ヘルマン・ヘッセ 大懺悔聴聞師

りか

目的は青春時代愛読した健二訳の復元

ざんげ聴聞師


聖ヒラリオンが、すでに高齢ではあったけれど、まだ生きてい

たころのことであった。ガザの町に、ヨゼフス・ファムルスと

いう名の男が暮していた。三十歳まで、あるいはそのさきま

で、世俗の生活を送り、異教の書物を研究したが、それから、

ある女性のあとをつけているうち、その人によって、神の教え

とキリスト教の徳の甘美さを教えられ、神聖な洗礼を受け、罪

を断つ誓いを立て、数年間自分の町の司祭の足もとにすわり、

特に、荒野の敬虔な隠者の生活を書いた、非常に愛読された物

語を、熱中して聞いたが、ついに、三十六歳のころ、ある日、

聖パウルとアントニウスが先に立って進んで以来、多くの敬虔

な人々が踏み入った道に進んだ。つまり、財産の残りは長老た

ちに渡して、町の貧乏人たちに分けてもらうことにし、城門の

そばで友人たちに別れを告げ、町から荒野へ、卑しむべき俗世

からざんげ者の貧しい生活へと、さすらい出た。


多年、彼は太陽に焼かれ、ひからびた。岩と砂の上で祈りなが

らひざをこすり、断食し、日没を待ってから、数個のナツメヤ

シをかじった。悪魔は誘惑と嘲りと試練をもって悩ましたが、

彼は祈りとざんげと献身とをもってこれを打ち負かした。それ

は逐一、聖なる教父の伝記に描かれているとおりである。幾夜

も彼はまんじりともせず星を見あげた。 星も彼を誘惑し混乱

させた。彼は星座の形を理解した。神々の物語や人間性の象徴

をそこに読むことを、かつて学んだ からである。それは、司

祭たちが毛ぎらいする学問であったが、異教徒時代の空想と思

想とでもってなお長いあいだ彼を悩ました。


その地方で、不毛の荒野のただ中に、泉や、一握りの緑や、大

小のオアシスがぽつんとある所には、どこでも、当時隠者が暮

していた。まったく独りのものも少なくなかったし、ささやか

な修道団を作っているものも少なくなかった。ピザの墓地に描

かれているとおりである。いずれも、貧困と隣人愛を実践し、

あこがれのアルス・モリエンディ、すなわち死ぬ術、俗世と自

我から死別して、救世主のもとへ、光と不朽のものの中へ死ん

でいく術の達人であった。彼らは天使と悪魔とに訪われ、讃美

歌を作り、魔精を追い出し、人を癒し、祝福を与えた。そして、

過去と未来の多くの時代の世俗的快楽や、粗野な行いや、官能

の欲望を、感激と献身の大波によって、俗世の放棄を忘我的に

高めることによって補う義務を負っているように見えた。彼ら

の多くは、古代の異教徒の浄化法、アジアで何世紀にもわたっ

て練り上げられた精神化の方法と訓練に通じていたのだろう。

しかし、そのようなことは何も語られなかった。キリスト教が

ますます厳しく異教的なものに課す禁令下にあったのである。


これらの悔悛者の中には、彼らの人生の熱意が特別な賜物、祈

りの賜物、按手による癒しの賜物、預言の賜物、悪魔払いの賜

物、裁きと罰の賜物、慰めと祝福の賜物を発展させた者がいた。

ヨセフスにも、ある賜物が眠っていた。そして、年を経るにつ

れて、彼の髪が白髪になり始めると、それはゆっくりと開花し

た。それは、「聞く」という才能であった。世俗の兄弟がヨセ

フのもとにやってきて、自分の行い、苦しみ、誘惑、失敗を語

り、自分の人生の物語を語り、善のための闘い、その闘いでの

失敗を語った。ヨセフはその人の話を聞き、耳を傾け、心を開

き、その人の苦しみや不安を自分の中に集め、それを抱え込む

術を知っていたため、悔悛した人は空っぽになり、心を落ち着

かせて帰っていった。長い年月をかけて、ゆっくりと、この機

能が彼を支配し、彼を道具として、人々が信頼する地としたの

である。


彼の美徳は、忍耐力、受容的な受動性、そして大きな思慮深さ

であった。彼のもとには、心の苦しみを打ち明けようとする人

々がたびたび訪れるようになった。しかし、その多くは、はる

ばる彼の小屋まで来たにもかかわらず、告白する勇気がないこ

とに気づく。恥ずかしさに身をよじり、自分の罪についてとぼ

け、大きなため息をつき、何時間も黙っている。でも彼は率直

に話すかしぶしぶ話すかにかかわらず、すべての人に対して同

じように振る舞い、流暢に話してもためらいながら話しても、

激怒して秘密をぶちまけようが、秘密があるからと自惚れよう

が、誰に対しても同じように振る舞った。


彼はすべての人を同じように見ていた。彼が神を非難したか、

それとも自分自身を非難したか、罪と苦しみを拡大したか最小

化したかそして、彼が殺人を告白したか、単にわいせつな行為

を自白したかどうかにかかわらず、彼が不貞の恋人を嘆いた

か、魂の救いを失ったか。ヨセフスは、誰かが悪霊との会話に

ついて話したときも、心配しなかった。悪魔と最も友好的な関

係にあるようだった。彼は忍耐を失わなかった明らかに主要な

問題を隠しながら、誰かが長々と話したとき。誰かが妄想と

でっち上げの罪で自分を責めたときも、彼は厳しくもなかっ

た。すべての苦情、告白や、訴えや、良心の苦しみなどはすべ

て、水が砂漠の砂に吸われるように、彼の耳の中にはいってい

くように見えた。


彼はそれを批判せず、ざんげ者に対し同情もけいべつも感じな

いように見えた。それにもかかわらず、あるいは、おそらくそ

のためにこそ、彼に向ってざんげされたことは、むなしいこと

ばの浪費にはならず、話しているうちに、聞かれているうちに、

変えられ、軽くされ、溶かされるように見えた。訓戒や警告を

与えることは、ごくまれで、忠告や命令を与えることはなおさ

らまれだった。それは彼の役目ではないように見えた。話すほ

うでも、それは彼の役目でない、と感じているように見えた。

彼の役目は、信頼の念を起させ、信頼を受け、辛抱強く、愛情

をこめて傾聴し、まだ形になりきっていないざんげを完全な形

にするよう助けてやり、心の中に積み重なって、かさぶたので

きてしまったものを流出させるように仕向け、それを受け入れ

て、沈黙の中に包んでやることであった。


ただ、恐ろしいざんげにせよ、無邪気なさんげにせよ、深い悔

恨のざんげにせよ、うわの空のさんげにせよ、ざんげが終ると、

ざんげ者を彼は必ず自分のそばにひざまずかせ、主の祈りを祈

ってやり、ひたいにキスをしてやってから、帰らせた。罪の償

いと罪を課すことは、彼の役目ではなかった。本来の司祭の行

う免罪言い渡しをする権限も、自分にはないと感じていた。罪

を裁き許すことも、彼のなすべきことではなかった。傾聴し理

解することによって、共に罪を受け入れ、背負う助けになるよ

うに思われた。沈黙することによって、聞いたことを沈めて、

過去の手に引き渡すことになるように見えた。ざんげのあとで、

ざんげ者と共に祈ることによって、彼は相手を兄弟として、仲

間として迎え、認めることになるように思った。キスすること

によって、司祭としてより兄弟として、儀式によるより愛情に

よって、相手を祝福することになるように思った。


彼の評判はガザの周辺全体にひろまった。彼は広く知られ、と

きには、尊い偉大なざんげ聴聞師である隠者ディオン・プギル

と並び称せられた。もちろんプギルの評判は、もう十年も古く、

まったく別な能力と習慣にもとづいていた。そもそもディオン

師が有名になったのは、彼に告白をする人の心を、語られたこ

とばより、なおいっそう鋭く早く読むことを心得ていたので、

ためらいがちにざんげしているものに向って、頭ごなしに、ま

だざんげしていないことを言って、しばしば相手を驚かす、と

いうふうだったからである。この心霊通については、ヨーゼフ

も驚くべき話をたくさん聞いていた。この人に自分を比べるこ

となど、思いもよらなかった。とにかくディオン師も、迷える

魂にとって、神の恵みを受けた助言者であり、偉大な裁き手で

あり、処罰者であり、世話役であった。すなわち、彼は罪の償

いや、禁欲や、巡礼を課し、結婚を成立させ、敵同士をいやお

うなしに和解させた。彼の権威は僧正のそれに匹敵した。彼は

アスカロン(今日のイスラエルにある地中海岸の地名)の近くで

