第2話 ノックの音がした>ヘブンズドア
ノックの音がした。
青年カミは周囲を見渡し、叫びたくなった。
馬鹿な!と。
彼は今、無人島にいる。
カミは人間であり、その彼がいるからには、無人島という表現は不正確だが、カミが来る前までは、誰も住まない島だったのだ。
孤島と呼ばないのは、彼のいる島が群島の一つだからである。尤も、他の島もどれも無人らしいので、全体で孤島と言えなくもない。
さて、一般常識の通り、無人島にはドアなどない。元々、建物一つない、全くの手つかずの状態で土地が、自然が残されているのだ。
加えて、何度も書くが、この島にカミ以外の人間はいないはず。仮にドアがあったとして、誰がノックをしたというのだ。気まぐれなキツツキがいいところだろう。
かような理由から、カミが馬鹿な!と叫びたくなったのも、無理ない。
ところが。
空耳だったのかと考え、カミが耳の穴を右、左の順に小指でほじくっていると、それこそ馬鹿げた現象が島の上で起こり始めた。
彼の目の前に、ピンク色をしたドアと、その枠が現れたのである。なかなか大きくて、立派なドアだ。立て付けもよさそうである。
地面に座り込んだまま、唖然とするカミ。
彼の動揺なぞお構いなしに、ドアはそろりそろりと開かれ、できた隙間から、黒サングラスをかけ、髪をつんつんに立てたパンクな男が現れた。
そいつはきょろきょろと首を動かすと、何やら異国の言葉でぶちぶち言いながら、全身を現した。
最初の印象よりも、ずっと小さかった。カミよりも年下のようで、少年と呼ぶのがふさわしい。
少年の手によってドアが閉じられるまでの間、向こう側に見たこともないような世界が広がっているのが、カミには見えた。
突然の事態に、訳が分からず、しばし大口を開けていたカミだったが、不意に正気を取り戻すと、パンク少年に取りすがらんと、駆け寄った。
肝心なことを書き忘れていたが、カミは遭難者なのである。仙人のような暮らしに憧れ、島に渡って独り暮らしをしているのでは、決してない。船が難破し、彼だけが幸運にも、この島へと漂着したのである。
その遭難者たるカミが、助けてくれ!と言いながら手を伸ばした先には、鋲やらとげとげやらが無数に装着された、黒革のベストがあった。
少年は跪いているカミを見下ろすと、カミには理解できない言語で何やらまたぶつくさ言ってから、ポケットに入っていた半月型の財布のような物を取り出し、さらにその中に手を突っ込んだ。
再び現れた手には、手の平サイズの直方体が握られていた。
ぬめぬめと灰色にてかり、ぬるんと震えるその奇妙な物体を、カミは初めて見た。腐ったゼリーかとも思ったが、どうも違う。
その気味悪い物――カミは知らなかったが、こんにゃく。ある特殊なこんにゃく――を、少年はまずそうに食べた。喉の動きを見ていると、嫌いな物を我慢して食べるときのように、一気に飲み込んだらしいと分かる。
「おっさん、ボクの言葉、分かるかい?」
少年は唐突に、荒っぽいながらも、カミの国の言葉で喋り始めた。
「あ、ああ。わ、分かるよ……」
「よし。この道具は正常だ」
ご満悦な笑みを浮かべ、サングラスの少年は舌なめずりをした。
「さて、帰るかな」
くるりと向きを換えた少年に、カミは慌てて取りすがった。飛び出した金属製の棘が痛かったが、そんなことを気にしているときでない。
「待ってくれ! 僕を助けてくれ。き、君はどこから来たんだ? 僕はてっきり、この島には誰もいないと思っていたが」
「……ああ、それで合ってるよ。この島には、おっさん一人しかいない」
「だが、君がいる。君はどこから来たのか、さあ、教えてくれ」
「教えてくれと言われてもなあ。色々ややこしいし、面倒だし」
立ったまま貧乏揺すりをしている少年。一刻も早く、帰りたいようだ。
それを見て取ったカミは、もう理屈なんてどうでもよくなった。とにかく、この島から脱出できさえすればいい。
「分かった。事情は聞かない。頼む、僕を連れて行ってくれ」
「……それは、難しいな」
「何故だ? そのドアを使えば、どこにでも行けるんだろう?」
当て推量を述べるカミ。いや、それはもはや、確信に近い。――どんな仕組みか知らんが、この書き割りみたいなドアがあれば、二点間がどれほど離れていようとも、簡単に行き来できるに違いない!
