ほぼホホジロザメ・ダイアリー

鳥辺野九

ほぼホホジロザメな彼女


 地下鉄の車内。またあいつがいる。


 僕の頭の中にあのテーマ曲が流れる。おどろおどろしいコントラバスの低い音。でぇーでんっ、でぇーでんっ。


 満員の地下鉄にて、密集した人の波間を三角背ビレが切り裂いて、車両内での僕の定位置までそろそろと近付いてくる。サメだ。でかい。


 そのサメは僕のそばまで人の海を泳いできて、ちらりちらりと地下鉄の揺れに合わせて僕の顔を覗き見る。隙を窺っているのか、時折開く下弦の三日月みたいな大口にはギザギザした鋸歯がびっしり並んでいる。


 ずいぶんとでかいサメだ。あの大口をがばりと開けば、きっと僕の頭などギザギザ歯列であっさり噛みちぎりぱっくり丸呑みできるだろう。


 白い頬にぽっかりと穴が空いたような大きな目は真っ黒で底が知れない。それでもがっつりと僕を見つめているのがわかる。


 僕は、毎朝の通学時、地下鉄の車両内でホホジロザメに狙われている。




「あのっ」


 その朝。ホホジロザメは今までにないくらい僕に接近し、ついに声をかけてきた。


「おはようございます」


 意外にも甲高く語尾をくっきりと区切るハキハキとした声だった。


「私の名前は星炉楓湖ほしろかえでこです」


 ホホジロザメは黒いタイツとブラウンのローファーがよく似合う細い脚で二足歩行するようだ。少しだけ短めのプリーツスカートを身に付けて、ライトグレーのブレザーによく映える赤いリボンタイも可愛らしい。


「何故あなたは、そんなに怖い顔で私を見るんですか?」


 下から見ていけば彼女も普通の女子高生だと思える。肩の高さも僕とそれほど変わらない。女子にしたら背が高い方か。身体は痩せ型で、ほっそりとした胴回りはサメとはまるで違う。


 しかし首から上がそうはいかない。ブレザーの襟元からネックウォーマーをはみ出させ、ずんぐりとした流線紡錘形のホホジロザメの頭がそこにある。思わず一歩後ずさってしまうくらい迫力あるサメの顔面だ。


「……僕は」


 僕の方へ直角に首を曲げて、ホホジロザメの鼻先が僕の鼻にくっついてしまうほど近い。人間でいうと延髄部に三角背ビレを立たせていて、すごく猫背なホホジロザメと話している気分になる。いや、実際にホホジロザメと会話しているわけだが。


「僕は君をとても怖いと思う。でも、君のことをよく知りたいとも思っている」


「そうですか。私もあなたが怖いです。でも、そんなあなたに興味が湧きました」


 ホホジロザメは真顔で言った。真っ黒い目を僕へ向けたまま、三日月口をぱくぱくとさせて白い牙を見せて。


「僕の名前は三雲有希みくもゆうき。君は何者なんですか?」


「私はただの女子高生です」


 通勤通学の時間帯。地下鉄車両は満員。僕とホホジロザメ。周囲の大人たちは僕らの瞬間的な逢瀬の邪魔はしたくないようで、ヒソヒソ話し合う僕と楓湖さんをそっと見守っていてくれた。


 僕とホホジロザメな楓湖さんとは地下鉄の中で出逢った。




 初めて彼女の身体に触れた部位は鼻の頭だった。




 楓湖かえでこさんが通う成蹊せいけい女子高校は僕の添島東そえじまひがし高校のすぐ近くにある。


 僕と楓湖さんはお互いのことをよく知るために、一緒に帰ることを取り決めていた。


 僕は図書部、楓湖さんは書道部に所属していて下校時間もバラバラだ。成蹊女子高と添島東高のちょうど中間地点で待ち合わせをして、地下鉄駅まで並んで歩く。どこかに寄り道して甘い物を摘み食いしたりはしないで、ただただ会話を交わす時間だ。


