冬の音を聴かせて(沙織)

帆尊歩

第1話 冬の音を聴かせて(沙織)



「ようちゃん、じゃあ今日の夜、ママハンドベルのサークルだから、ご飯一人で食べてね」沙織は朝食の食器をシンクに片付けながら小学生の息子に言った。

「うん、良いよ。ママ頑張ってね」

「オイ、オイ、またかよ」と夫の孝夫が最後のコーヒーを飲み干し、あきれたように言う。

「だって、もう十二月で、引き合いが多くなるから、レパートリーを増やすために練習が必要なの」

「だからって、別に家の事をしっかりやれとか、そんな事言うつもりはないけどさ」

「許してくれたじゃない」

「だからだめとは言っていないだろ。陽一だってママがいないのはイヤだろ」

「子供、巻き込まないでよ」

「僕、ママのハンドベル見るの好きだよ。ママかっこいいし」

「子供巻き込むなって、しっかり手名付けているじゃないか」

「そんな言い方ないでしょ、一度だって見に来てくれたたことないじゃない。どれだけ一生懸命やっているか、あなたには分からないでしょう」

「忙しいんだよ。それに一生懸命って何だよ、何のためにハンドベルなんてやっているんだよ」

「何よそれ」沙織の声が険しくなる。

これは一つステージが上がった声質だ。

孝夫もやばいと思ったのか、すぐに折れてくれた。

「アッ、ごめん。まあ、とにかく沙織だって母親なんだから。やめろとは言わないけど、少しくらい考えてくれよ」

「前向きに善処します」沙織は憮然と返事をする。

この話はこれで終わりと言う意思表示のつもりだった。

そういう意思表示はちゃんと孝夫に伝わる。

おかげであうんの呼吸で、けんかにならずに済んでいる。

夫婦長続きの秘訣だ。


「山科さん、明後日、出勤出来るかな」

沙織は食品スーパーの衣料品売り場でパートをしている。

食品がメインなのでそれほど忙しくはない。

「どうしたんですか」

「高山さんが用事出来たらしい。夕方なんだけど」

「ああ、その日私、ハンドベルの練習の日なんですよ」

「あっそうか」

「いいですか」

「もちろんだよ」今の主任は変更のお願いも自分自身を通すようにしてくれる。

今までは休みたかったら、誰かに頼め、という主任が多かった。

主任としては、いちいち調整するのはめんどくさいからだ。要は人数がいれば良い。

またパートからすると、通常、代わって貰ったら、今度は自分が代わらないといけない。

本当に重要な用事ならともかく、たいした用事でもないのに、借りを作りたくないと言うことになる。

でも上司なら、たとえその理由が自分であっても、頼むのは自分ではないので借りを作ったという感じではなくなる。

だから酷い上司になるとあえて、何々さんが休みたがっているので代わりに出て欲しいなんて言うやつがいる。

でも今の主任はそういうことをしない。

そういう意味では良い上司と言うことになるのかも知れない。

だからこそ申し訳ない気持ちになる。

「すみません。お役にたてなくて」

「いやいや、大丈夫ですよ。ハンドベル頑張って」

「はい」理由を明確にしておくほうが、何かあったときに断りやすい。


「沙織さん、主任から、明後日の件なんか言われた?」同僚の佐久間さんが寄ってきた。

「はい、申し訳ないけれど断りました。私その日ハンドベルなんで」

「ああ、そうか。まあ大大丈夫でしょう。タカミちゃんが出るよ。あの子フリーターだし、少しでも稼ぎたいだろうから」

「それ、そうだろうと思って断りました」

「でもさハンドベルって、難しい?」

「難しいと言うか、一人でやっているわけではないから、息を合わせるところが難しいですね」

「でもそれってオーケストラとか吹奏楽と一緒じゃないの」

「あれはパートパートを別々に弾くのを合わせるだけなんで、でもハンドベルは完全に一つの曲を音ごとに分担するので」

「沙織さん、音楽とかやっていたんだっけ」

「イヤ昔、ちょっとだけかじっただけですから」

「そっかー」佐久間さんは沙織から離れていった。

経験的にこういう言い方をすると。

子供の時ピアノでもやっていた程度に思ってくれる。

たいしたことないけど見栄を張ってかじったなんて、言っているんだなと勝手に思ってくれる。

でないと、根堀り葉堀聴かれて、音大でがっつりピアノやっていましたと白状させられる。

そうすると興味本位で、あれこれ聞かれるので、適当に勘違いをしてもらえるような言い方を身につけた。


音大で、がっつりピアノをしていましたなんて、何の自慢にもならない。

ピアノ教師にだってなれない。

昔なら家にピアノを置いて、子供や旦那に聴かせることも出来ただろうが、この住宅事情ではそれも許されないし、せいぜい家族で電気の量販店に行って、電子ピアノ売り場でさらっと試し弾きをし、子供にママ凄いねなんて褒められるくらいだ。