暮していたが、イェルサレムからさえ、いや、もっと遠い土地

からさえ、願いごとをする人が訪れた。


ヨゼフス・ファムルスは、大多数の隠者やざんげ者と同様、は

げしい、心身をすりへらすような戦いを長いあいだ経てきた。

たとえ俗世の生活を捨て、財産と家を放棄し、世俗や官能の快

楽へ誘うものの多種多様にある都会を離れてきたとは言え、自

分自身を捨ててくるわけにはいかなかった。彼の中には、人間

を困難や誘惑に陥れる可能性のある心身の本能が残らず存在し

ていた。


彼はこれまでまず何よりも肉体と戦ってきた。肉体に対し厳し

く仮借のない態度をとり、肉体を寒暑、飢渇に慣れさせ、傷あ

とやすわりだこに慣れさせたので、ついに肉体は徐々に枯れし

ぼんだが、それでもなお、やせた禁欲者の肉体の中では、昔な

がらのアダムがたわけはてた欲情や夢やまやかしによって、彼

に不意打ちをし、腹だたしい思いをさせ、いまいましがらせた。

確かに、悪魔は世捨て人やざんげ者に対してはまったく特別に

気をくばるものだ、ということをわれわれは知っている。


こういうときたまたま、慰めを求めるものや、ざんげを必要と

するものがヨーゼフを訪れると、彼はそこに、神の恵みの声を

認めて感謝し、同時にざんげ者の生活の安らかさを感じた。つ

まり、自分自身を越える意味と内容を与えられ、一つの役目を

授けられ、他の人々に仕えたり、道具となって神々に仕えたり

して、魂を自分のもとに引き寄せることができたのである。そ

れはすばらしい、真に心を高めるような気持ちであった。


しかし、そうやっているうちに、霊の宝も現世のもので、誘惑

やわなになる可能性のあることがわかった。すなわち、たびた

びそういう旅人が歩いてきたり、馬で来たりして、彼の岩の洞

穴の前にとまり、一杯の水を求め、それからざんげを聞いても

らいたいと頼むと、ヨーゼフは満足と快感に見まわれるのであ

った。それは、自分自身悦に入る快感、虚栄、自己にちやほや

する心であって、それに気づくやいなや、彼は深く驚くのだっ

た。


しばしば彼はひざまずいて神に許しを願い、自分のようにあさ

ましいものの所へ、近隣のざんげ修道者の小屋や俗世の村や町

から、ざんげ者が来ないように、と願った。しかし、そうはい

っても、ほんとにざんげ者が時折り来なくなると、大いにぐあ

いがよくなるというわけではなかった。そのあとでまたおおぜ

いざんげ者が来ると、彼は新しい罪を犯したことに気づいて、

はっとするのだった。というのは、今度は、あれやこれやの告

白を聞いている際、冷淡さや無情、いや、けいベつの心の動く

のを、ざんげ者に対して感じたのである。溜息をつきながら、

彼はこの戦いをも背負いこんだ。


ざんげを聞いた後、いつも独りで慢心を押え、償いの修行をす

る時代があった。そればかりでなく、ざんげ者のすべてを単に

兄弟のようにではなく、一種特別の敬意をもって取り扱うのを、

しかも、そういう人の人柄が彼の気に入らねば入らないほど、

いよいよそうするのを、法則とした。つまり彼は彼らを、自分

をためすために送られてきた神の使者として迎えた。それで年

がたつにつれ、もう老境にはいりかけていたから、ずいぶん遅

いのであるが、生活の仕方に一種の均衡を見いだした。そのた

め、彼の近くで暮している人々にとっては、彼は、平和を神の

中に見いだした、非の打ちどころのない人であるように、思わ

れた。


しかし、平和も、生きているものであり、生きているすべての

もののように、大きくなったり、やせたり、順応したり、試練

に耐えたり、変化を経験したりしなければならない。ヨゼフス

・ファムルスの平和も同様だった。それは不安定で、あるとき

は目に見え、あるときは見えず、あるときは、手に持っている

ロウソクのように近く、あるときは冬空の星のように遠かった。


時とともに、特別な新しい種類の罪と誘惑が彼の生活をいよい

よ困難にした。それは本能の強い情熱的な動揺、いらだち、あ

るいは反抗ではなくて、むしろその反対であるように思われた。

最初の段階ではごく容易に耐えられるばかりか、ほとんど知覚

されないくらいの感情、本来の苦痛や不如意を伴わない状態、

気の抜けた、なまぬるい、退屈な精神状態で、喜びの影が薄く

なり減少し、ついに欠如するというふうに、消極的にだけ、言

い現わせるにすぎなかった。


ちょうど、太陽も輝かないが、大雨が降りもせず、空がじっと

沈んで、陰にこもり、灰色ではあるが、黒くはなく、蒸し暑く

はあるが、雷雨をはらむには至らない、そういった日があるよ

うに、老いたヨーゼフの日々も、次第にそんなふうになった。

朝と晩が、祭日と普通の日が、飛躍のときと沈痛のときが、い

よいよ区別できなくなり、すべてが無気力な疲労と不興のうち

に惰性的に経過した。これは年だ、と彼は悲しげに考えた。


悲しかったというのは、彼は、年をとり、本能や煩悩が次第に

消えると、生活が明るく軽くなり、待望の調和と、円熟した魂

の静安に向って、一歩前進できると期待していたのに、年がも

たらしたものは、この疲れた、灰色の、喜びのない荒涼さや、

この癒しがたい食傷感にすぎなかったので、年というものに、

今では幻滅を感じ、だまされたように思われたからである。と

りわけ彼は、単なる生存に、呼吸に、夜の眠りに、小さいオア

シスの端にある洞穴の中の生活に、晩になり朝になるはてしな

い反復に、旅人や巡礼やラクダに乗った人やロバに乗った人や、

とりわけ彼自身を目ざして訪ねて来る人々や、彼に自分の生活

や罪や不安や誘惑や自責を語ることを願いとしている、あの愚

かしい、不安に満ちた、同時に子どもっぽく信じやすい人々に、

飽き飽きした。彼には、時々こんなふうに思われた。


ちょうどオアシスで小さい泉の水が石の水盤に集まり、草の中

を流れて、小さい川をなし、やがて砂漠の砂の中に流れ出し、

そこで少し流れてから、かれて消えてしまうように、これらの

ざんげも、罪の目録も履歴も良心の苦しみも、大小を問わず、

虚実を問わず、幾十、幾百となく、絶えず新しく、彼の耳の中

に流れこんできた。


しかし、耳は、砂漠の砂のように死んではおらず、生きており、

はてしなく飲みこみ、吸いこむことはできないので、疲れ、酷

使され、充満されすぎたように感じて、ことばや告白や憂慮や

訴えや自責の流れや絶え間ない愁訴がいつかはやんでくれれば

よい、このはてしない流れのかわりに、いつか平安と静寂が来

てくれればよい、と切望した。


実際、彼は終末を願った。疲れて、もう飽き飽きした。彼の生

活は味気なく、値打ちのないものになってしまった。それが高

じて、ちょうど裏切り者ユダが首をくくったときしたように、

自分の生存に終止符を打ち、自分を罰し、消滅したい、と心を

そそられることが、時々あった。ざんげ者の生活の初期の段階

では、悪魔が彼の魂の中に官能や世俗の快楽の願望や空想や夢

をこっそり持ちこんだが、今では自殺の観念を持って訪れるよ

うになったので、木の枝を見るごとに、首をくくるのに適して

いるかどうかを、あたりのけわしい岩を見るごとに、飛びおり

て死ぬのに十分のけわしさと高さがあるかどうかを、調べずに

はいられなかった。彼はその誘惑に抵抗した。彼は戦った。屈

服はしなかったけれど、昼も夜も自己憎悪と死の欲望との猛火

の中に生きた。生きることは耐えがたく、憎むべきものとなっ

た。


ヨーゼフはこんなところにまできてしまった。ある日、またあ

の岩の丘に立っていると、はるか天と地とのあいだに二つ三つ

の小さい姿が現われるのが見えた。明らかに旅人で、巡礼かも

しれなかったし、彼の所でざんげするために訪れようとする人

々かもしれなかった。突然、彼はすぐに大急ぎでここを逃げ出

したい、この土地を去り、この生活を離れたい、という逆らい

がたい願いにとらえられた。その願いは圧倒的に強く、衝動的

に彼をとらえたので、いっさいの考えや反対や懸念を踏みにじ

り、一掃してしまった。


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敬虔な懺悔者が良心の呵責なしにどうしてその衝動に従うこと

