不滅の夜

夏迫杏

不滅の夜

 草木の濡れた蒼く冷たいにおいに充ちている川沿いから夜空を見上げて、星座はちっともわからないから理科の授業で習ったカシオペヤ座だけを視線で結び、数多あるほかの星々は銀河であり流星でありただの星であってほしかった。壊れるように光を飛び散らせる星空は綺麗というよりも恐ろしくて、アニメ映画みたいに現実味がなくて、ミサイルのようでもあって、世界が滅ぶ日はこうやって目を眩まされながらなにもかもが命を終えていくのだろうなという気がする。

 右側にあった体温の気配が、わたしの右手を繋いだことで摂氏三十六度のユキヤの体温に変化する。十二月だというのに手のひらがすぐにぬめっていくのが嫌だった。ユキヤは嘘みたいに存在している。

「また酷くなってる……」

 わたしに話しかけるでもなく、けれど聞いてほしそうでもある声色で、ユキヤはぼそりと呟いた。

「やっぱり、どうにもならないんだ?」

「うん。おれたちにできるのは見つめて待つことだけだよ」

「逃げられないの?」

「それも無理。これからなにが起きるのかわからないからどこに逃げればいいのかわからないし。だからほんと、なにもできない」

 右手を包む熱がさらに強くなり、力を込めたのだとわかった。星は時折分裂して、花火みたいに弾けて夜空の色を隙間なく埋め尽くそうとした。むかしなにかのテレビ番組で人間は明けない夜よりも暮れない昼に気を狂わされると言っていたことをおもいだす。だから、たとえ躰が無事であったとしてもこのままではこころが潰されて、結局は助からないのかもしれなかった。

 わたしもユキヤの手をぎゅっと握る。体温も、皮膚も、骨も、厄災に怯えるきもちも、ここにちゃんとあるのに……ri・ri・ri……視界が暗転する……Giriririri……重力が躰をベッドに押しつける……Giriririri・Giriririri……。

 ジリリリリ、ジリリリリ。

 反射的に手を伸ばした先にあった目覚まし時計のスイッチを押してアラームをとめた。六時三十一分。カーテンの明るい透け具合で外は晴れていると把握する。階下からパンの焼ける香ばしいにおいが漂ってきていて、我が家の朝ははじまっているのだった。パジャマ代わりにしているミッキーマウスのスウェットワンピースを脱ぎ、バスケットボール部のチームTシャツと高校のジャージの上下に着替える。きょうの朝練は外だからスタンドの駆け上がりがある。グラウンドをぐるりと囲んでいる大きな階段を踏みしめる度に脚に痛みと疲労が蓄積されていく、あのだるさをおもうとまだはじまってもいない部活動に対するやる気が削がれていった。

 学校の荷物を抱えてリビングに下り、幼稚園のときに使っていたマイメロディのイラストがプリントされている小さくて薄っぺらい座布団が載っている椅子に腰をおろした。いただきます、と手をあわせると階段を下りてくる慌ただしい足音がどたどたと迫ってきて、リクルートスーツ姿の姉が髪をくくりつつ洗面台へと足早に向かう。うわあ、おとうさん。洗面台代わって。ええ、もうちょっと待って、もうちょっとで剃り終わるから。姉と父がやりあっているのを聞きながら朝食のサラダのトマトにフォークを突き刺したとき、夢をみたことをふっとおもいだした。

 ユキヤ。

 全身が凍ったような心地がした。ニュース番組の左上に表示されている時刻は六時五十五分で、目がさめてから二十分ものあいだユキヤのことを憶えていなかったことにぞっとする。時刻の横には主要都市と近隣県のきょうの天気が小さく表示されていて、どこも太陽のマークがついているのに気温は十度前後しかない。トマトを口に入れる。赤いのに、蒼い味がする、とおもう。元は食べものではなく植物だということを知らしめるような。人間はもともとなんだったのだろう。前世とか元祖とかそういった記憶はわたしのなかにはなくて、人類史においてはただ遺伝子を未来に引き渡すだけの立ち位置にいる。

 その相手があなたであればいいのにと、願いながら諦めて、何年が経っただろう。

 ユキヤと手を繋いだ感触は、憶えていても、手のひらにはもう残っていない。



 じぶんの席につくなり上半身が勝手に机に倒れこんだ。トレーニングをしたぶんすぐに筋肉が増えるというわけでもないのに脚が重たくてならない。そして朝練の終了時間から一限の開始時間までに五分しかなく、そのあいだに制服に着替えて四階にある教室に辿り着かなければならないなんて、なにかの罰でも受けているのだろうかと勘違いしそうになる。