今日は近所の公民館で練習の日だ。

ハンドベルの参加者の平均年齢は高い。

自分なんか若い方だと沙織は思う、五十代くらいがボリュームゾーンで、六十代、四十代と続く。

三十八歳の自分なんて、まだまだ小娘だと沙織は思う。

でもよくよく聴くと、みんな、なんとなく音楽をかじっている。

このかじったは子供のころピアノを習った程度ではなく、吹奏楽やっていたとか、バイオリンをやっていたとかいう人ばかりだ。

あまり立ち入ったことは聴けないので、どれくらいのレベルかは定かではない。

指導するのは、専攻は分からないし、面識もないが、沙織の母校の教師をしている田辺先生だった。


沙織はなぜ自分がハンドベルをしているのかと、思うことが良くあった。

認めたくはないが音楽への未練か。

そんな物とっくに忘れているはずだった。

音大なんて月謝が高いだけで全く潰しがきかない。

音大に入るまではピアノを本気でやろうと思っていた。実際自分は出来ると思い込んでいた。

小さい頃からピアノが上手ねと言われ続けて、自分でもその気になって音大を受験した。

少なくともピアノで音大に入れるのだから、そこそこの腕で入学したが、そんなもの、日本に音大が幾つある。

学年に何人いる。

さらにそれが四学年。

そんなにいるピアノ専攻の音大生がみんなピアニストになったら、いったい日本には何人のピアニストがいる事になる。

沙織もそのまま卒業して音楽とは何の関係もない、会社に勤めた。

そこで孝夫と知り会って結婚した。

会社を辞めて専業主婦になった。

今は孝夫とはけんかばかりだが確かに愛していた。

いや今だって愛している。

陽一だって可愛いし何も問題がない。

今日もそうだったが喧嘩と言っても、すんでのところでお互いに自制が効くので、大事にはならない。


何が不満だ。

確かに今となっては何もない。

音楽はおろか、音大を出た事も、ピアノを多少弾けることも、何の意味もない。

何もないことが不満なのか、未練なのか、沙織には分からなかった。


あの時は確かに自分はピアノという希望を持って音大まで行き、ピアニストを目指していた。

でもそんな物、入学して一ヶ月で現実を知ることになる。

だから四年で就職となったとき何の未練も無く、音楽とは何の関係も無い会社に入った。

そこで新たな世界が広がる。

それが愛する夫であり、愛する息子。

何の問題がある。

なのに。

ハンドベルのサークルがあると言われ、やらないかと言われた時、やりたいとかではない。

やらざるをえないくらいに感じた。

だから即答した。

それはやりたいかどうかではなく、やると返事をした。

孝夫も別に反対はしなかったし、世間でよく言われる家事は疎かにするなとか、そういう苦言すらなかった。

みんなどういうつもりでハンドベルをしているんだろう。

でもみんな音大崩れが多い感じだし、みんな音楽から離れたくないんだろうなと、沙織は勝手に思っていた。


「さあ、皆さん、始めましょうか」指導の田辺先生が声を掛ける。

横に並べたテーブルで、配置につく。

一人分開いている。

「あら、吉村さんいらっしゃっていない?誰か」と田辺先生が誰ともなく声を掛けた。

誰も知らないとクビを振る。

「困ったわね。今日は吉村さんのところがメインなんだけど」その時一人の女性が練習場に駆け込んで来た。

「すみません。遅れちゃって」吉村さんだった。

吉村さんは悪びれた様子もなく開いているテーブルの前に立った。

悪びれた様子がないと言うより、あまりにヘラヘラしている事に沙織は腹がたった。

「ちょっと吉村さん」

「はい」

「その態度はないんじゃないかしら、遅れて来て」

「ああ、ちょっと夕食の支度に手間取って」

「そんなの言い訳よ。何のためにここに来ているの」その沙織の言い方に吉村さんもちょっと腹を立てたようだった。

「何のために?じゃあ沙織さんは何のためにハンドベルをやっているんですか」

「何のため?」そういえば孝夫にも朝言われた。


「はいそこ。もう良いから。時間もないし。始めるわよ」

「はい」

「はい」吉村さんと沙織の争いはそこで終わりになった。

典型的なクリスマスソングを四曲。

ポップスのクリスマス曲、新たに仕入れた曲。

これが吉村さんのソロがある曲だった。

ちょっと険悪な雰囲気になった人だったけれど、なんて楽しそうにベルを振るんだと沙織は思った。

そういえば自分はあんなに楽しそうにベルを振っていただろうか。

いつだって早いだ、遅いだ。

響きが長いだ。

音が大きいだ。

そんな事ばかりを考えて、ベルを振っていた。

楽しいと思った事がない。

いや、人に聴かせる以上、上手に出来なれば意味がない。

人を楽しませるんだ、そのために自分が楽しんでどうする。

沙織はそんな風に思っていた。


「はい、皆さん良い感じです。お疲れ様。後クリスマスイヴの演奏は駅前のデパートのエントランスに決まりました。デパート側が四階より、一階エントランスでイヴをもり上げて欲しいと言うことです。皆さん頑張りましょう」

