第10話 ぼくのチンチラ系妻

 皆さんは、チンチラという生物をご存知だろうか?生憎、かの有名な猫のチンチラ、もとい、ふっさふさした毛を靡かせる真っ白なペルシャ猫の事ではない。



ネズミのような顔をしている方のチンチラである。そう、寂れたペットショップに昔からたまーに売っている、エキゾチックアニマル寄りの動物に該当した、不思議な生き物だ。大きな鼻を始終ピクピクさせ、どこかしら宇宙を理解しているかのように、賢そうなつぶらな瞳を持ち、人間のように鼻をかくチンチラ。



(…あの不思議生物に、本当にそっくりだ。) 



 夜中にふと目が覚めた明は、まじまじと我が妻、裕美の寝顔を凝視しながら思った。裕美の高い鼻、思っていたより意外と長い足(決して、長過ぎる訳ではない)、そして、回転が恐ろしく早い活きの良い脳ミソがずっしりと詰まった大きな頭と、小柄な体型、透き通るような白い肌は、YouTubeで検索すると出てくる、白いチンチラに酷似していた。



その上、幼なじみの明はよく知っていた。裕美の鼻をかく仕草は、チンチラのそれにそっくりなのだ。初めて白いチンチラの動画を見た時、呆気に取られた程である。チンチラという生き物は、みな一様にして、なぜか景気良く鼻を擦るようにかく。チンチラ愛好家達は、江戸っ子のように鼻をかくこの仕草を、“てやんでい”と呼んでいた。裕美もよく意識せずに、花粉症の鼻を“てやんでい”しているのだ。



そう、明にとって、裕美は今まで付き合ったどの女性とも違う点がある。それは、本当に何を考えているのだか、よく分からないという所だ。動物で例えるならば、恋をした数多の女性たちの大抵が、古くから飼い慣らされた犬や猫のように、感情が恐ろしく分かりやすい。


 


 元カノの絵理奈は、犬のようにデレデレで、焼き餅妬きであった。ダンス部に所属していた彼女は、スクールカーストの上位に食い込むような美貌と溌剌さを兼ね備えていたし、喜怒哀楽がはっきりしている。明が他の女の子に告白された際には、嫉妬の余り、その子とリアルキャットファイトを行うようなアグレッシブさを発揮した。



 

 初彼女の有希は、猫のようにツンデレだった。愛情表現は非常に分かりにくかったし、無関心にすら見えた。それでも、明が他の女の子に目移りしそうなものなら、どこからともなく、しゃなりしゃなりと現れて、明の視界を自らの尻尾で覆うような仕草をする。




 だが、裕美の場合は犬とも猫とも形容しがたい。幼い頃に、大好きなおじいちゃんと生き別れた事が影響しているのだろうか?父が浮気をした上、借金だけを残して高飛びをしたせいもあるのかもしれない。それとも、シングルマザーの母に育てられ、忙しい母の留守に甘えたくても甘えられない幼少期を過ごしたから、とも言えた。そんじょそこらでは味わえない苦労をいっぱい味わった裕美の表情は、基本的に、虚無感に満ち溢れているのである。



 

 ネズミ属性の生物は、無心に食べ物を貪り食らう愛らしい生物だ。その中でもチンチラは、急に動きが停止したりする不可思議な習性がある。彼らは、パリパリと食べていた草を、途中で思考停止したかのように、食べるのを辞める。まるで考えている素振りをするように、急に耳を澄ませて動きをしょっちゅう止めるのだ。



その瞬間のチンチラの表情と言ったら、何とも言えない奇妙な魅力に満ち溢れているのである。数秒前までつぶらに輝いていた真っ黒な瞳は、急激に真っ暗なブラックホールと化し、明かりが消える。そして、鼻とひげだけが静かにピクピクと動く。まるで嵐の静けさのようなその無表情は、裕美の物静かな様子と酷似していた。



「…似てる。だいぶ、チンチラみが増してる…。」



思わず明が呟いたその時。ぐっすりと寝ていた裕美の手がゆっくり動き、無意識に鼻をかいた。その姿はまさに、チンチラの“てやんでい”その物である。


「ふふっ。」



思わず出た笑いを噛み殺した明は、手を伸ばしてゆっくりと妻の頭を撫でた。少し茶髪がかった黒髪が、サラサラと手の中で動く。裕美は、精神科の薬を飲んでいる。寝る前に睡眠薬を飲んでいるから、何をしても聞こえていないし、起きないだろう。


そんな事は分かっていたけれど、明は、裕美の頭を撫でながら、独り呟く。



「今日もいっぱいお仕事を頑張って、偉かったね。いつも頑張りすぎちゃうんだから、あんまり頑張りすぎちゃダメだよ。チンチラさん。」



返事はない。裕美はすやすやと寝息を立てていた。小さく縮こまったその姿は、白くてふわふわした毛並みを持ったあの珍獣その物である。明の胸に、じんわりと裕美へのポカポカした気持ちが広がる。それは、裕美への“愛しさ”に違いなかった。




 大体の人々は、犬派と猫派に分かれがちだ。犬系男子、猫系女子と言われるように、多くの人々が分かりやすいジャンルに分類されるのだろう。チンチラ系女子なんて言葉は、きっと存在しない。この話を読んだ人々の多くが、チンチラを知らないかもしれない。




「こんなに可愛いのになあ。犬とか猫よりも、ずっと面白い生物なのに。」



YouTube動画の、自分の巣穴から、いらない物(玩具と食いカス)を放り投げ捨てているチンチラと、妻の姿を見比べながら、明は独りごちる。



チンチラが知る人ぞ知る愛玩動物であるように、普段クールで仕事が出来る裕美に、どこかすっとぼけたとても可愛らしい一面がある事を知る人は少ない。



だからこそ、明は思うのだ。




(裕美が安心して、あるがままのチンチラであれるような家でありたい。)



チンチラという生物は、あのフワフワで愛らしい外見とは対照的に、とてもプライドの高い気まぐれでグルメな生き物である。



チンチラの飼い主たちは、たびたび、しけったチモシーに気を悪くして、突然ご飯を食べなくなるチンチラに頭を悩ませる。



また、チンチラのプライドを傷付けた際には、あの頑丈な齧歯類の歯でガブリと噛み付かれる事もあるだろう。



それでもチンチラ愛好家たちは、チンチラのためにせっせと一年中絶やす事なくエアコンをつけ、湿度管理をし、チンチラを満足させるのだ。



なぜなら、それだけ、チンチラという生物が、フワフワとしていて、チモシーを食べる度に動いてしまう耳とひげまでもが、とてつもなく、可愛らしいからだろう。




それは、何度暴風雨のようなエキセントリックな裕美の感情に振り回されてびっくりしても、やっぱり裕美が可愛らしいと思う明の気持ちによく似ていた。



「裕美と結婚して良かった。僕の奥さんになってくれて、ありがとう。チンチラさん。」




明は、すっかりチンチラな妻に満足すると、妻のおでこにキスをした。裕美は、すやすやと寝息を立てて寝ている。その姿は、快適な巣穴でゆっくりと休息しているあの珍妙な可愛らしい生物その物であった。
























 


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