ができようか。しかし、彼はすでに走っていた。長年の闘争を

経て、多くの高揚と敗北を経験した洞窟に、彼は急いで戻って

きた。彼は無謀にも急いで、数握りのナツメヤシとひょうたん

一個の水を集め、それらを古い旅行用ポーチに詰め込んで肩に

かけ、杖を持って、この小さな家の緑の平和を後にした。神か

らも人からも逃れ、落ち着きのない放浪者となった。神からも

人からも、そしてなによりも、かつて自分が最高だと考えてい

たもの、自分の役割と使命から逃げたのだ。


最初は、崖の上から見た遠くの人影が、自分を追ってくる敵で

あるかのように、必死で走った。しかし、1時間ほど歩くと、そ

の不安な気持ちも和らいできた。心地よい疲れを感じた彼は、

食事をとらずに休んだ。休んでいる間に、自己分析に長けた彼

の理性は、再び自己主張をした。それは彼の本能的な行動に目

を向け、判断を下そうとした。そして、その行動は乱暴に見え

るかもしれないが、否定することなく、むしろ慈悲の心で見て

いた。その結果、彼は久しぶりに無害で無邪気なことをしてい

ると判断した。


しかし、そのようなことはない。彼は、もはや自分にはふさわ

しくない職を放棄したのだ。毎日繰り返される無駄な闘いをあ

きらめ、自分に負けたと告白したのだ。そのことについては、

壮大な、英雄的な、聖人のようなものは何もない、と彼の理性

は決定したが、それは誠実であり、避けられないように思われ

た。


というより、それは自分のエゴイズム、昔のアダムに促された

ものだったのだ。このような頑固さが、なぜ、このような悪、

つまり、魂の分裂と無気力、さらには悪魔の憑依につながった

のか、今、彼は理解したと思った。確かにキリスト教徒は死を

敵視してはならない。確かに悔悛者や聖人は自分の人生を捧げ

ものと考えるべきである。しかし、自殺を考えることは全く極

悪非道であり、もはや神の天使に支配され守られているのでは

なく、悪鬼によってのみ起こりうる魂であった。


彼はしばらくの間、物思いにふけり、深く落胆し、ついには震

え上がり、深く悔いるようになった。それは、数マイルにわた

る踏査が彼に与えた視点から、彼がこれまで生きてきた人生を

より深く認識することができたから。それは、道を踏み外した

老人の惨めな人生であり、救い主の裏切り者のように木の枝に

首をつるという恐ろしい誘惑に取り憑かれていたほどだった。


王や聖人や部族から選ばれた者が、一般の福祉のためにしばし

ば自らの手で命を捧げるという、古くからの人身御供の風習の

知識である。しかし、この禁じられた異教の習慣の響きは、こ

の問題を恐ろしいものにしている一面に過ぎない。贖罪の十字

架の死もまた、自発的な人身御供であったと考えると、さらに

恐ろしくなる。そう考えると、あの自殺へのあこがれには、そ

ういう意識の芽生えがあったことがわかる。

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い、という気になったのだ。ヨーゼフが夜を明かした水飲み場

