泥だらけの巫女服

 桜の根元に座ってさっきまで作業していた場所を眺める。冷たい空気を運ばなくなった穏やかな風が地面の瑠璃るり色と頭上の桜色を揺らしてゆく。


しろかきが終わって水の入った田んぼに映る青空はいいねー」

「ええ。とても風情があって、のどかで綺麗よね」

「泥だらけの巫女服も春って感じがするよ」


 田んぼに入って泥だらけになった緋袴ひばかまをつまんで揺らす。真っ白な白衣びゃくえにも泥が跳ねて、正装にあるまじきまだら模様になっている。


「それには同感。ここまで汚れるのはこの時期くらいだもの」


 陸乃ろくのも私と同じように袴をつまみながら答える。綺麗好きな陸乃はまだ抵抗があるみたい。


「田植えより代かきの方が汚れる気はするんだけどね」

「ええ。泥の跳ね方は田植えの方が多少マシな気がするわ。バランス崩したり転んだりしなければ……ね」


 巫女服を泥だらけにしてまでこんなことをするのは、この地域の伝統だから。夕朱穂谷ゆうしゅほだにの神社はこの文化を代々引き継いでいる。火灯刻社かとうこくやしろの私たちも同じように先代の巫女からこの文化を引き継いだ。


 伝統は守るもの。例え形が変わっても、本質は守っていかないといけない。きっと昔より今の方が楽になっているんだろう。今は汚れの落ちやすい素材を使っているから、緋袴が原型を留めないほどに土色に染まったところで気にすることもない。清流の水で洗い流せばまた綺麗な緋色ひいろに戻るのだから。


「そろそろあれの頃合いね。もう周りに人もいないし……」


 陸乃は周りに極力泥をつけないように注意して、持ってきた小包に手を伸ばす。


「持ってきたそれ、何が入ってるの?」


 陸乃は答えずに竹皮の包みをほどく。淡い色の丸いものがちらっと見えて、すぐに何が入っているのかを理解した。


「はい、玖夢きゅうむの分」

「ありがとう。お花見にはやっぱりこれだねー」

「ええ。このまま帰っても味気ないもの。それに、もう少し休みたいし」


 夕朱穂谷ここの神職はお花見をする暇がない。桜は咲けども主に見るのは発芽したばかりの稲の方。おまけに米の豊作を願う参拝客が多いから、ゆったりと桜を眺めている暇なんてない。


「私は代かきが巫女の休息だと思ってるからね。せっかく忙しない境内を抜け出せて、こうやってお花見できるんだからさ」

「私も同じ気持ちよ。少し疲れることを除いては。参拝客対応の方がその面では楽だと思うけれど、こうやってゆっくりできないもの」

「それがいいんだよ。万全の状態よりも少し疲労があった方が景色は綺麗に見えると思うし。桜とか特にそうじゃないの?」


 陸乃は頭上の桜を見上げて、桜色の団子をはむっと頬張る。


「確かに――そうかもしれないわね。…………。もうしばらく桜に身体を預けてたいわ」

「うん。ゆっくりしてこー。神社に戻ったら忙しない日常が待ってるもんね」


 この景色、この文化を守るのは簡単なことじゃない。けれど、きっとずっと守り受け継がれてれているのは――ゆったりとした春の空気に包まれて、この景色を見られるからなのかも。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集『レメチェロの日常』 八咫空 朱穏 @Sunon_Yatazora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