「うわ、いきなり寝るじゃん」

 前の席に座っている松木が苦笑混じりに話しかけてきた。渋々あたまを上げて松木の顔を確認する。クラスの女の子たちから恰好良いということで人気のある松木は相変わらず前髪が長すぎるうえにワックスで髪型をしっかりとセットしていて、ちゃらちゃらとつくりこんでいる感じがぜんぜんすきになれない。三か月前にわたしをすきだと言ってきたこともいまだに解せなかった。

「なに、朝っぱらから夢の王子さまとデートでもすんの?」

 それと、告白を断る口実としてユキヤの存在を松木に喋ってしまったのは悪手だったと、こうやってからかわれつづける限りずっと後悔するのだろうなとおもう。

「違うよ」

「ふうん。おれだったら寝て会えるならいくらでも寝るけどな。ひとをすきになるってそういうことじゃないの?」

 がらがらがら、と前方の扉が開いて先生がやってきて、松木は前を向き、わたしは姿勢を正して化学基礎の教科書を机に出した。

 そうだよ、松木は正しいよ。

 こころのなかで肯定して、でもできないよ、と付け加える。

 ユキヤは漢字で幸夜と書く、ということをいつの間に知ったのか憶えていないくらいにはずいぶんとむかしに知りあって、ユキヤのマンションの前にある公園で一緒によく遊んでいた。小学校にあがったあたりでユキヤが生活しているのはこの世界ではないと気づき、女の子たちがしきりに話したがり聞きたがる恋ばなの、恋、の真剣さがすきなひとに告白をして恋人同士になるといった具合に現実味を帯びてきたころに、みんな夢のなかに棲むひとをすきになるなんてこともなければ、そもそもそういった夢をみないのだと察した。なので、恋ばなに巻きこまれたときはバスケットボールが恋人だということにして、周囲の表情が楽しいからつまらないに切り替わる薄暗い瞬間に喉の奥をひゅっと潰されながら、女の子の輪のなかで息を殺して過ごした。夢の世界に盲目になれるほど、普通とか常識とかというのは単純ではないのだった。

「水兵リーベ、僕の船。なあ、曲がるシップス、クラークか」

 黒板に書き写された元素記号を、こん、こん、こん、とチョークで示しながら先生が唱える。春にやりましたね、憶えてますか、では復習ということでみなさんも一緒に、さんはい、という合図で教室中からぼそぼそとした声が湧きあがった。いつもやかましく感じる松木の声ですら無個性に溶けこんで、どれが誰の声だかわからない、そのなかでわたしも呟いてみる。

 水兵リーベ、僕の船。なあ、曲がるシップス、クラークか。

 周期表を覚えるためだけの物語に深い意味はない。

 あの曲がっていく船の名がクラークなのかどうかもわからないまま、やがて周期表のことも忘れていく……だれもいない冬の午前の公園に立ってあのひとを探している、空はもう夜を終えているというのに星の瞬きが止まずぎらぎらと光っていて目にわるい、だからきつく目をとじた……はっとして前を向くとまだ化学基礎の授業中で、うつらうつらとしているうちに黒板の周期表は消され、話題は化学結合の分類のおさらいに移っている。ユキヤはいまごろなにをしているのだろう。真面目だから家で参考書をひらいているのだろうか。むこうの世界では一学期の終業式とともに教育機関が廃止になって小学生も中学生も高校生も大学生もみんな学校に行かなくなっていた。そのうち大人たちも働かなくなって、誰もなにもしなくなるかもしれない。

 おれたちにできるのは見つめて待つことだけだよ、と今朝の夢でユキヤが言っていたことをふっとおもいだした。

 世界が終わるということは、そういうことだ。



 ベッドに腰かけて窓を見やると、藍色のカーテン越しですら星々が強く瞬いているのがわかるくらいに布の淵から光が漏れ出している。カーテンにプリントされた金色や銀色の星の柄がちゃちだった。世界がこうなると知っていたなら、誰もこんなカーテンは選ばなかったし、つくらなかっただろう。

 はいお茶、とユキヤからグラスを差し出されて、ありがとう、と受けとる。

「ユキヤ、ひとりで平気?」

「うん。連絡はとってるから大丈夫」

 鏡で囲まれているかのように星々の反射が繰り返されるこの世界ではついに眩しさのあまり目もあけていられなくなり、外に出るのも難しいほどになっていた。こうなる前に帰宅できなかったユキヤの両親は職場で寝泊まりしているらしい。