に、ラクダが数頭休んでいた。ささやかな旅の一行には、婦人

もふたりいたので、彼は会釈の身振りだけして、話を交わすこ

とは避けた。そのかわり、暗くなると、数個のナツメヤシを食

べ、祈りをし、横になってから、老人と年下の男とのあいだの

小声の会話を聞くことができた。このふたりは彼のすぐ近くに

寝ていたからである。聞えたのは対話の一断片だけだった。あ

とはささやかれたにすぎなかった。しかし、このささやかな断

片が彼の注意と関心を引きつけ、半夜のあいだ彼を考えさせた。


「結構だよ」という老人の声が聞えた。「結構だよ。敬虔な人

のところへ行って、ざんげしようというのは。そういう人たち

には何でもわかるんだよ。単にパンを食うというより以上のこ

とができる。魔術を知っているものも少なくない。飛びかかっ

てくるライオンに一言呼びかけると、さすがの猛獣もうずくま

り、尾を巻いて、こそこそと逃げる。ライオンを馴らすことだ

ってできるんだよ。そのひとりは、特別の聖者だったが、おな

くなりになると、その手で馴らされたライオンたちが、その方

のために墓を掘って、その方の上にまた土をきれいにかけた。

そして二頭のライオンが長いあいだいつも昼夜お墓の番をした。

この人たちが馴らすことのできたのは、ライオンばかりではな

い。そういう方のひとりが、あるとき、ローマの百人隊長で、

むごい野獣のような軍人で、アスカロンきっての女郎買いだっ

た男を、問いただし、そいつの悪い心をねじあげると、そいつ

は小さくなってネズミのようにおどおどと逃げ出し、隠れる穴

を探した。その後そいつは見違えるほどおとなしく小さくなっ

た。もらろん、そしてここが考えさせられるところだが、その

人はまもなく死んだ」「聖人が?」「いやいや、百人隊長がだよ。

ヴァロという名だった。ざんげ僧にきめつけられて、良心をさ

まされてからは、どんどん衰弱して、二回発熱し、三ヵ月後に

は死んでしまった。なあにかわいそうなことはない。だが、い

ずれにしても、わしはよく考えるのだが、あのざんげ僧は、百

人隊長から悪魔を追い出したばかりでなく、彼を地下に葬るよ

うな文句を唱えたんだろう」「そんなに敬虔な人が?そんなこと

は信じられません」「信じようが信じまいが、その日からその

人は変ってしまったようだった。魔法にかけられたとは言わな

いまでも、そして三カ月後には......」しばらく声がやんだが、

やがて年下のほうがまた言い始めた。「ひとりのざんげ僧がい

て、どこかこの近くにしているはずです。独りきりで、ガザへ

通じる道のほとりの小さい泉のそばに住んでいるとのことです。

ヨゼフスと、ヨゼフス・ファムルスという名です。その人のこ

とを私はいろいろと聞いております」「そうかい。いったいど

んなことを?」「おそろしく敬虔で、特に女を決して見ない、と

いう話です。彼の住む辺鄙な所を数頭のラクダが通過すること

があって、その一つに女が乗っていると、どんなに厚く薄ぎぬ

をかぶっていようと、彼は背を向けて、すぐ岩のはざまに姿を

くらまします。彼のところにたくさんの人が、実にたくさんの

人がざんげしにいきました」「そんなにたいそうなことはある

まい。さもなければ、わしだってその人のことを聞いているは

ずだ。ところで、その人は、君のファムルスという人は、いっ

たい何ができるんだね?」「そうですよ。ざんげに行くんです。

よい人でなかったら、何でもわかる人でなかったら、みんなが

出かけてはいかないでしょう。それはそうと、その人はほとん

ど一言も言わず、しかったり、どなりつけたりすることもない

そうです。罰とか、それに類するものは何もなく、穏やかな、

それどころか内気な人だそうです」「そうかい。それで、しか

りもせず、罰しもせず、口も開かないとしたら、いったい何を

するのかね?」「ただ傾聴し、不思議な溜息をし、十字を切るん

だそうです」「おや、なんだい。お前さんたちのはそりゃ本当

のもぐり聖者だ! お前さんは、まさかそんな口をきかないおじ

さんの後を追うなんて、ばかなまねはしないだろうね」「どう

いたしまして。そうするんです。きっと見つかるでしょう。こ

こから遠くはないはずです。今水飼い場のへんに貧しい修道者

がいました。あの人に明朝きいてみます。あの人自身ざんげ者

のようです」老人はかんかんになった。「泉のざんげ者は洞穴

の中にうずくまらせておくがよい!ただ傾聴し、溜息をつき、女

をこわがるだけで、何もできず、何もわからない男なんか!いや、

だれのところに行くべきか、教えてやろう!なるほどここからは

遠く、アスカロンのもっと向うにいるのだが、そのかわり、お

よそこのうえなくすぐれたざんげ僧、ざんげ聴聞師だ。ディオ

ンという名で、ディオン・プギルと呼ばれる。拳闘家という意

味だ。あらゆる悪魔と格闘するからだ。だれか恥ずべき行為を

その人にざんげするものがあると、プギルは溜息をついたり、

口をつぐんだりせず、堂々と話しかけ、したたかにさびを落し

てやる。さんざんになぐりつけたことも少なくないそうだ。あ

る人を彼は一晩じゅう、裸で石のあいだにひざまずかせ、その

上でなお、貧しいものに四十グロッシェン与えよ、と命令なさ

った。これこそ人物だよ。会ったら、驚くだろう。あの人にま

ともに見られると、もうお前さんの骨がぐらぐらする。その人

は底の底までもう見抜くんだ。溜息なんかつきやしない。心の

中に押えているんだ。よく眠れないとか、悪い夢や幻などを見

るとかいう人があると、プギルがちゃんと立てなおしてくれる

んだよ。女たちがあの人についておしゃべりをするのを聞いた

から、わしはお前にこういう話をするわけではない。わし自身、

あの人の所に行ったことがあるから、言うのだ。まったくわし

自身がだよ。わしは哀れなやつにすぎんけれど、ざんげ僧ディ

オンを、あの拳闘家を、神の人を訪ねたことがあるんだ。行く

ときはみじめで、良心に恥とけがればかりいだいていったのだ

が、立ち去るときは、明けの明星のように明るく清らかになっ

ていたよ、まったくかけ値なしに。おぼえておくがよい。姓は

ディオン、あだ名はプギルだ。できるだけ早く、訪ねるがよい。

奇蹟を経験するよ。知事や長老や僧正もあの人のもとに知恵を

借りに行っている」「ええ」と相手は言った。「またいつかそ

の地方に行くことがあったら、考えてみます。しかしきょうは

きょう、ここはここです。私はきょうはここにいるんですし、

この近くに、たくさんのよい評判を聞いているあのヨゼフスが

いるに違いありませんから......」「よい評判だって!なんだっ

てお前さんはこのファムルスにほれこんでしまったんだね?」

「あの人がののしったり、乱暴をしたりしないことが、私の気

に入ったんです。それが気に入ったのだと、言わずにはいられ

ません。私は百人隊長でも、僧正でもありません。私はささや

かな人間で、どちらかと言えば、内気です。火や硫黄にはあま

り耐えられません。穏やかに触れられると、なんとも逆らえな

いんです。私はそんなふうなたちです」「そういうのが好きな

人も少なくないようだな。穏やかに触れるってのがね! お前さ

んがさんげをし、償いをし、罰を受け、自分を清めた場合は、

そりゃ、穏やかに触れられてしかるべきかもしれない。しかし、

お前さんがオオカミのようにけがれ、悪臭を放ちながら、ざん

げ聴聞師や裁判官の前に立つ場合は、別だ!」「そりゃ、そりゃ。

そんなに大声を出すのはよしましょう。皆さん眠ろうとしてい

るんですから」突然、彼はおもしろそうにくすくす忍び笑いを

した。「それはそうと、その人についておかしい話も聞きまし

たよ」「だれについて?」「あの人、ざんげ僧ヨゼフスについて

ですよ。つまり、あの人は、だれかの身の上話とざんげを聞く

と、別れのあいさつと祝福をのべ、そのほか、ひたいにキスを

する習慣があるんです」「そうかい、そんなことするのかい?こ

っけいな癖があるんだね」「そして女をひどくこわがるんです

よ。ご承知のように。あるとき、その地方の女郎が男装して、

あの人のところに行ったそうです。あの人は何も気づかず、女

郎の作り話を聞きました。ざんげが終ると、あの人は女の方に

かがんで、改まってキスをしました」老人はげらげら笑い出し

た。相手はあわてて「しっ、しっ!」と言った。それから、しば

らく半ばかみ殺したような笑いが聞えるだけで、もうヨーゼフ

には何も聞えなかった。


彼は空を見あげた。三日月がヤシのこずえのかげに鋭く淡くか

かっていた。夜の寒さに彼は身ぶるいした。ラクダ追いたちの

寝床の話は、ゆがんだ鏡でも見るように奇妙ではあるが、教え

られることが多かった。それは彼自身と、彼がそむいてきた役