「はい」と若い子のようにかわいらしい声がそろった。

平均年齢は高いけど。


帰ると、陽一はもう寝ていた。

孝夫だけがリビングでチューハイを飲みながら、テレビを見ている。

「お帰り」

「ただいま。朝はごめん」

「イヤ、俺こそ悪かった。飲むか?」そう言って孝夫は自分の持っていたチューハイの缶を頭の上まで上げて少し振るような仕草をした。

「今日何本目」

「一本目」

「嘘だー」と沙織は孝夫に言う、孝夫は笑いながら、一口飲んだ。

そこに朝のわだかまりはなかった。

「あたしも飲もうかな」沙織は冷蔵庫から缶チューハイを出して来て孝夫の横に座った。缶をあけて一口飲む。

一瞬の間が開く。

「あたしさ、なんでハンドベルやっているんだと思う?」沙織はテレビを見ながらつぶやくように言う。

「はあー」孝夫がオーバーに驚く。

「朝のこと、まだ根にもっている?」

「違うよ。今日ハンドベルで吉村さんて子が遅刻してきて、あんまりヘラヘラしているから注意したの。そしたら沙織さんは何のためにハンドベルやっているんだって言われて、答えられなかった。でもその後、吉村さん本当に楽しそうにハンドベル振っていて、あたしあんな風に楽しくやっていたかなって」

「ハンドベル楽しくないのか?」

「なんか、いつの間にか、いかに上手にとか、そういう事ばかり考えていた。練習に行くときだって楽しいから行くではなく、失敗しないようにとか、恥を掻かないようにとか、そんな事ばかり考えていた」

孝夫は沙織の顔を見つめた。

「みんなを楽しませることだろ。そもそも音大に入ったのだって、みんなに自分のピアノを聴いてもらって楽しんで貰いたいからって、言っていたじゃん」

「いつ?そんな事言った?」

「付き合いはじめたとき、沙織さんは何でピアノを始めたんですかって聴いたら、そう言っていた」

「そうだっけ」

「まあ。クリスマス近いし、あっ発表会クリスマスイヴだっけ。じゃあ、みんなに冬の音でも聴かせてやれよ」

「なーに、かっこつけているのよ」

沙織はちょっとだけ心が晴れたような気がした。



エントランスには長いテーブルが一列に並んでいる。

ハンドベルが、お客さんから見て左から小さい順に置いてある。

一人三つくらいが割り当てだった。

観客の方には、一応椅子もおいてあるが、基本立ち見だ、沙織たち、ハンドベルサークル(マリアン)のメンバーはおそろいのブラウスを着て従業員通路に並んでいる。

出番まで後十五分だ。

置いてある椅子は埋まり、立ち見のお客さんも、今までにないくらいいる。

さすがにクリスマスイヴだ。

家族連れが多いが、おばあちゃんと孫、そのお母さんという組み合わせが多い印象だった。

店内にハンドベルの演奏会の告知が流れる。

そして時間。

田辺先生がみんなを見つめる。

「さあ、皆さん、行きますよ、最高の音を作りましょう、そして私たちも楽しみましょう」

「はい」誰ともなく返事が合わさった。


沙織たちは配置の順に一列でハンドベルの置かれた、長テーブルに歩いて行く。

そして位置に付くと、陽一と孝夫が立っているのが見えた。

「ようちゃん。あなた」つぶやくように沙織に口から声がでる。

「ママー。がんばれー」と陽一が言うと。

孝夫が手でメガホンを作って、頑張れという。

そうだあたしはみんなを楽しませるためにやっているんだ、と沙織は思った。

上手とか、恥をくとかそんな事関係ないと。

何だか沙織は振り切れた感じがした。

そして演奏が始まる。

冬を感じさせる、クリスマスソングのオンパレード。

ああ、何だか楽しいなと沙織は思った。

この楽しさのために音楽をやっていたんじゃないか。

曲は二曲目に入った。

沙織は思う。

ああ。楽しい。

楽しい。


そして沙織は思った。


冬の音が聴こえる。



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冬の音を聴かせて(沙織) 帆尊歩 @hosonayumu

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