です」

「よし。じゃあ行こうか」

「えっあの」

 あまりに普通にしているものだから一瞬そういうものなのかと納得しかけて、いや違うだろうと首を振った。

 ……だって、ジジェフュールさんの頭が、とても仮面なのだ。

 鼻というか、嘴というか、そんなふうに尖りの強調された仮面。それが顔に、というより、頭の代わりのようにそこにあった。ジャケットコートと同じ鮮やかな紫色で、しかしこちらにはエナメルの光沢がある。ジイジイ。混乱しているときというのは記憶をしまっておく引き出しが開けっ放しになっているのか、時の女神の神鳥がこのような姿だったかなと妙な知識が引き出された。

 歩きだした、仮面なジジェフュールさんのあとを、どうしようもなくなったわたしはついていく。頭……らしきものの裏側がちゃんと仮面の裏側をしていて、本当に頭はどこへいってしまったのだとキョロキョロしたところでわたしは早々に後悔した。

「仮面だらけ……!?」

 少し離れたところにいたので、なにやら奇抜な帽子をかぶっているなと意識を素通りしていた人たちだったが、よく見たら彼らの頭も仮面だった。道行く人みんな、そんな感じだ。多分、男性が紫で女性が黄色。子供も大人も関係ないようで、とにかく仮面。勿論どこにも頭は見当たらない。

「な、えっと、……ジジェフュールさん? あの、この仮面? って……」

「あれ、ツツハコさんは知らなかったのか。それは驚いたよね、ごめんごめん」

「はあ」

「……不思議な気分だな。これは僕たちにとって普通のスタイルだからさ、こんなふうに驚かれるのか」

 わたしとしては驚いたなんてものではないし、この感情を不思議だなで済ましてほしくはないのだが、ここはジ地域で、わたしはここの人たちのことを調べに来たのだ。

 ……ああ、『扉商店街監修! 壁より扉を超えろ!』を読んでおいてよかった。こういうおかしなことが起こったときの鉄則。「常識由来の疑問はとにかく飲み込んでしまえ!」である。

「……えっと、気に障りましたか?」

「いいや。なんていうかな……ほら、ここへ来るときの扉を見て、珍しがっていただろう? これも女神関係だし、同じ類だからさ。それに、ここらは都会だから休日のファッションに取り入れるくらいしかしてないけれど、田舎のほうはもっとリラックスしている人が多いんだよ」

「これは、リラックス……の一環なんですね」

 そもそもこの仮面は休日のファッションなのか、と複雑な気持ちになる。でも、信仰心と技術の発展、どちらも損なわないように突き詰めていった結果なのだと思えば、納得できるような気もしてきた。…………いや、やっぱりわたしには高度すぎる。

 だけどわたしは、ジジェフュールさんに「女性は黄色ね」と買い与えられた仮面を返すことができなかった。さっき言わされた言葉はこれのことなのだろう。

 そう。「扉の向こうの掟に従え」、だ。手の中にあるのは鳥頭の骸骨のような形をした仮面。その黄色の激しさを見なかったことにして、えいっと被った。

 恐いのでショーウィンドウに映る自分を視界に入れないようにする。「よく似合っているよ」なんて、言われていない。

「休日の過ごしかたを見にきたわけだし、やっぱりそっちのほうが気になるかい? 僕の実家がそういう田舎にあるから案内もできるけれど、言葉が通じないかもしれない。それでもよければ」

「……言葉が」

 同じ国なのになぜと、意味がわからなくて説明を求めると、ジジェフュールさんは職場でするのと同じように丁寧な説明をしてくれる。今はそれだけが頼りだった。仮面だけれど。

 それによると、ジ地域語は、時の女神が使っている言葉なのだそうだ。子供の頃から通学でジ地域の外へ出るため、公用語に明るいが、身体の構造的にジ地域語を話すほうが楽なのだという。彼らの公用語に訛りはないからまったく知らなかった。

「そういう、身体の構造的に、っていうのはけっこうあるかな」

「……なるほど。つまり休日は時の女神に合わせて過ごすのがジ地域流なんですね」

「ツツハコさんは素質があるから、多分、大丈夫だと思うよ」

「素質、ですか?」

「うん。でなきゃ、ここへ来ようとも思わないだろうからね」


 結局、わたしは本来の目的を忘れてはいけないと自分を鼓舞してジジェフュールさんのご実家にお邪魔することにした。お昼時だったので、お腹が空いていたというのもある。

 当然ジ地域にも地域内転移扉はあって、時の女神と、さらに細かく地域を分けるための眷属の絵が描かれていた。ジジェフュールさんの地元へ繋がる扉に描かれているのは時間回廊の猫らしい。ちょっと可愛い。

 そうしてたどり着いたジジェフュールさんの地元はやっぱり普通の住宅街であった。確かに都会ではないけれど、小綺麗で、ジジ、想像していた田舎とはまた違う。当然、これだけでは驚かない。

 ジ! ジ! としか聞こえないジ地域語はさておき、わたしが次に驚いたのは、ジジェフュールさんのお母様が出してくれた昼食だ。いきなりの訪問だったので特別に用意されたものではなく、普段からそれを食べていると知ってしまったのがドキリとする。

「……発酵麦の巻き戻し煮」

「そう。で、これが時間回廊の猫の時間を三年くらい停止したもので、こっちが……なんだっけ。ジ、ジジ?」

「ジ! ジジッジ」

「そうそう、先週の月の出の時間を抽出したお茶だってさ」

「はあ」

 ……物があるなら、よかったのだ。ここまでの出来事で、たとえばものすごい色をした食べ物だとか、普通は加熱するものの生食だとか、む……虫が出てきたって食べてやろうと、覚悟はしていた。

 でもまさか、料理が見えないとは、ジジジ予想できないではないか!