 僕と楓湖さんは帰りすがら話し合った。どうして僕たちはお互いのことが怖いと思うのだろう。


「君の顔がホホジロザメの頭部だから、僕は君が怖い」


 とは、さすがに言えない。そんなことを暴露すれば頭も心も壊れた奴だと一発認定だ。


「君のことが怖くて、地下鉄内で目が離せないでいた。目を離したら、どこかに隠れてしまいそうで」


 ある程度事実を曇らせて告白した。


「だから、そんなに怖い顔で私を見ているんですね」


 楓湖さんは白い頬に手を当てて小さく笑った。


「私はどこにも隠れません。明日もあなたと隣り合って歩きます」


 それじゃあ何も解決しないか、と呆れたようにホホジロザメは笑っていた。僕の臆病さに呆れ返ったのか。


「それでも、あなたは怖い顔のままなんですね。私も何故あなたのことが怖いのか、わからないです」


 それとも自身の未熟な考えに唖然としたのか。僕には笑うホホジロザメの表情の下にある感情を読み取れなかった。


「私を怖いというあなたも含めて、みんな私をどう評価しているんでしょう」


 楓湖さんはすらり右腕を払って見せた。筆を握るように指を形作り、空を切って彼女の懐へ舞い戻る。細くしなやかな腕はとにかく女性的で、強く触れたら折れてしまいそう。


「今度参加する大会の書道パフォーマンスで、私ったらセンターに抜擢されてしまいました」


「それはすごい。自慢していいよ」


 大きな紙の舞台で袴姿のホホジロザメが大筆を振るう姿が頭に浮かんだ。シュールレアリズムってそういうのを言うんだろう。


「自慢なんてできません。私なんかよりセンターが似合う子はたくさんいます。それなのによりによってこんな私が。髪だって結べるほど長くないのに」


 楓湖さんは首の後ろの三角背ビレを撫で付けた。それ、髪の毛なのか。


「選ばれるにはそれなりの理由がある。自信を持っていい。僕はそう思う」


「そうですか。それならば、有希くんが私を選んだ理由はなんですか?」


 ホホジロザメは真正面から僕を見据えた。海の底を思い起こさせる真っ黒い目に吸い寄せられ、僕は返答に困った。理由は解り切っている。怖いからだ。返事をするかどうかに迷ってしまったのだ。


「君が怖い。だから、楓湖さんを選んだんだと思う」


 正直に告げた。ホホジロザメは目線を逸らさなかった。真っ直ぐに見つめたまま、一歩僕に歩み寄る。三日月口の隙間から鋸歯が見えた。


「私も自分に自信がないんです。私を見ていたあなたが怖い。だからそんなに怖い顔に見えてしまう。そうなのかも知れません」


 ふと、楓湖さんの鼻先に黒い点が乗っかっているのに気が付いた。僕自身がこの話題を切り上げようとしているのか。無意識に彼女の視線から逃れようとしているのか。それに気付いてしまっては、もう意識を逸らすこともできない。


「楓湖さん。鼻に、埃かな? 何かくっついている」


「えっ。鼻?」


 自分の鼻先を見ようとホホジロザメは寄り目になった。


「鼻の頭。見える?」


「見えません。有希くん、取ってもらえますか?」


 そう言われて、僕はゆっくりと右手を彼女の鼻に近付けた。そして思う。彼女の身体を意識して触れるのはこれが初めての機会だ。そう思うと、右手が彼女の鼻先で止まる。


「取って」


 楓湖さんが目を瞑って言った。


 僕は動けない。ホホジロザメの鼻先へ手を伸ばす。大きな口からちらりと覗くギザギザ鋸歯に噛まれたら右腕を根刮ぎ持っていかれる。致命傷だ。


「目を瞑っていても、私が怖いですか?」


 楓湖さんのためなら右腕一本惜しくもない。そう思いたいが、現実はそうもいかない。


 彼女の鼻に触れて、紙やすりのようなざらついた鮫肌だったら。それでは楓湖さんはホホジロザメだと確定してしまう。


 これは僕の幻覚でなければならない。ホホジロザメなんて僕の目の前にはいない。それを証明しなければならないのに、自らの指でこれがホホジロザメだと現実を固定させてしまう。


「私もあなたが怖いけど、あなただから平気です」


 その一言で僕は意を決した。


 最初は中指の腹で、そして人差し指の先も加えて、ホホジロザメの鼻の頭に触れて鼻筋をなぞるようにしてロレンチーニ器官を優しく刺激する。指の腹で撫で付けて、彼女の素肌に指紋を残すように指を這わせる。ホホジロザメは少しだけうっとりとした表情を見せてくれた。