割とを、目の前にまざまざと示した。それでは、女郎が自分を

からかったのか。それはずいぶん悪いことではあったが、最悪

のことではなかった。ふたりの見知らぬ男の対話を、彼は長い

あいだつくづくと考えさせられた。ずっと遅くなってやっと眠

れたが、それもつくづくと考えたことがむだでなかったからで

ある。つまり、一つの結論、決心に到達したのであった。この

新しい決心を胸にいだいて、彼は夜明けまでぐっすりすやすや

と眠った。彼の決心は、ふたりのラクダ追いの若いほうのが固

めえなかった決心にほかならなかった。彼の決心は、例の老人

のすすめに従って、プギルと呼ばれているディオンを訪ねるこ

とだった。この人のことは、ずっと前から知っていたが、昨夜

ひどく印象深くその讚美を聞かされたのだった。この有名なざ

んげ聴聞師は、霊の裁き手は、助言者は、自分にも助言と判決

と罰と道とを示してくれるだろう。神の代表者の前に出るよう

に、この人の前に出て、その指示を喜んで受け入れよう、と彼

は思った。


==>自分は先生と30年すごせた。これほどの幸福がこの世に

あるだろうか?水曜日, 10月122022


翌日、ふたりの男がまだ眠っているうちに、彼はもう憩いの場

を去り、骨の折れる旅をして、その日のうちに、敬虔な修道者

たちの住んでいる土地に着いた。そこから普通の道を通ってア

スカロンに行きつけるはずだった。夕方、到着すると、ささや

かな緑のオアシス風景が打ちとけて彼を迎えた。木のそびえて

いるのが見え、ヤギの鳴いているのが聞えた。緑のかげに小屋

の屋根の輪郭が認められ、人間の気配が感じられるように思っ

た。ためらいながら近づくと、だれかのまなざしが自分に注が

れているように思われた。立ちどまって、あたりをうかがうと、

最初の木立ちの下に、幹にもたれてすわっている人物が目につ

いた。正座している老人で、白いひげをはやし、品位はあるが

厳しくこわばった顔をして、彼を見つめていた。もうしばらく

見つめていたらしい。老人のまなざしは動かず鋭く、無表情だ

った。観察することに慣れてはいるが、好奇心も関心も持たず、

人や物が近づくにまかせて、認識しようとはするが、引き寄せ

たり、招いたりはしない人間のまなざしのようであった。「イ

エス・キリストはたたえられてあれ」とヨーゼフは言った。老

人はつぶやき声で答えた。「失礼ですが」とヨーゼフは言った。

「あなたは、私同様よその人ですか、それともこの美しい部落

にお住まいの方ですか」「よそのものです」と白ひげの男は言

った。「尊敬する方よ、それでは、ここからアスカロンへの道

に出られるかどうか、ご存じでしょうか」「出られる」と老人

は言った。そしてゆっくり立ちあがった。いくらか手足のこわ

ばった、やせた大男だった。彼は立って、空漠とした広野を見

わたした。この老巨人はあまり話を交わしたがらないのだと、

ヨーゼフは感じたが、もう一つ尋ねたいと思った。「なお一つ

だけお尋ねするのをお許しください」彼は丁寧に言って、その

男の目が遠方からまたもどってくるのを見た。冷たく注意深く

その目は彼を見つめた。「もしかしたら、ディオン師がどこに

いるか、その土地をご存じでしょうか。ディオン・プギルと呼

ばれている方です」よその人はまゆを少し寄せた。そのまなざ

しはいっそう冷たくなった。「知っている」と老人は簡単に言

った。「ご存じですか」とヨーゼフは叫んだ。「ああ、それな

ら、あの人のことを話してください。私の旅はそこを、ディオ

ン師をめざしているのですから」大きな老人はじろじろと彼を

見おろした。長いあいだ返事をせず、木の幹にもどり、またゆ

っくりと地面に腰をおろし、さっきすわっていたときのように、

幹にもたれた。小さく手を動かして、ヨーゼフにも同様に腰を

おろすように促した。ヨーゼフはおとなしくその身振りに従っ

た。腰をおろすとき、一瞬、手足に大きな疲労を感じたが、す

ぐにまたそれを忘れて、注意を老人の方に集中した。老人は冥

想にふけっているように見えた。その荘重な顔には、はねつけ

るような厳しい相が現われたが、その上に、もひとつ別な表情、

いや、別な顔が、透明な仮面でもかぶせたように見えた。老年

の孤独な苦悩の表情であったが、誇りと威厳がそれの現われる

ことを許していなかった。長い時間がたって、ようやく尊敬す

る人のまなざしは、また彼の方に向けられた。それは今度もま

た非常な鋭さで彼をじろりと見つめた。突然、老人は命令する

ような口調で尋ねた。「あなたはいったいだれか」「私はざん

げ者です」とヨーゼフは言った。「年久しく世捨て人の生活を

営んできました」「それは、見ればわかる。あなたはだれか、

と尋ねているのだ」「ヨーゼフと申します。姓はファムルス」

ヨーゼフが名を名のると、老人は相かわらずじっとしてはいた

が、まゆをひどく寄せたので、目がしばらく見えないくらいに

なった。ヨーゼフの名のりに、彼は面くらい、驚いたように、

あるいは失望したように見えた。あるいは、目が疲れ、注意が

減退したのか、老人にありがちな衰弱の軽い発作だったのかも

しれない。いずれにしても、まったく身動きもせず、目をしば

らく細くしていたが、また開くと、そのまなざしは変っている

ように見えた。そういうことがありうるとしたら、なおいっそ

う年をとり、なおいっそう孤独に、石のように、傍観的になっ

たように見えた。おもむろに彼はくちびるを開いて尋ねた。

「あなたのことは聞いている。人々がざんげをしにいくのは、

あなたの所か」ヨーゼフは面くらいながら肯定した。見抜かれ

たのを、無理に裸にされたように感じ、またまた自分の評判に

出くわしたのを恥ずかしく思った。重ねて老人はぶっきらぼう

に尋ねた。「それでは今はディオン・プギルを訪ねるつもりか。

何を望むのか」「ざんげしたいのです」「何を期待するのか」

「わかりません。あの方を信頼しているのです。上からの声や

導きが私をあの方のところへ行かせるようにさえ、思われます」

「ざんげしてしまったら、どうするのだ?」「そしたら、あの方

の命令することをします」「もし彼があなたに何かまちがった

ことを、すすめるか、命令したら」「まちがっているかいない

かを、私は吟味せずに、従うでしょう」老人はもう一言も発し

なかった。太陽は低く沈み、鳥が木の葉の中で鳴いた。老人が

無言でいるので、ヨーゼフは立ちあがった。おずおずと彼はも

う一度自分の願いに立ち返った。「あなたは、ディオン師に会

える所をご存じだと、おっしゃいました。その土地の名を聞か

せ、そこへ行く道を示していただけませんか」老人はくちびる

を寄せて、かすかに微笑した。「あの人はあなたを歓迎する、

と思うのか」と彼は穏やかに言った。その問いに不思議にはっ

として、ヨーゼフは返事をしなかった。彼は面くらって立って

いた。やがて彼は言った。「せめてあなたにまたお目にかかれ

るでしょうか」老人はあいさつするような身振りをして、答え

た。「わしはここで眠り、日の出の少し後までここにいる。さ

あ、行きなさい。あなたは疲れて、空腹でいる」ヨーゼフはう

やうやしくあいさつをして先へいき、たそがれの迫るころ、小

さい部落にはいった。ここには、修道院と同様に、いわゆる世

捨て人が住んでいた。さまざまの町や村落からきたキリスト者

で、この人里はなれた所に住み家を作り、妨げられないように、

静寂と冥想の、簡素で純粋な生活にふけっていた。人々はヨー

ゼフに水と食物と寝床を与えた。ひどく疲れているらしいので、

尋ねたり、話しかけたりすることを控えた。ひとりが夜の祈り

を唱えると、他の人たちがひざまずいてそれに加わり、みんな

いっしょにアーメンを唱えた。こういう信心深い人々の集まり

は、ほかのときだったら、彼にとって一つの体験と喜びになっ

ただろうが、今はただ一つのことしか念頭になかった。翌朝早

く、昨日老人に別れた所へ、彼は急いで引き返した。老人は薄

いむしろにくるまって、地面に横になって眠っていた。ヨーゼ

フはわきの木立ちに腰をおろして、老人が目をさますのを待っ

た。まもなく眠っていた人はもそもそして、目をさまし、むし

ろから脱け出し、だるそうに立ちあがり、こわばった手足を伸

ばし、それから地面にぬかずいて、お祈りをした。老人がまた

立ちあがったとき、ヨーゼフは近よって、無言でお辞儀をした。

「もう食事をしたかい?」とよその人は尋ねた。「いいえ、私は

日にただ一度、日没後初めて食事をすることにしております。

あなたはおなかがすいておりますか」「わしたちは旅をしてい

る」と相手は言った。「ふたりとももう若者ではない。出かけ

る前に一口食べたほうがいい」「ヨーゼフは袋を開い、ナツメ

