004 亜紀ちゃん(仮)

亜紀ちゃんと私とクマのムーちゃん(仮)



 朝、私は目を覚ますと体をひねり、ベッドのわきに置かれていた時計をみた。午前六時少し前。二度寝したくなる欲求を抑えて腕を伸ばすと六時にセットされていた時計のアラームをオフにする。


 なぜかしらいつも時計のアラームの少し前に目が覚める。とくにありがたくもないが、いわゆる第六感と言うやつだろうか。アラームよ、仕事しろ。


 私はそのまま身体を起こして洗面台のある浴室の脱衣所へ向かう。途中、廊下の隅に無造作に積み上げられたガラクタの角へドスッという鈍い音とともに足先をぶつける。


!?


 思わずこぼれそうになる悲鳴をグッとこらえ、壁に身体をあずけながらなんとか痛みをやり過ごそうと片足立ちの姿勢でつま先をさする。床に崩れ落ちた紙箱やら雑誌やらをかき集めて適当に積みなおし、あとでちゃんと片しとこ...なんて殊勝な言葉が頭の片隅をよぎる。


 廊下を振り返ると、読み終えた雑誌やらPCオタクな私の物欲を届けてくれた空箱やらが通路の半分を占拠してしまっている。玄関周りには来週出す予定のゴミ袋やら紙の束。我ながらため息しか出てこない。


 そう、なにをかくそう私はいわゆる干物女の部類なのだ。もちろん飲みかけのペットボトルや生ごみなどはその日の内に処分するし、洗濯物などは割とこまめにたたんでしまう。だがそれ以外の事となると、とんとどうでもよいと思えて来てしまう。


 雑誌の束が詰まれていようが、空箱が多少散乱していようがそんなことで人間死にはしないだろう。これは一つの真理であり、そのことに後ろめたさを感じるなどという選択肢は昨日までの私にはなかった。


 なにせ私は三十間近の独女である。とくに結婚願望が強いわけでなく、将来もおそらくこのまま独身を謳歌し続けるのだろうなどと漠然と考えていた。


 けれども今は急遽あずかることになった小さな同居人がひとりいる。私の歳の離れた姉の一人娘、つまり姪っ子だ。


 現在姉は入院中で、旦那さんは単身赴任中らしい。姪っ子は就学前ながら少々で託児所などにおいそれと預けることもかなわない――なので私に白羽の矢がたった、刺さった、射貫かれた。


 そんなわけで生活力皆無な私のアパートでまだ幼い姪を迎えることになったわけだが、とっちらかした部屋を見られて恥ずかしい、と言うよりはこんな場所に招かざるを得なかった自分が情けなく、また期限未定でしばらくここで暮らすことになった相手を不憫に思う。


 まあ昨晩、姉からの急な電話で病院に呼び出され、その場で事情をきかされてそのまま託された子なのだから文句を言われる筋合いもないのだが、それでもお客さまには変わりない。願わくば姪っ子も私同様些末なことがらにこだわらぬ性分であれ、などと身勝手に思う。

 

 私はまだ痛む足先をかばうようにぎこちない足取りで洗面台の前にたつと、寝ぐせで横に膨らんだ短めの髪をうしろに束ね、髪留めのゴム輪でとめた。それから口をすすいで洗顔を終え、蛇口のレバーに手をかけようとしたところで背後に他人の気配を感じた。


 鏡越しに気配の主を確認すると、脱衣所の戸口の影から白いクマのぬいぐるみを抱えた女の子がこちらの様子をうかがっているのが見えた。きっと足先をぶつけた時の物音で目が覚めたのだろう。瞼が腫れぼったく閉じかかっている。


「ごめん、おこしちゃったね」


 わたしはそういうと小さな同居人の前にかがみこんで両腕を広げて見せた。姪っ子は少しためらいがちの様子で戸口の影からおずおず出てくると、広げた私の腕の中に彼女が抱えていた白のぬいぐるみを差し出してきた。


 ああ、そうくるか...


 そう思いながら私は生贄に差し出されたクマを代わりに抱きしめ、これみよがしにうれしそうな声を上げて顔をぐりぐりと擦り付ける。姪っ子は少しひきつったような表情で私の手の中のクマを見つめながら、どこかこちらの様子をうかがうように視界の端で私のことをとらえていた。


 いや、けっしてアブナイお姉さんではないんだよ、ほんとに...


 聞かされていた話では、姪っ子はどうやら私や姉と同類ので、姉もそのことに最近気づいたのだそうだ。それが故か姪は人並以上に感受性が高く、姉以外の、特に大人に対してどう接すればいいのかわからない、極度の人見知りなのだという。


 まだ小学校に上がる前なのでクラスメイトだのボーイフレンドなどというシガラミはないものの、ときおり姉に連れられる公園では、近所のママさん連中から同い年の子たちと遊ぶように促されても決してけしてその輪に入ろうとはせず、スーパーの買い物中にタイムセールに群がる大人達を前にパニックを起こしそうになった事など一度や二度ではないそうである。それでも姉には姪っ子をひとり家においておきたくない理由があった。


「...ムーちゃん」


 姪っ子が一言つぶやいた。おそらく白クマの名前だろう。目からはすでに大粒の涙が零れ落ちそうになりながら、それでも泣くまいと我慢する姪の姿に私はハッとした。


「ムーちゃん、ありがとね」


 私はあわててクマのムーちゃんを姪っ子に返すと、その小さな黒髪をそっと撫でてみる。さらさらのいい感触。姪っ子は一瞬全身をこわばらせたが逃げようとはせず、先ほどの私以上にムーちゃんをつよく抱きしめると押し黙ったままうつむいてしまった。その表情が私の心にちいさな棘となって刺さる。


こわがらせちゃったのかな?