「くすぐったいです」


 どう応えたら。返事に迷う。


 僕の目の前にいるホホジロザメはほんの少しだけ首をすぼめて鼻を撫でる僕の指に抵抗するように身を捩った。それでも指から離れようとはせず、むしろ擦り付けるようにして僕の指先のかすかな震えを吸収した。


「私、怖いです。まぶたを開けた時、どんな顔したあなたと目が合うのか」


 怖れは伝播する。僕の指先から、ホホジロザメのロレンチーニ器官へ。楓湖さんの鼻から、サメを怖がる僕の心の奥底へ。


 楓湖さんを怖がる僕はどんな顔しているのか。シンプルな恐怖。崇高な畏怖。ただただ怖い。指先の震えは止まらない。僕はそれを彼女に知られるのを怖れて、楓湖さんの問いかけに答えるのを止した。


「これ、取れないな。墨? 墨汁が乾いたもの?」


「ええっ。そんな。私ったら鼻に墨を塗ったままあなたと歩いていたんですか」


 ホホジロザメは女子高生の小さな手で紡錘型の尖った鼻先を覆った。僕の指ごと巻き込むように包み隠し、恥ずかしそうに頭を下げて大袈裟に後ずさった。三角背ビレがぴんと立つ。


「もっと早く言ってください。みっともない。もう」


 相当恥ずかしかったのか、鼻先まで赤く染めて三角背ビレをふるふると震わせる。ホホジロザメではなくホホベニザメだ。


「そんなところにホクロなんてあったかなって思った。かわいいホクロだよ」


「そんな怖い顔で素敵なことを言っても騙されませんっ。私はかわいくありませんっ」


 ついにはぷいと背中を向けてしまった。


 彼女の鼻は細く高く、茹でたての団子のようにもっちりとして指先に吸い付く滑らかな触り心地だった。




 高校のスクールカウンセラーに相談してみた。「彼女がホホジロザメに見えるんです」と大雑把で投げっぱなしに。


「そいつは重症だな」


 さすがのカウンセラーも匙を投げっぱなしにしたようで。




 ホホジロザメな楓湖さんと薄暗い映画館で初めて手を繋いだ。




 楓湖さんを映画に誘ってみた。


 女子校の制服であるブレザーに埋もれてリボンタイで絞めている紡錘型のサメヘッドにもようやく見慣れてきた頃合いだ。怖いもの見たさで私服姿のホホジロザメも見てみたいと思った。こいつは重症だ。そりゃあもう自覚している。


 ホホジロザメは快く同意してくれた。


 夥しい数のサメが竜巻に乗って街に降り注ぐ人気シリーズの最新作も上映していたが、楓湖さんの希望でフランス人監督のファンタジックな恋愛映画を選択。よかった。心の中でほっとする。サメ映画は僕のトラウマだ。


 子どもの頃に観てしまったスピルバーグ監督のサメ映画のせいで、僕はサメ恐怖症に囚われてしまったのだ。海に入るのさえ怖く思う。


 楓湖さんがホホジロザメに見えるのもそのせいなのだろうか。私服姿がとても清楚で礼儀正しい女の子なのに。何故僕は彼女が怖いのだろう。


「有希くんって図書部でしたよね」


 明るい黒のタートルネックセーターがはち切れんばかりに伸びて流線紡錘型のホホジロザメの頭がこちらを見る。シックな黒のロングスカートに細くなだらかな身体を包んだ楓湖さんは、上着を丁寧に畳んで膝の上に置いていた。