 ユキヤが隣に掛け、マットレスがすこし沈んだ。体温が近い。ユキヤの部屋は埃のような防虫剤のような、籠ったにおいが立ちこめていて、よその家に来ているのだという感じがする。もしユキヤと暮らすことになったらわたしもこんなにおいを纏うようになるのだろうか。わたしがおもいつく未来はもうやってこないものばかりだ。

「夢のなかならノーカンになる?」

 不意にユキヤが言いだした。

「なにが?」

「ファースト・キス」

 ずき、と胸が痛んだ気がした。どき、と高鳴る感じじゃなかったのが嫌だなとおもう。きっといまがそのタイミングなのに。恋を至上とする女の子たちが待ち望むような瞬間なのに。両手で包みこむように持っていたグラスのなかにはまだお茶が残っていて、天井と、隣に座っているユキヤの肩が映りこんでいる。

「ノーカンじゃないよ」

「じゃあ、やめとく。おれはいなくなることしかできないから」

「……うん」

 会話は途切れて、ユキヤとわたしはただ隣に並んで座っている。カーテン越しの星の光がさっきよりも強くなっていた。もうおしまいなのだった。きょうでユキヤのいる世界がなくなってしまうとなぜだかわかっているじぶんがいて、でも、わたしは漫画の主人公みたいに勇敢さもなければ星々の氾濫をとめる術も知らない。ふたつの世界を行き来する能力が備わっているのだからそれくらい教えてくれたっていいのに神さまは優しくない。与えるだけ与えて、失わせるだけだ。

 忘れないよ、も、ずっとだいすきだよ、も、口のなかで転がすだけにした。でないとキスをしなかった意味がなくなってしまう。おたがいにもっと物分かりがわるければ一瞬の愛に喜べたかもしれない、真面目は損をする、でもわたしたちは永遠を望むくらい大切に想いあっているから……後頭部のほうから闇に吸いこまれていく……どうか、さめるな……ぎゅっと手を握る……けれどそこにあった手はすり抜けて消えてしまう……躰がベッドに打ち上げられる……ぱちと目をひらく。部屋はまだ暗く、目覚まし時計を手繰り寄せると五時三十八分だった。さっきまでのことは曖昧な映像として切れかけの蛍光灯みたいにぷつぷつとわたしの記憶のなかで光っている。もう一度眠ればまだ間にあうんじゃないかとおもって目をとじたけれど、ちっとも眠れそうになかった。

 涙が出てきて、枕に顔をうずめた。

 顔も、声も、まだおもいだせる。

 けれど、ユキヤはもういない。

 もういないということは、間違いなく存在したということだ。



 冬晴れの空の薄く明るい、透きとおった青色の清潔さは空気にもあらわれていて、深く吸いこむとしんと綺麗な冬のにおいがした。びかびかと星が強い光を放つこともなければ、光線にすべてが呑みこまれていくような想像をして怖がるようなこともなく、朝は安全に訪れる。ずる、と鼻水が垂れてきて鼻を啜ると喉にひっかかって噎せた。

「おはよ」

 挨拶が聞こえてきて肩を叩かれる。振り返るとつくりこみすぎた髪型をしたいつもの松木がいて、わたしの顔を見た瞬間にぎょっとしたのがわかった。家を出る前に寒いのを我慢して保冷剤を当ててきたものの目の腫れはうまく引いてくれなかったらしい。

「酷い顔だな。夢のなかの王子さまと喧嘩でもした?」

 違うよ、喧嘩すらできないんだよ。答えをおもいうかべながら、口には出せなかった。けれど会話を不自然にとめてしまうのも憚られて、鼻の奥と喉のあたりがねちゃねちゃと気持ち悪いのを咳払いで追いだす。

「松木はさ、変だとおもわないの?」

「なにが?」

「夢の世界とか、そっちに住んでる幼馴染の男の子がいるとか」

「ははは、すっげえ今更じゃん」

 松木はブレザーのポケットに手を突っ込んで空を見上げる。髪型も顔もすきではないけれど、背が高いから様になるなとおもった。

「お前がそう言うならそうなんだろうなっておもってる」

 で、なにがあったんだよ? と松木は続けて、別になにも、とはぐらかす。嘘つけ、ぜったい泣いただろ、と松木に問いただされ、ドライアイなの、と無理のある言い訳をする。そのわりに目頭が熱くなって瞳が潤んでくる。ユキヤと会話がしたかった。なんでもないようないちにちをなんでもないまま過ごしたかった。そんなことを、これから何百回もおもうのだろう。誰かにユキヤを重ねあわせながら、ユキヤを見つめつづけるのだろう。贅沢で、満ち足りた不幸だ。

 不意に頬に冷たさが当たり、冬の青空のもとで微かな雪が降っていることに気がついた。

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