第3話 ノックの音がした>FかMか
ノックの音がした。
音を立てた主である男は、扉の前で固唾を飲んだ。
周囲は騒ぎ立てる人、人、人で埋め尽くされている。
闘技場のフィールド、その北端で、男は今まさに決断を迫られていた。
「弱々しいな!」
胴間声が響き渡った。王が豪奢な椅子から立ち上がり、嘲っていた。
「その扉はいたく頑丈にできておってのう! そんな軟弱な叩き方では、何も響かん。中にいるものが何奴であろうと、気づきはせぬ」
男は王――彼を裁こうとしている王に背を向けると、再び扉を叩かんと、拳を作った腕を振り上げた。数刻前のことを振り返りながら。
――男は選ばねばならない。二つある扉の内、どちらかを。
その一方には美しい女が、もう一方には虎が隠れている。
女を選べば彼は罪を赦され、彼女と一生、添い遂げることになる。
虎を選べば……即刻、死刑が実施される。
扉の真ん前に引き出された際、男は肩越しにちらりと振り返った。その先には、彼と恋に落ちた王女がいる。
(さっきの目配せを信じていいのだろうか)
男の脳裏にふとよぎる、一つの不安。
競技場に出て来た彼に、王女はかすかに微笑み、些細な手の動きで、右を開けろと伝えてきた。
(右を開けなさい、という意味だろう。だが、果たして信じていいものか? 右を選んで、中にいる女性と私が結婚してしまって、王女は本当にかまわないのだろうか? ひょっとすると、王女は、虎のいる扉を示したのでは? 私と添い遂げられぬなら、私が他の女と一緒になるのなら、いっそ私を亡き者にしようとして……)
かぶりを振る。疑い始めると、きりがなかった。
悩んだ彼は粘りに粘って、王から、「どちらかの扉を一度だけ、ノックしてもよい」という譲歩を引き出すことに成功した。
そして男は、震える手で、ノックをしたのだった――。
いくら身分が違うとは言え、弱々しいと罵倒されては、男も奮い立たない訳がない。腕から震えは消え、力がみなぎる。
「先ほどの分は、数に入れないでやろう。さあ、早くせよ」
王の声が聞こえた。
男はもはや振り返りもせず、扉を叩いた。もちろん、右側だ。
野次や歓声の中、必死に聴覚を研ぎ澄ます。
次の瞬間、男の顔色が青くなった。
すかさず身を引き、荒い息を吐きながら、扉を凝視する。
(き、聞こえた……。かすかだが、確かに聞こえたぞ、虎の咆哮が!)
男は、王女を睨みつけてやりたい心境だったが、それ以上に怖さが立った。
(王女は私を死なせたかったのだ……恐ろしい。笑顔で、あのような振る舞いができるとは、恐ろしい人だ)
男は呼吸を整え、意を決した。
左の扉へ向かって、真っ直ぐ、歩く。
いよいよ訪れた審判の瞬間に、場内がひときわ盛り上がった。
王の胴間声が響き渡る。
「ほう、そちらを選ぶか? よいのだな?」
「迷いはございません」
最後に一言叫び、男は扉の取っ手に両手を掛けた。力を込め、引くと……。
「あの馬鹿めが、引き裂かれよった」
王が満足そうにうなずく横で、王女は遺体が処理される様を、手すりを越えて身を乗り出し、食い入るように覗き込んでいた。
「娘よ。全然、悲しんでおらんようだな。少しはおまえも、あの男に未練があるものかと思っていたのだが」
「未練? そんなものはありませんわ、お父様」
王女は、フィールドから目を離さず、淡々と返事した。
「彼が他の女と結婚しようが、虎に食われようが、どっちでもよかった」
「そうであったか? あやつが入ってきた折、おまえがあの男に合図を何やら送っていた様子、見ておったぞ」
「合図? 何のことでしょう?」
視線を父王に向け、きょとんとする王女。
「とぼけても無駄だぞ。右の手をひらひら動かしておったではないか」
「ああ、あれは」
にこりと笑う王女。安心したように、また競技場内に視線を落とした。
「小さな蝶が飛んできたから、相手をしていただけです」
男は幸せに死んでいった。
(王女は、私が他の女と一緒になっても生き延びることを願っていたのだ。どうして、疑ってしまったのだろう)
息絶える寸前、そんな彼は最後の疑問を抱え込んだ。
(右の扉を叩いたとき、どうして虎の声が聞こえたんだ?)
遺体の処理が完全に終わって、王女は背もたれにゆったりと身を投げ出した。
「お父様。一つ、教えていただけます?」
「何だね」
髭を一撫でする王は、すこぶる上機嫌らしかった。
王女は、小さく欠伸をしてから、のんびりと尋ねる。
「左が虎だったということは、右の扉の向こうには、女がいたのですね?」
「ああ、いたとも」
前を向いたまま大きくうなずいた王は、不意に王女へ向き直り、くっくと含み笑いを始めた。
「どうかしたのですか?」
「いや、なに。ふむ、おまえがあの男に執着してるのでないと分かった今、話してもよかろうな。実はな、わしはあの男を許すつもりはなかった。おまえをめとろうとした不届き者を、許せるものか!」
「……と言いますと?」
訝る王女に、王はますます得意そうに続けた。
「扉の中にいるのは、両方とも虎だったのだ」
「まあ。それでは、先ほどの裁判はいんちき」
「人聞きの悪いことを言うでない。わしは嘘はつかぬ。左の扉には、あの通り、虎を入れておいた。雄の獰猛な奴をな。そして、右の扉には、ほれ」
王が競技場内の一角を指差した。ちょうど、右の扉が開かれ、中から何ものかが引っ張り出されるところであった。
「雌の虎を入れておった。虎でも、女には違いあるまい。美しい女だ」
「――確かに」
王女はにっこり、笑った。
彼女が見た雌の虎は、間違いなく、美しい肢体を持っていた。
――終わり
ノックの音(達)がした:第2集 小石原淳 @koIshiara-Jun
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