 私は名残惜しそうに姪っ子の髪から指をはなすと立ち上がり、姪っ子の手を取った。それから廊下に積まれた荷物をよけるように姪っ子の為に用意した寝床へと向かう。


「朝ごはん、できたら起こしたげるから もう少しネンネしようか」


 そう言って姪っ子を寝かしつけると私は台所に入り、普段はあまり使う事のなかったエプロンを付け、冷蔵庫の中見を物色し始めた。


 開封されたチクワとカニカマの袋詰め、ひきわり納豆、半分空になった卵のパック、ブロックチーズにプリン。賞味期限の迫ったパックの牛乳と調味料が少々。残りのスペースは私の主食であるビールのロング缶。ふむっ...軽く自己嫌悪。


 さいわい、冷凍スペースには冷凍野菜とチルドの焼売がいくらか残っていたのでとりあえず朝食はこの辺りで手打ちにしようかしらん、などと考え込んでいるとリビングの片隅から物音がした。


 振り向くと白いクマを抱えた女の子が廊下へと続く扉の向こう側からこちらの方をのぞき見している。どうやら興味を持ってもらえる程度には嫌われてはいないようだ。


 私は姪っ子を手招きするとキッチンの向かいのテーブル席に座らせ、冷蔵庫から取り出したプリンを小皿にあける。姪っ子はムーちゃんを抱きしめたまま目の前の小皿を見つめていたが、私が小さめのスプーンを差し出して代わりにムーちゃんを受け取ると、一瞬だけわたしと視線を合わせてはにかみ、あとはスプーン片手に黙々とプリンに向き合っていた。


 こうしていると年相応にあどけない普通の女の子にしか見えないのだが、昨日いろいろと姉から聞かされた事情をかんがみるに、姪っ子はあるいは今も私に秘密を悟られぬよう気を配りながら、私という存在とどう折り合いをつけ、今のこの時間、この空間をどうやり過ごそうかなどと必死で模索している最中なのかもしれない。


――ママに会いたい、お家にかえりたい――


 そんな言葉が私の頭の中に流れ込んでくる。おそらく姪っ子は今、彼女の唯一の理解者であり、絶対的な味方であるはずの母親――つまりは私の姉――と引き離されて、いきなり見ず知らずの叔母に預けられたことに多大なショックを受けているのだろう。


 私はそんな姪っ子の心細さを理解しながら、私もあなたの理解者だよ、と明かすべく口を開いた。


「急だったから今日の朝ごはん大したものできないけれど、お夕飯は亜紀ちゃんのすきなものつくったげる」


 亜紀とは姪っ子の名だ。私は小さな手で一心不乱にプリンに向き合っている姪っ子の横顔を見つめながら言い、最後に口をとざしたままこう告げた。


――亜紀ちゃん、好きな食べ物は?――


「あっ、は...ハンバーグ」


 亜紀ちゃんはとっさにそう答えた。はじめは私のに気づかぬまま、未知の生物である私と何とか会話をしようと勇気を振り絞って答えてくれた...そんな様子であった。


 私は「わかった」と答えると、しばらく姪っ子の横顔をただ黙って見つめていたが、少し遅れて姪っ子が何かに気がついたようすで私の方を見た。幼いながらに頭のよい子のようだ。


 不安と期待、そして自分がこのあとどう振舞えばよいのか分からず混乱。


 おそらく姪っ子は母親である姉から彼女の抱える秘密は決して他人に明かしてはいけないと何度も言い含められてきたはずだ。


――だいじょうぶ、おばちゃんもだよ――


 そういって私は口を閉ざしたままもう一度語り掛かけた。それからプリンを蓋していた丸い銀紙に視線を向ける。


 十数年ぶりでうまくできるだろうか――意識の集中が最高潮に達した瞬間、テーブルの上の丸い銀紙はカタカタとふるえだし、やがて自ら切れ目をいれ、よじれ、紙切り細工の人型の姿になると、きょとんとした眼差しの姪っ子の前で軽くお辞儀をし――そして私の集中力はここで尽きた。


 私はひどい頭痛を覚えながら、姪っ子を見た。下から差し向けられたその小さな瞳はめいっぱい大きく見開かれ、ふと表情が崩れたかと思うとほんのり赤らんだ頬を大粒の涙がぼろぼろと伝いはじめた。


 どうやら私は姪っ子の中で、未確認生物からちょっとは甘えてもよいオバちゃんくらいには昇格できたのだろう。


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秋島短編夜話 秋島保 @t_akishima

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