ヤシをすすめた。昨夜泊めてくれた親切な人々からも、キビの

パンをもらってきていたので、それも老人と分けた。「出かけ

よう」と老人は、ふたりが食べてしまうと言った。「ほんとに

いっしょに行くんですか」とヨーゼフは喜んで叫んだ。「もち

ろん。お前は、ディオンのところへ連れていってくれ、と頼ん

だじゃないか。さあ、おいで」驚いてうれしそうにヨゼーフは

老人を見つめた。「あなたはなんと親切なんでしょう」と叫ん

で、彼はあふれる感謝のことばを発しようとした。しかし、よ

その人はけわしく手を動かして、相手を沈黙させようとした。

「親切なのは神さまだけだ」と老人は言った。「さあいこう。

わしがお前と言うように、わしにもお前と言っておくれ。ふた

りの老いたざんげ者のあいだで形式や礼儀が何になろう?」大男

は歩き出した。ヨーゼフはあとに続いた。夜が明けていた。先

達は、方向と道を確かに知っているらしく、昼ころには日かげ

の場所にたどりつけるから、いちばん日照りの強い数時間のあ

いだそこで休息することができよう、と約一言も費やさずに翌

----------------------------------※ここらへん翻訳がおかし

く、抜けていると推測。英訳にあたる。土曜日,10月152022


朝老人は彼を伴って、かなり長い一日の旅をした。なお四、五

日の旅をして、彼らはディオンの隠れ家に着いた。今はそこに

住まって、ヨーゼフはディオンのこまかい日々の仕事を助け、

その日常生活を知り、共にした。それは、彼自身が多年営んで

きた生活とたいして異なってはいなかった。ただ彼は今はもう

独りではなく、他の人の影と保護の中に生きていた。そうなる

と、やはりまったく別な生活だった。周辺の部落や、アスカロ

ンや、もっと遠くから、絶えず、助言を求め、ざんげを必要と

する人々がやってきた。そういう来訪者があると、初めのうち

ヨーゼフはいつも急いで引っこんでしまい、客が帰ってから、

やっと出てくるのだった。だが、ディオンは、召使でも呼ぶよ

うに、彼を呼び返すことがだんだん頻繁になり、水を持ってこ

させたり、その他の手伝いをさせたりした。しばらくのあいだ

そうしているうちに、ざんげ者が反対しなければ、時折り傍聴

者としてざんげに同席するようになった。恐ろしいプギルと向

い合って、単独で立ったり、すわったり、ひざまずいたりせず

に済み、この静かな、親切なまなざしの、世話好きな助手がそ

ばにいてくれるのは、多くの人たちにとって、いや、大多数の

人たちにとって、好ましいことだった。こうして彼は次第に、

ディオンがざんげを聞く方法と、慰めのことばをかける仕方、

干渉し処理する仕方、罰し助言する仕方を学んだ。質問をあえ

てすることは、まれだった。ひとりの学者か文人が旅の途中立

ち寄ったとき、そういうこともあったが。「この男は、その物

語から察すると、魔術師や星うらない師のあいだに、友人を持

っていた。丁重な、話し好きな客で、一、二時間ふたりの老ざ

んげのもとに腰をおろして、休息した。そして、星について、

また、人間が神々とともに世界の初めから終りまで十二宮のす

べてを通らなければならない旅について、長々と博学に美しく

語った。彼はまた、最初の人間アダムについて、またアダムが、

十字架にかけられたイエスと同一人物であることについて話し

た。そして、イエスによる救いは、アダムが認識の木から生命

の木へ移っていったことにほかならぬと言ったが、楽園のヘビ

は、暗い深い神聖な源泉の番人で、その暗黒の水からいっさい

の形や人間や神が生じるのだ、と言った。シリア語にひどくギ

リシャ語のまじっているこの男の話を、ディオンは注意深く聞

いた。この異教徒的な誤りを、ディオンが怒りと熱意とをもっ

てしりぞけ、否定し、放逐することをせずに、物知りの巡礼の

抜けめのない独白をおもしろがり、共鳴しているらしいのを、

ヨーゼフは不思議に思うばかりか、憤慨さえした。何せディオ

ンは打ちこんで傾聴しているばかりか、微笑し、さも気に入っ

たように、話し手のことばにたびたびうなずきかけていさえし

たからである。この男が立ち去ると、ヨーゼフは、むきな、非

難に近い調子で尋ねた。「どうしてあんな不信心な異教徒の邪

説をあんなに辛抱強く聞いていたんですか。いや、どうやら、

辛抱強いどころでなく、まったく共鳴し、さもおもしろそうに

傾聴していたようです。なぜあれに反対しなかったのです。な

ぜあの人を否定し、罰し、主を信じるように改心させようとは、

しなかったのですか」-デイオンは、細い、しわだらけの首にの

った頭を揺すって、答えた。「否定しなかったのは、そうして

も、むだだったからだ。むしろわしにそうする力がなかったか

らだ。話や、結びつけや、神話と星の知識にかけては、あの男

は、疑いもなく、わしよりずっと立ちまさっている。わしはあ

の人に立ち向ってもだめだったろう。さらに、ある人の信じて

いることがうそで誤りであると主張して、人の信仰に反対する

のは、わしのなすべきことでも、お前のなすべきことでもない。

ありていに言って、わしはあの賢い男の言うことを一種楽しい

気持ちをもって聞いた。お前の気づいたとおりだ。わしを楽し

ませたのは、彼が話しじょうずで、物知りだったからだが、何

よりもわしの若いころを思い出させたからだ。わしも若いころ

は同じような研究や知識に一生懸命になったものだ。神話の中

のことをあの客はたいそうおもしろく話したが、あれは決して

誤りではない。われわれは唯一の救世主イエスに対する信仰を

得たので、あんな信仰をもはや必要としなくなったが、あれは、

そういう信仰の現われであり、比喩であるのだ。しかし、われ

われの信仰をまだ見いだしていない人々、おそらく全然見いだ

すことのできない人々にとっては、古い祖先の知識に由来して

いる信仰は、当然尊敬すべきものなのだ。確かにわれわれの信

仰は、別なもの、あくまで別なものだ。だが、われわれの信仰

が、星や無窮の時間や原始の水や世界の母や、そういういっさ

いの比喩の教えを必要としないからといって、あの教え自体が、

誤りで、うそまやかしだ、とは言えない」「しかしわれわれの

信仰は」とヨーゼフは叫んだ。「やはりいっそうまさっていま

す。イエスはすべての人間のために死にました。だから、われ

われの信仰を知るものは、あの古くなった教えを攻撃して、そ

のかわりに新しい正しい教えを置かねばなりません」「われわ

れはずっと前からそうしてきた。お前もわしも、他の多くの人

々も」とディオンは落ちつきはらって言った。「われわれは、

つまり救世主と救世主の死との信仰と力によってとらえられて

いるから、信者なのだ。これに反し、あの他の人々、つまり十

二宮や古い教えの神話学者や神学者は、この力にとらえられて

いない。まだそこに至っていない。彼らがとらえられたものに

なるように、強制することは、われわれにはできない。ヨーゼ

フよ、この神話学者がどんなに美しく極度に巧妙に語り、比喩

の遊戯を作りあげることを心得ていたか、それがどんなに快さ

そうであったか、彼がどんなに平和に調和を保って、形象や比

喩の知恵の中に生きているか、気づかなかったかい? さて、そ

れは、この人は重い苦しみに押しつけられていない、満足して

いる、よく行なっている、というしるしである。よく行なって

いる人に向っては、われわれのようなものが何も言うことはな

い。人間が救いと救ってくれる信仰とを必要とするためには、

自分の思想の知恵と調和に対する喜びを失い、救いの奇蹟を信

じる大冒険を試みるためには、まずその人は不幸に、ひどく不

幸にならなければならない。悩みと幻滅を、にがさと絶望を体

験しなければならない。極度な窮境に陥らなければならない。

いや、ヨーゼフよ、あの博学な異教徒を安穏に、彼の知恵と思

想と話術の幸福感の中に暮させておこう!おそらく彼は、あすか、

一年後か、十年後かに、彼の話術と知恵を粉砕するような苦悩

を経験するだろう。愛する妻か、ひとりむすこを打ち殺される

か、あるいは彼が病気にかかったり、貧乏になったりするかも

しれない。そのとき、彼に出会ったら、彼のめんどうをみてや

り、われわれが苦しみを制することを、どういう方法で試みた

かを語ってやろう。もしそのとき、彼がわれわれに『なぜきの

う、言ってくれなかったのか、十年前に言ってくれなかったの

か』と尋ねたら、われわれは『お前はあのときまだ十分不幸で

はなかったのだ』と答えてやろう」彼は真剣になって、しばし

口をつぐんだ。やがて、思い出の夢の中からでも語るように、

こうつけ加えた。「わし自身も以前はしきりに祖先の知恵をも

てあそび、楽しんだものだ。もう十字架の道を歩くようになっ