「そりゃまあ、そういうようなもんだけど。いつ壊れるか分かんねえんだよな」
「壊れる?」
「ごみ捨て場に転がってた青っぽいロボットから、かっさらってきたがらくただからな。その性能チェックをしてるの、ボク」
「話が見えないが……いいじゃないか。君もこのあと、元の場所に戻るんだろう? 僕も君に引っ付いて」
「だめだめ。一回、試したんだ。二人続けて通ろうとすると、がたぴしゃ、軋んじまって、危なっかしいんだよな。ほい、こっちから見てみろよ」
と、少年は指をくいくいと曲げ、カミを呼ぶ。
「あんたの側は頑丈そうに見えるだろうけど、こっち側は、ほら、こんなにがたが来てるんだぜ」
黒い手袋をはめた手で示されたドアの反対側は、確かに薄汚れており、所々にひびが入っている。下の方の黒ずんだ箇所は、かびか。
「一人で慎重に使う分にゃあいいけどよ、二人目からが危ないんだ。そういう訳で、ボク、危険は嫌だから」
元の側に戻り、ドアノブに手を掛けた少年。
しかし、カミはあきらめなかった。
扉が開くや、少年の肩を後ろから掴み、ひっぺがす。そのまま向こうへ転がり込もうとした。
が、長きに渡る遭難生活故か、足腰が弱っていた。もつれる。
「てめえ、いい度胸だな」
少年はちっとも恐くない声で凄みながら、素早くカミの身体にのしかかってきた。
「気をつけて扱えって、言ってんだろ? ボクが帰れなくなるじゃないか!」
一発、殴りつけ、カミを伸してから、すっくと立ち上がると、少年は気持ちよさそうに手をはたいた。
「じゃな。達者で暮らせよ、っと」
通るのに邪魔なカミを、少年が蹴りつけようとした。
それが間違いだった。
カミはその蹴り足にしがみつくと、骨をも折れよとばかり力を込める。
「連れてけ! 俺を連れてけ!」
「わ、馬鹿、放せ、このやろ」
残った足で蹴り飛ばそうともがく青年だったが、カミにもこのチャンスを逃したら最後という必死さがある。幸い、かいな力の方は、まだまだ衰えてはいない。
「馬鹿やろっ、さっさと、どけ! ドアが閉まったら……やり直しが利かねえんだっ」
「うるさい。へへ、放さねえぞ。絶対、放さねえ」
「こら、放せ! こんな、暴れたら、壊れる! あ、あ、閉まる!」
「へへへ、帰れるんだ」
ぱたんと音を立てて、ドアは閉まった。隙間なく、完全に。
そして……ドアが一枚、残った。
ご存知の方はご存知に決まってるが、このドアが正常に動作したならば、目的地に行って、また元の場所に戻って来た時点で、目的地上に現れたドアは消えるのだ。
それが今、島にはぽつんと、ドアが残った。
島の真ん中に、ドアとその木枠だけが建っているのも、それはそれでシュールな眺めかもしれない。が、このドアは二度と開かないだろう。
かの有名な、未来からやって来た猫型ロボットとやらがいれば、修理してくれるに違いないが、もはや叶わぬ願いのようだ。
カミと少年が、どこに行ったのか。どこを彷徨っているのか。
それは誰も知らない。
――EXIT
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