「うん。委員会じゃなくてちゃんとした部活動の」


「図書の部活動なんて珍しいですけど、やっぱり本を読むのが好きだからですか?」


 映画が始まる前のささやかなトークタイム。どちらからともなく自然と身体を寄せ合わせて座り、周りのお客さんの迷惑にならないようひそひそ声で語り合う。


「ジャンルに偏りがあることは否定できないけど、普通の高校生よりは数を読んでいると思う」


「そうですか。例の書道パフォーマンスですが、実は書き躍る文節がまだ定まっていないんです。おすすめの小説ってありますか?」


 ずいぶんと難しい注文が来たものだ。思わず身を乗り出して考える。ホホジロザメもカップホルダーの肘掛け越しに肩を触れ合わせてきた。


「たとえば、有名な一節とか。有希くんが好きな文章とか」


 痩せて弾力も薄く、それでも温かな肩だった。


「それなら宮沢賢治とかどう? 児童文学って思われがちだけど、ちょっと考えさせてくれる手触りがいい文章を綴っている」


「宮沢賢治ですか。ひょっとして私って注文多いですか?」


「全然。なんだったらもっとご注文をお待ちしてます」


「よかったです」


 声が大きくならないようにお互い肩を寄せて笑い合う。


「有希くんのお墨付きをいただけたのでせっかくだから注文します。心躍らせる文章を教えてください」


 隣り合って席に座る。肩を寄せ、横顔を見せたまま笑う。視線は合わせずとも、お互いのことを考えて想う。ホホジロザメの白い頬と触れ合うくらい近く、こんな角度から見られるなんて今まで思いもしなかった。まだ、怖いけれども。


 照明がさらに暗くなり、映画が始まって、僕と楓湖さんの会話も自然と消えた。


 そして、ホホジロザメとの映画デートに比べたら退屈そうな主人公たちの恋愛模様がようやく盛り上がってきた頃、楓湖さんが肘掛けにある僕の手に自分の手のひらを置いた。


 僕も楓湖さんもスクリーンに顔を向けたまま、お互いの手の体温を確かめるみたいに重ね合わせた。


 ホホジロザメの頭を持った女子高生の手は思っていたよりも冷たい。サメのヒレを触ったらこんな感じなのだろう。


「寒いかな。手を握ろうか?」


 僕はホホジロザメの横顔に小声で訊ねた。大きくて真っ黒い目がどこを向いているかわからないが、少なくとも楓湖さんの意識が手に向かっているのはわかった。僕の手に置かれた彼女の手が握りやすい角度に変わった。


「手を握るのではなく、ちゃんと手を繋いでください」


 ホホジロザメが囁くには、手を握ると手を繋ぐとでは意味が違うらしい。


 僕は肘掛けに置いた手のひらを上に向けた。そこには楓湖さんの手のひらがある。楓湖さんは応えて、指を少し開いた。それぞれの指の隙間に僕の指を捻じ込ませる。少しも抵抗することなく、彼女は僕を受け入れた。


 お互いの指を組み合わせる形で繋がれた手を見て、楓湖さんの顔を覗いてみた。ホホジロザメは前を向いたままだった。


 その横顔はやはり怖い。彼女もまた僕を怖がっているのだろうか。


 宮沢賢治の筋金が入った格好のいい文章を思い出しながら映画を観たせいで、どんなストーリーだったかあまり印象に残らなかった。




「お互いに怖い怖いと言いながらも、やっぱり会ってお話しするのが楽しみです。私たちってまるで因果交流電燈みたいです」


 怖い怖いと言いながらも、僕とホホジロザメは愉しく会話を交わした。因果交流電燈とは宮沢賢治の詩に出てくる架空の言葉で、書道パフォーマンスにおすすめした文節の文言だ。はたして何のことやらわからないが、楓湖さんは気に入ってくれたようで。




 わたくしといふ現象は

 仮定された有機交流電燈の

 ひとつの青い証明です


 風景やみんなといつしよに

 せはしくせはしく明滅しながら

 いかにもたしかに

 ともりつづける因果交流電燈の

 ひとつの青い照明です


 (宮沢賢治『春と修羅』より引用)




 少しの間、隣り合って一緒に歩けない。会って言葉を交わすのも難しい。


 その旨、楓湖さんから告げられた時、ホホジロザメの表情が特に怖く感じられた。


 僕の目の前にいる絶対的な捕食者。圧倒的な強者。ホホジロザメの前では僕は単なる餌。食物連鎖的弱者。海の中で彼女に出会ったら、すごいスピードで泳いできてその大きな口でガブリ。狙った獲物を逃さないよう鋸歯で噛み付いて、僕をバラバラにしてパーツを一個ずつ丸呑みする。


 だから、ホホジロザメを見つけたら目を離すな。隠れられたらおしまいだ。どこから襲ってくるかわからなくなる。彼女を見失うな。


 ホホジロザメは僕をじいっと見つめている。


 僕は楓湖さんを見つめているのだろうか。それともホホジロザメを見ているのだろうか。


「書道パフォーマンスの練習も大詰めです。大会がもうすぐ。私はセンターを勤めていますので、どうしても時間を取られてしまいます」


 ホホジロザメは悲しそう。


「あなたをもっと知りたいです。でも、会える時間がありません」


「そっちが大事だ。僕なんか後回しでいい。なんだったら応援に駆け付けてやろうか」


 ホホジロザメがあまりに悲しそうであまりに怖い顔で言うものだから、もう二度と会えなくなると宣告されるかと思ってしまった。


 ここで彼女を見失ったら、僕はどこにいても彼女を探してしまう。襲われないよう、あえて恐怖の対象を確保しておかなければならない。どこの人の波間でも、あるはずのない三角背ビレを求めてしまう。


