003 きつね神
きつね神
~~~ 隠し道 ~~~
男はひとりで道の真ん中にたっていた。
山の頂へとつづく一本の山道だ。男は小首をかしげると後ろを振り返ってみる。その景色には確かに見覚えがあるのだが、自分がなぜここに立っているのかが思い出せない。思い出せるのは旅館で朝食をとり、腹ごなしに裏山へとつづく小道を散策しようと出かけたところまでだ。
ふと道端に目をやるとみすぼらしい祠があり、中におかれた小さな石仏が目に留まる。男はとくに信心深いと言うわけでもなかったが、祠の中の石仏に手を合わせた。
リリン リン...
男がしばらく目を閉じて拝んでいると、どこからか鈴の音が聞こえた。音が聞こえたのは山道のすぐ上の方からだ。不思議に思い、音のした方へと歩き始めると坂の下から見ていた時には気づかなかった脇道がそこにあるではないか。
随分と下草のしげる、見るからに誰からも忘れ去られた林道が斜面の上の方へと続いている。最近イノシシか何かが通ったのか所々踏み分けられた跡があるが、今はもう使われていないのは明らかだ。
男が興味本位で林道の先を覗き込むともう一度鈴の音色がする。結局好奇心に押し切られる形で林道を奥へ奥へと登って行くと、そのうち朱塗りのはげ落ちた鳥居が見えてきた。
坂を上り切った先にはひらけた場所があり、古い小さな社がひっそりと建っていた。せっかくだから手でも合わせていこうと鳥居をくぐった瞬間、男をとりまく空気の質が変わったように感じた。その違和感に男はなにやら不気味な気配を感じ取り、慌ててきた道を引き返そうとした。
『これ、逃げるでない』
頭の中で声がした。男が驚いて広場を振り返るといつの間にか社の扉が開かれて、中からなにやら鬼火のようなものが這い出てくるではないか。
男は直感でアウトだと確信した。草で覆い隠された謎の道、さびれた鳥居、無断侵犯、いかにもと言った風情の社から出てきたのはエクトプラズムもとい鬼火。どう見ても深夜のホラー映画で序盤からフラグ立てまくりのエキストラの役回りである。
『そう恐れずとも好い そなたとワレの仲ではないか』
「どちらさまでしょう?」
男はおのれの耳を疑った。確かに自分は並よりも苦労続きの人生を送ってきた自負はあるが、見るからに人外の知り合いに懐かれた覚えはさすがにない。そもそも会話ができてる時点でやはりアウトだろう。
『あいや、旧知の仲のようにそなたを迎え入れようと言うことよ ほっほっほ』
怪しげな気配はなにやら話を煙に巻くように笑う。そしてそのナニカは社の屋根にのぼり、ケーンと一声高らかに吠えた。
するとどうしたことだろう――先ほどまでうすボンヤリとしていた気配があれよあれよという間に大きな狐の姿へと変じていくではないか。これはいよいよもって宜しくない。スリーアウトでチェンジ。
男はあわててひざまづくと上目遣いにその狐をみた。大人の背丈程もある胴に、三本の尾がユラユラリとぶら下がっている。どうみても妖怪か魑魅魍魎の類にしか見えないが、男は慎重に言葉を選ぶと、あなたは神か、と尋ねた。
『さよう、そう呼ばれて祀ろわれた頃もあったさね』
~~~ 御社のきつね様 ~~~
『昔は村の民草がことあるごとにワレの社を詣でたものじゃて』
狐はしみじみと言う。なんでも元はこのあたり一帯の山におわした山神様の眷属であったが、山神様が去られて野に放たれた狐は、代わりに地元の村人たちに請われて神に祀りあげられたそうだ。
だがそれも今は昔の話で、ここしばらくというもの目の前の男以外誰も狐神の元を詣でるものなどいなかったという。
『それはそうと、一つたのまれてはくれぬかえ』
狐神はただでさえ切れ長の目元を糸のように細めると男に微笑みかけた。そして片方の前脚を持ち上げ、御社の横手にある拝殿を兼ねた小さな祠をさした。
祠の前には人の手で並べた木のみや落葉、蝉の殻などが小分けにされておかれていた。ほかに誰かいるのだろうか?