 時計盤柄というのはともかく、食器は普通なので、とりあえずカップに口をつけてみる。熱いのか冷たいのかわからないから、とりあえずゆっくりと。見えないものを飲むって、なんだか無駄に息を吸ってしまうなあなどと思いながら、カップを傾けていく。

 唇に液体の触れる感触がした。ちろりと舌を出してほんの少し、舐める。……あんまりわからなかったから、もう少し。

「……飲み物、ですね」

「あら」

 思わず口に出してしまってから、ハッとしてジジェフュールさんのお母様を見る。大丈夫、機嫌を損ねてしまったわけではなさそうだ。『扉商店街監修! 壁より扉を超えろ!』の食事の章にもあった。「食べ物の恨みは根深い! だが感想は正直に言うべし」って。

 それからスプーンを使って料理の器の中身――見えないけれど――を掬う。

 器に沈めたスプーンには確かに感触があって、多分とろりとしている。口に運んで、なんとなく温かいような気がして。ああこれは食べ物だなと思うような、不思議な食べ応えがある。ええと、こっちは発酵麦の巻き戻し煮だったか。味がわからないから美味しいとか不味いとかは言えなくて、でも、食べたって感じだけがする。

 そうやって出されたものを口にして。なんとなくわかったのは、ジ地域の人たちは時間を食べているんじゃないか、ということ。食べたらその分、時間が経っている。当たり前のことなんだけど、そういうことのような気がする。……答えを聞いたわけではないから、本当のところはわからないけれど。


 ジ。ジジッ。


「まあ、色々驚くことはありましたけれど、ジジェフュールさんがいつものジジェフュールさんと変わらないことがわかって、安心しました」

 食後の、やっぱり味のわからないいつかの時間のお茶をいただきながら、わたしはそう感想を伝えた。

 リラックスの定義について話し合いが必要な気もするが、それは地域による認識の違いなのだろう。無理やりとはいえ納得できる範囲ではあったような気がするし、とにかく休日は本能にしたがってリラックス。優秀さの一端を担うのはこういう部分かなと思うような、なかなか重要な情報も得られた。

 しかし。

「ん、それは違うかな」

 これ以上に驚くことなどあるだろうかと、そう思っていた矢先のことだった。

「ジジジジ。日付が変われば中身は別人。昨日の僕と、今日の僕は、まったくの別物だよ。僕らは毎日、生まれ変わっているんだ」

 今までとは方向性の違う、ともすれば哲学的にも聞こえるような理解不能な言葉。ジジェフュールさんの口調があまりにいつも通りだから、わたしもなにか答えなきゃって、思ってしまったのが、よくなかったかもしれない。

「えっ、あの、でも。今日の約束のこと、覚えてましたよね」

 多分わたしの聞くべきことはそれじゃなかったのだろうけど、咄嗟に出てきたのはそんな言葉だった。

「そりゃあ、時の女神が過去を共有してくれるからね」

「だから僕たちは、昨日の続きを生きられる」

「時の女神のおかげなのよ」

 ジ! ジジジ!

 ジージージー! ジージジジ、ジッジジジ。ジジッ!

「へっ!?」

 なにかスイッチを押してしまったかのように、彼らは動き出す。

 ジ地域語にも慣れてきたなとか、思ってる場合じゃあなかった。それはもう、うっとりした顔で頭――仮面を左右に激しく振り、時間の流れをおかしくしている。……あれ。表情とか、時間の流れのこととか、どうしてわかるんだろう。

 でもこれは、わたしがずっと聞いていた音なのだ。

 ジージージー!

 ジージジジ、ジージー!

 ふと、ジジェフュールさんのお母様に煽られたような気がして、わたしも小さく「ジージージー」と呟いてみる。満足げに頷かれたけれど、やっぱりよくわからない。

 こんな彼らの休日がただの休日でしかないことが、ひどく奇妙だった。


 ジージージー!

 ジージジジ、ジージー!

 ジージージー!

 ジージジジ、ジージー――――。


「また驚かせてしまったかな」

「えっと……はい」

 ここで嘘をついても仕方ないと思い、わたしは正直に頷く。毎日違う人間が、時の女神の名において記憶を書き換えているとか。

 ――知らないったら、知らない!

「でも本当、ツツハコさんはジ地域に向いてると思うな」

「あら。それならもう少し、未来への気持ちを減らさないとね」

 こんなことで、プロジェクトチームのみんなは、


 ジ未ジ来ジのジこジとジをジ考ジえジてジはジいジけジなジい!

 ジ未ジ来ジをジ決ジめジるジのジはジ時ジのジ女ジ神ジのジ仕ジ事ジだ!

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