 たとえ一秒間見失うのと、たとえ一週間会えなくなるのと、どれほどの差があるのか。恐ろしさの前では時間は意味を持たない。怖いんだと仮定したらおしまいだ。一秒も一週間も連続して恐怖はやってくる。


 でも、また会えると思えば、時間の差など一跨ぎで飛び越えられる。失ってしまう恐怖に比べれば一秒も一週間も、たとえ一年でも明滅し続ける電燈のように光はともり続けてくれる。消えても、また灯り、明かりが続いても、いつしか潰える。


「あなたならそう言ってくれると思ってました」


 僕は気付かされた。


 地下鉄の人波の中で、見えては消えて消えては見える彼女。楓湖さんを見失って二度と会えなくなるのが怖かったのだ。だから僕は、彼女に心理的トラウマであるホホジロザメを投影したのだろう。これ以上の恐怖はなく、これ以下の安心もない。それがホホジロザメな女子高生だ。


 ホホジロザメの口角が上がる。三日月のような口の隙間からギザギザ歯が覗く。


「私という現象は、書道パフォーマンスを見事に演じ切ってやります。そうしたら、また会ってくれますか?」


「僕という現象は、拙い明かりを灯し続けて君を待ちたい。君を失うのが怖くて怖くてたまらなくて、君がサメに見えてしまう僕でもいいですか?」


「サメ? 私が?」


「うん。今も大きなホホジロザメに見える」


「やっぱり」


 ホホジロザメはかぷかぷ笑った。


「どうして有希くんはこんなに怖いんだろうってずっと不思議でした。あなたが私を見る時、私にはあなたの顔がシャチに見えます」


「シャチ? 僕が?」


 シャチはかぷかぷ、笑えなかった。楓湖さんがホホジロザメに見えていたように、僕がシャチに見えていたなんて。


「ええ。私はあなたがシャチに見えて怖くて怖くて仕方がなかったんです」


 恐怖は伝播する。僕と楓湖さんは出逢う前からずっと深いところで繋がっていたのかもしれない。溺れないよう、相手が誰かも解らないまま手を繋いで泳いだ海で、僕と楓湖さんは出逢った。


「でも、好き」


 ホホジロザメが口を開けて鋸歯を見せて言ってくれた。


「また会ってくれるって、約束のキスをしてください」


 僕の目の前にはホホジロザメ。口をぱっくりと開けて、僕の反応を待っている。


 ホホジロザメの天敵はシャチである。しかしながらシャチである僕の天敵はホホジロザメであり、楓湖さんだ。彼女に敵いっこない。


 じっと待つホホジロザメの大きな口。鋭く尖ったギザギザ鋸歯の歯列が三列並び、真っ白い喉の壁にエラが亀裂のように何本も走っている。その奥に、巨大な胃袋に繋がる喉穴が穿たれている。僕は迷わずホホジロザメの口の中に頭を突っ込んだ。


 ホホジロザメがひと噛みすれば、熱したナイフでバターを切るにように僕の首はすっぱりと落ちる。あとは丸呑みだ。


 それでも僕はホホジロザメの口の奥へと潜り込み、ざらついて下顎にくっついた状態の舌を見つけた。


 目を閉じて、キスをするように唇でサメの舌を噛む。


 それは温かく、柔らかく、何か別の生き物のようにかすかに蠢いて、甘噛みを返してくれた。


 目を開けると、そこにホホジロザメの頭はなく、瞼を開けたままの楓湖さんがいた。


「キスする時は目を閉じるものだと思ってた」


「ごめんなさい。噛んじゃいました」


 切れ長の目は瞳が大きくて、鼻筋が高く通って、頬を紅く染めちゃって、自分の唇を噛むようにして恥ずかしそうに目を泳がせている楓湖さん。まだ、僕の顔はシャチに見えていますか? はじめまして、楓湖さん、よろしく。


 シャチはホホジロザメを食べた。


 僕の海にホホジロザメは、もういない。

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