てからも、神学するのをしばしば喜びとした。もちろんさんざ

ん悩みもした。いちばん頭をなやましたのは、世界の創造のこ

とだ。また、『神その造りたるすべての物を見たまいけるに、

はなはだ善かりき』とあるのだから、創造の仕事の最後にはい

っさいのものが本来善くあらねばならなかったはずだ、という

ことだ。しかし実際は、一瞬間だけ、楽園の瞬間だけが、善く

完全だった。つぎの瞬間にはもう完全さの中に罪と呪いがはい

ってきた。なぜならアダムが、食べることを禁じられての実を

食べたからである。ところで、こういうふうに言う教師があっ

た。被造物を、そしてそれとともにアダムと認識の木を造った

神は、唯一の最高の神ではなくて、神の一部、あるいは神の下

位の神、デミウルグ〔造物主]にすぎない。被造物はよくない、

失敗したのだ。一つの世界の続くあいだ、この被造物は呪われ、

悪の手にゆだねられていたが、ついにあの方みずからが唯一の

精神である神が、そのご子息によって、呪われた世界の時代を

終らせようと、決心なさった。このときから、造物主と被造物

との死滅が始まった、と彼らはそう教え、わしもそう考えた。

世界は徐々に衰滅していき、ついには新しい宇宙では、被造物

も、世界も、肉も、欲望も罪も、肉による生殖も、出産も死も

もはやなく、完全な精神的な、救われた世界が、アダムの呪い

から自由に、欲望や生殖や出産や死などという永遠の呪いと衝

動から自由に、発生するだろうと。――われわれは、世界の現在

の災悪は、最初の人間より、造物主の罪だとした。もし造物主

がほんとに神そのものであったら、アダムを別なものに造るか、

誘惑にあわないようにしてやることは、容易なことだったに違

いない、とわれわれは考えた。こうして結論として、創造主な

る神と父なる神と、二つの神を持つことになり、前者を裁いて

酷評することをはばからなかった。さらに一歩を進めて、被造

物はまったく神のわざではなくて、悪魔のわざだった、と主張

するものさえあった。われわれは自分たちの知恵で、救世主と、

来たるべき精神の時代とに役だつと思ったので、神々や世界や

世界の計画を整えて、議論をし、神学を研究したのだが、わし

はある日、熱病にかかり、死にそうになった。熱にうかされた

夢の中で、わしは絶えず造物主を相手に、戦い、血を流さねば

ならなかった。幻と不安はいよいよひどくなり、とうとういち

ばん熱の高くなった夜には、肉体による自分の出生を消し去る

ために、実の母を殺すほかはない、と思ったほどだ。悪魔は、

熱病の夢にとらわれているわしをさんざんな目にあわせた。だ

が、わしはなおった。昔の友人たちが失望したことには、わし

は、愚鈍な、無口な、頭の働かない人間として生き返った。体

力はまもなく回復したけれど、哲学する喜びは回復しなかった。

快方に向い、あの恐ろしい熱病の夢が遠のき、わしはほとんど

眠り通していたころ、日も夜も、目がさめれば、いつでも救世

主がそばにいるように感じ、力が主から発してわしの中にはい

るのを感じた。そして再び健康になると、主をもはや身近に感

じることのできないのを悲しく思った。しかし、主を身近に感

じるかわりに、主に近づくことに大きなあこがれを感じるよう

になった。その結果、明らかになったことだが、再び議論に耳

を傾けると、たちまちこのあこがれが、――それはそのころわし

の最上の宝であった――水が砂の中に流れて消えるように、消え

失せて、思想とことばの中にまぎれこむ危険に陥ったのを、わ

--------------------------------------


再び議論聴き始めると、この憧れが消えそうになり、水が砂に

沈むように、思考や言葉に沈んでいくのを感じた。長い話を短

くすると、友よ、これが私の賢さと神学の終焉であった。それ

以来、私は単純な魂の一人になってしまった。しかし、私は、

哲学や神話を語ることのできる人たちを軽蔑しているわけでも、

餌にするのが好きなわけでもなく、私自身がかつて耽溺したよ

うなゲームをしているわけでもない。 デミウルグと唯一神、創

造と贖罪の不可解な関係や同一性を、私にとって未解決の謎の

ままにしておかなければならなかったように、哲学者を信者に

変えることができないという事実にも満足しなければならない。

それは私の領域ではない」ある男が殺人と不倫を自供した後、

ディオンは彼の助手に言った。


「殺人と姦通......残虐で大げさに聞こえるし、確かに十分悪

いことだと思う、認めるよ。しかし、ヨーゼフ、私はおまえに

言う、実際には、これらの世界の人々は全く本当の罪人ではな

い。彼らはまともで、善良で、高貴ではない。彼らは利己的で、

欲望に満ちていて、威圧的で、怒りっぽい。しかし、現実と底

辺では、彼らは子供と同じように無邪気である」「それなのに」

ヨーゼフは言った「あなたはしばしば彼らを激しく非難し、彼

らに鮮明な地獄の絵を描いている」「その通りだ。彼らは子供

だから、良心の呵責に耐えかねて告白しに来たとき、真剣に受

け止められ、真剣に叱られることを望む。少なくとも私はそう

思っている。おまえは、叱ったり罰したり懺悔したりするので

はなく、親身になって懺悔する人たちを兄弟のようにキスして

送り出した。別に批判するつもりはないが、それは私のやり方

ではないだろう」


「確かに」ヨーゼフはためらいがちに言った。「しかし、それ

ならなぜ私が懺悔をした後、他の懺悔者のように私を扱わず、

黙ってキスをし、何も言わなかったのはなぜか」ディオン・プ

ギルは鋭い眼光で彼を見つめた。「私がしたことは正しくなか

ったのか?」彼は尋ねた。「正しくなかったとは言っていない。

そうでなければ、あの告白は私にこれほど良い結果をもたらさ

なかっただろうから」「ならばよい。いずれにせよ、わしはお

まえに長く厳しい懺悔を課したのだ。懺悔とは名ばかりでわし

はおまえを連れて行き、わしの使用人として扱った」


---------------------------------------


を連れてきて、召使として取り扱い、しかも、お前が逃れよう

と欲した役目に、無理やり連れもどした」彼はそっぽを向いた。

長い対話は彼の性に合わなかった。しかしヨーゼフは今度は頑

強に粘った。「お前はあのとき、私がお前の言いなりになるこ

とを、あらかじめ知っていました。私はざんげする前に、お前

を知る前に、もうそれを約束しました。いや、言ってください。

お前が私をそういうふうに取り扱ったのは、ほんとにそういう

理由からだけだったのですか」相手は数歩行きつもどりつして

から、彼の前に立ちどまり、彼の肩に手をのせて言った。


「世間の人たちは子どもだよ。そして聖者たちは――いや、聖者

たちはわれわれのところになんか来はしない。われわれ、お前

やわしや同類、われわれのようなざんげ僧や探求者や世捨て人

は、子どもではなく、無邪気でもなく、罰の説教で性根をなお

すこともできない。われわれこそ、知識を持ち、思索するわれ

われこそ、認識の木の実を食ったわれわれこそ、ほんとうの罪

びとなのだ。子どもをむちで打って、また放してやるように、

われわれはお互いを子どもなみに扱うわけにはいくまい。われ

われはざんげと償いをしたあとで、また子どもの世界へ逃げこ

むようなことはしない。普通の人は子どもの世界へもどって、

お祭りをしたり、商売をしたり、ときとしては互いに殺し合っ

たりする。われわれの体験する罪は、ざんげやいけにえによっ

て払いのけられる短い悪夢のようなものではない。われわれは

罪の中にとどまっている。決して無邪気になることはなく、絶

えず罪びとなのだ。罪の中に、良心の猛火の中に、とどまって

いる。


われわれが死んだ後、神がわれわれを恵み深くごらんになって、

慈悲の中に迎えてくれれば、別だが、われわれは自分の大きな

罪を決して償いえないことを知っている。ヨーゼフよ、これこ

そ、わしがお前に対しても、自分に対しても、説教をしたり、

罪の償いを命じたりしない理由なのだ。われわれが問題とする

のは、あれやこれやの脱線とか非行とかでなくて、常に原罪そ

のものなのだ。だから、われわれはお互いに知り合っている、

兄弟として愛し合っている、と保証することができるだけで、

罰によって相手を癒すことはできない。このことをお前は知ら

なかったのかい?」ヨーゼフは小声で答えた。


「そのとおりです。知っていました」「じゃ、無益な話はよそ

う」と老人は簡単に言い、小屋の前の石の方に向いた。その上

で祈る習慣になっていた。数年たった。ディオン師は時々衰弱

に見まわれたので、ヨーゼフは毎朝、ひとりでは起きられない