『なんでもよいからそこへ供え物なんぞしてもらえるとワレは喜ぶぞえ』
「おそれながらお狐様、私にはお供えできるものなどなにも身に帯びてはおりませんが...」
男のその問い返しに狐神はなんでもよいのだと笑って言った。例えばそこいらに散らばっている木の実の中から男が見目の良いと思えるものを手づからあつめてお供えする気持ちで詣でてくれさえすれば、狐の神様はかつて地元の民から慕われていた頃の心地よさを思い返せるのだという。
そこで男は御社を後にすると、近くの森の中へと足を踏み入れた。小半時ほど脚を巡らせて艶のある木の実や型のよい落葉などを集めて戻ると、狐神の言いつけ通り、御社横の祠の前にお供え物をした。
「こんな感じでよろしいですか?」
『善き善き♪』
狐神はどうやら男のお供え物を気に入った様子で、気のせいか体にまとった気のようなものが少し充実したように感じられた。
男は無事狐神を満足させたことで少し安堵しながら、そろそろ元いた道へ戻りたいのだがと狐神に申し出た。すると狐神は愛想よく笑いながら、男が戻りたければいつでもそうしてやれると請け負った。
『ときにそなた、このような山道になにしに参りおったかえ?』
狐神は男をかえしてやると約束しながら、新たな質問を投げかけて男を引き留めた。男は無下に断るのも礼を失すると思いなおすと、しばらく狐神と今の世の中におけるよもやま話などに興じる事にした。
『ほうほう それでそれで』
狐神は男の話すどんな些細な事にも楽しそうに耳を傾け、愛想のよい相槌も惜しまなかった。そして男の話が彼のこれまでの人生について触れ、いかに彼が苦労してこれまで生きてきたのかを知ると狐神はひどく同情するように『クォオン』と小さく鳴いた。
男は失敗続きの人生に嫌気がさし、仕事や家庭のもろもろに疲れ果てて家族を放り出して旅に出たのだ。山に入いったのはべつに世を儚んだというわけではなかったが、あのまま旅館でこもっているより外の風にあたりたかった。
だが何の因果か、こうして神様に乞われるまま心の中の憂さを語り吐き出してみると、そこに残ったのは妻や子供達の顔であり、社会人になりたての頃の自分の姿であり、学生時代の友との時間であった。おそらくは相手が神であると思うからこそすべてを吐露できたのだろう。
男は知らず知らずのうちに涙がこぼれでそうになるのをこらえていた。失敗をひとつ積み重ねるごとに俯くことをおぼえ、いつの頃からか足元だけを見て生きてきたように思う。
この狐神との出会いがなければ彼は山の頂上で景色を満喫し、気分転換してまた元の日常へともどっていたのかもしれない。だがそれでは男の心が再び失敗に手折られるのは時間の問題でしかないことに、今さらながらに気づかされた。
『人の世というのは大変なものよな なればそなたもいっそここで暮らしてみてはどうかの?』
狐神が言った。この神のいうには、今男がいるこの御社の周囲一帯は神仙狐狸の類がすまう常世(とこよ)と隠世(かくりよ)の狭間なのだと言う。狐神はここでの暮らしは男にとって退屈かもしれないが、決して不幸なくらしではないと保証した。
男はこの山で暮らす自分の姿を想像し、それもよいかもしれぬと一瞬思った。しかしそれ以上にいまはあの細道をもどってもう一度自分の人生を生きなおしてみたいと思う自分がいた。それもこれもすべてはこの狐の神様と会えたおかげであると男は素直に感謝した。
『どうやら、こころは変わらぬようだねぇ』
狐神はすべてを見透かした様子でククッと笑みをこぼした。そして三つある尻尾のひとつを軽く振るうと聞き覚えのある鈴の音色があたりに鳴り響いた。
狐神は男に鳥居をくぐったなら決して振り返らずに道を下るよう進言した。そして次の鈴の音が聞こえたとき、この御社へと続く隠し道は閉ざされ、道をそれてからこれまでの男の記憶は心の奥深くへとひそかに祀られるだろうと教えた。
『また会う日もあろうかな たっしゃであれや』
狐神は最後にクゥと声を上げると、後は無言のまま細めた眼で男を送り出した。
~~~ 端境の鈴の音 ~~~
男は狐神の言葉にしたがい、暗く細い山道を振り返ることなしに下り続けた。
黙々と歩き続けると遠くに影と光の境が見えてきた。そこを超えれば自分の生きてきた日常がまっている――そんな考えが男の足取りを心なしか早めた。
御社での一件はこれまで漫然と生きてきた男の心根を確かに変えた。この先自分の人生に大きな展望が開けるとは思わないが、それでも馴染の人々のなかで暮らしていける事がいかに幸せであるか、男は気づかされた。
あの御社に住み着いた狐の神様は最初こそひどく恐ろしかったが、あるいはあのお狐様こそ孤独の日々に倦んでいたのではないかと思いうと不憫に思えてきた。
生き物として誰にも認知されずに生きていく事ほどむなしい事はない。それはおそらく人から祀ろわれる神であっても同じではないか――そう思えるようになったからこそこの山道を立ち返り、もう一度自分の人生を生きようと思えたのだ。
あの祠のある場所を超えれば自分の世界がまっている。すべてを水に流して妻と子達に会いに行こう...などと考えている内に隠し道を抜けだした。
そこは確かに男が立っていたあの山道だ。男は少し下ったところに祠があった事を思い出し、その祠の前まで歩くとかがみこんだ。
お狐様がいうにはつぎ耳にする鈴の音色で自分はこの隠し道とその先の世界の事を忘れるのだと言う。ならそうなる前にこの石仏に手を合わせておきたかった。最初にここで聞いた鈴の音が彼をお狐様に引き合わせてくれたのだから。
リリン...
どこか懐かしい鈴の音がした。男は目を開けるとおもむろに立ち上がり、まるで狐にでもつままれたような顔で周囲を見渡した。
自分が今立っているのは山頂へとつづく道の真ん中。周囲の景色にはたしかに見覚えがあるのだが、自分がなぜここに立っているのかが思い出せない。覚えているのは旅館で朝食をとり、散歩をかねて裏山の小道に足を踏み入れた事だけであった。
男は道端にあった古い祠の存在に気がつくと、かがんで手を合わせた。するとどこからともなしに鈴の音が聞こえてくる。
リリン リン...
どこかで聞いたことのあるような、すこし寂しげな響きが自分を呼んでいるような気がしてならない――そんな不思議な音色だ。
男がふと山道の先を見ると、坂の下から見ていた時には気づかなかった脇道がそこにあった。もう何年も手入れのされていない細道であったが、男は好奇心に誘われるままその脇道にあしを踏み入れた。
―― きつね神・どこかでみた景色 終 ――
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