老人を助けてやらねばならなかった。それから老人は祈りにい

ったが、祈りの後でも、ひとりでは起きられなかった。ヨーゼ

フの助けが必要だった。それから老人は終日すわって、遠方を

ながめた。そういう日が少なくなかったが、ひとりで起きられ

る日もあった。ざんげを聞くことも、毎日はできなかった。ヨ

ーゼフにざんげをしたものがあると、ディオンはあとでその人

を自分のところに呼んで、「わしはおしまいだ、おしまいだ。

このヨーゼフがわしのあとつぎだ、と皆に言いなさい」と言っ

た。ヨーゼフがそれをさえぎって、ことばをはさもうとすると、

老人は恐ろしい目でにらみつけた。氷の光線のように人を貫く

目つきだった。ある日、彼は、助けを借りずに起き、いつもよ

り元気そうだったが、ヨーゼフを呼んで、小さい庭の端の一カ

所に連れていった。「ここが」と彼は言った。「わしを埋める

場所だ。いっしょに墓を掘ろう。まだいくらか時間があるよう

だ。すきを持っておいで」そこでふたりは毎日早朝少しずつ掘

った。ディオンは、力があるときは、すきに数杯の土を自分で

掘り出した。非常に骨が折れたが、仕事が楽しみであるかのよ

うに、朗らかにやった。この一種の朗らかさは終日彼から離れ

なかった。墓を掘るようになってから、彼はいつも上きげんだ

った。「わしの墓にヤシを一本植えてくれ」とあるとき彼は働

きながら言った。「たぶんお前はその実を食べることになるだ

ろう。お前が食べられなかったら、他の人が食べるだろう。わ

しは時折り木を植えた。だが、ごく少しだった。あまりにも少

しだった。


木を植えず、むすこを残さずに、死んではならない、と言われ

る。さて、わしは木とお前を残すわけだ。お前はわしのむすこ

だ」彼は落ちついて、ヨーゼフが彼を知ったときより朗らかで

あった。そして、ますますそうなった。ある晩、暗くなって、

食事と祈りをもう済ませたあとで、彼は寝床からヨーゼフを呼

び、なおほんのしばらく自分のそばにいてほしい、と頼んだ。

「少し話をしよう」と彼はうちとけて言った。まだ疲れておら

ず、眠くもないらしかった。「ヨーゼフよ、お前がかつてあの

ガザのそばの隠れ家で苦しい時をすごし、生きることをいとわ

しく感じたことを、おぼえているかい。それから

--------------------------------------------------------


そして逃げ出し、ディオンの爺さんを見つけて自分の話をしよ

うと思ったんだろう?そして、セノバイトの集落でその老人に

会い、ディオン・プギルへの道案内を頼んだことを覚えている

かな?その老人がディオン本人だったというのは、奇跡のよう

な話ではないか?どうしてそうなったのか、今になって話して

おきたい。禁欲主義者で告白の父である男が年をとり、自分を

罪のない聖人だと思っている罪人たちの告白をたくさん聞いて、

自分が彼ら以上に罪人であることを知らないとき、それがどの

ようなことかわかるだろう。そのような時、彼にとってすべて

の仕事は無駄であり、むなしいものに思える。かつて重要で神

聖に思えたすべてのこと--神が彼をこの特別な場所に割り当て、

人間の魂の汚れを清めるという仕事を彼に与えたという事実--

そのすべてが、彼にはあまりに重圧に思えるのだ。彼はそれを

呪いのように感じ、自分の子供のような罪を持って彼のところ

に来るすべての貧しい魂に震え上がるのです。木の枝に縄をか

けてでも、その罪人を追い出し、自分を追い出したいのだ。そ

の時、あなたはそのように感じたのです。そして今、私にも告

白の時がやってきて、告白している。


わしにも同じようなことがあった。私も自分が役立たずで、精

神的に死んでいると思った。人々が私を信頼して集まってきて、

彼らが対処できないような人間の生活のあらゆる汚物と悪臭を

私に持ってくることに、もう耐えられないと思った。」私はヨ

セフス・ファムルスという隠者の話をよく聞いていた。懺悔の

ために人々が彼のもとに集まったと聞いた。彼は優しく慈悲深

い人物で、何も求めず、責めず、ただ話を聞き、キスをして彼

らを追い出す兄弟のように扱ったというから、私より彼を好ん

だ者が多かった。知ってのとおり、それは私のやり方ではない

し、私がこのヨセフスについて話を聞いた最初の数回は、彼の

やり方はむしろ愚かで異様なものに思えた。しかし、自分のや

り方を疑い始めた今、このヨセフのやり方を批判したり、自分

のやり方を優位に立てたりしない方がいいと思った。この人は

どんな力を持っているのだろう、と思った。若い男を信用する

のは容易ではないので、安心した。しかし、私はこのヨセフス

・ファムルスに惹かれるものを感じた。そして、彼のもとに巡

礼し、自分の不幸を告白し、助言を求め、助言が得られない場

合は、彼から慰めと力を得ようと決心したのである。私は旅に

出て、彼の独房があると言われる場所に向かいました。しかし、

その間にヨセフス兄弟は私と同じような経験をして、私と同じ

ように、私に助言を求めて逃げてしまった。確かに奇妙な状況

下で彼に出くわしたとき、彼は私が予想していた通りの人物で、

私は彼を認識することができました。しかし、彼は逃亡者であ

り、事態は私と同じかそれ以上に悪化しており、彼は告白を聞

く気には全くなれなかった。むしろ、彼は自分の告白をするこ

とに躍起になっており、自分の苦悩を他人の手に委ねようとし

ていた。そのことは、私にとって非常に残念なことで、とても

悲しくなりました。このヨセフスもまた、私に気付かず、奉仕

に疲れ、人生の意味に絶望していたとしたら、それは私たち二

人が無価値で、無駄に生きてきた、失敗者だったということに

ならないだろうか。


「あなたがすでに知っていることを話しているのだ。「あの夜

は一人だった」「あなたがセノバイトに歓待されてる間」「私

は瞑想し、もし明日、自分の使いが無駄であり、プギルへの信

頼が無駄であったと知ったら、プギルもまた逃亡者であり、誘

惑にさらされていると知ったら、彼はどうするだろうか?この

ように、私が彼の立場に立てば立つほど、私はヨーゼフをより

哀れに思い、神が彼を私に送ったのは、私が彼を理解し治療で

きるように、そしてそうすることで私自身をも治療できるよう

にと思われるようになった。


この結論に達した後、私は眠れるようになり、その時にはもう

夜半になっていました。翌日、君は私と一緒になり、私の息子

になった」この話をしたかったのだ。泣いているのかい。泣く

がよい、そのほうがよい。そして、私はこの見苦しい饒舌に陥

ってしまったので、もう少し耳を傾けて、私の言うことをあな

たの心に受け止めてくれるよう、親切にしてください。人間は

不思議なもので、ほとんど当てになりません。ですから、この

ような苦しみや誘惑が、いつか再びあなたを襲い、あなたを打

ち負かす恐れがないとは言えません。その時、主があなたの中

に私に与えてくださったように、親切で、忍耐強く、慰めるよ

うな息子や弟子を送ってくださいますように。


しかし、木の枝とイスカリオテのユダの死については、誘惑者

がその当時あなたに送った幻影ですが、私があなたに言えるこ

とは、そのような死を自分に与えることは単なる愚行や罪どこ

ろではなく、贖罪者はそのような罪も十分に許してくれるが、

しかし、絶望の中で死ぬことは、人間にとってひどく哀れなこ

とである。神は私たちを殺すために絶望を送るのではなく、私

たちの中に新しい命を目覚めさせるために送る。一方、神が死

を送るとき、ヨセフスよ、私たちを地上と肉体から解放して、

ご自分のもとに呼び寄せるとき、それは大きな喜びです。疲れ

たときに眠ることを許されること、長い間背負っていた重荷を

下ろすことを許されることは、貴重で素晴らしいことだ。


墓を掘って以来--その上に植える若い椰子を忘れないでくださ

い--墓を掘って以来、私は長年にわたって最も幸せで満足して

います」私は長くしゃべり続けた、私の息子、あなたは疲れて

いるに違いない。もう寝なさい、自分の小屋に行きなさい、神

と共にあれ!」翌日、ディオンは朝の祈りに現れず、ジョセフ

も呼ばなかった。心配になったヨセフがディオンの小屋をのぞ

くと、老人が最後の眠りに入っていた。ヨセフはディオンを埋

葬した。そして、その墓の上に木を植え、その木が初めて実を

つける年を迎えるまで、ヨセフは生き続けた。

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ヘルマン・ヘッセ 大懺悔聴聞師 りか @ricatera

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