第9話 迷子の理由
「もう…どこに行った訳…?」
周防裕美はイライラしながら、ショッピングモールの中をうろうろとしている。夫の明が見つからないからだ。
(手を離すんじゃなかった…。)
深いため息をつきながら、そう思う。なぜなら、明は本当にひどい方向音痴だからだ。明は、地図が見れない。見ても、どちらが北で南かも分からない。恐らく、右と左もよく分かっていないのだろう。
(最寄り駅のケンタッキーを探してる時も、こんな事があった…。)
裕美は、過去の明の“おとぼけエピソード”に思いを馳せる。
「はい、この先、右折して。」
その時も、裕美はスマホのGoogleマップを見ながらナビをしていた。
「うん、分かった。」
裕美のナビを聞いた明は、さも当然のように十字路を左折する。
「違う違う違う!ちょっと、フフ、そっちは左だから!」
みるみる内に、ケンタッキーから遠ざかっていく明に、ふざけているのかと思った裕美は、思わず笑いながら、明の服の袖を引っ張った。
「え?そうだっけ?」
きょとんとした明に、裕美は開いた口が塞がらない。そして呆れて、右利きの明に聞く。
「君が、お箸を持つ方の手を挙げてごらん。」
素直に右手を挙げた明は、驚いた顔で自分の右手を眺めた。
「…あ。逆方向だった。」
「もう~。君は一人でケンタッキーも見つけられないの??」
「うん、裕美がいて良かったー。これでケンタッキーが食べれるね!ありがとう!」
「こんな駅前の目と鼻の先にあるケンタッキーに辿り着けない人、初めて見たわ。」
「ねえ!見て見て!あのトイプードル、可愛い!」
呆れ顔の裕美の様子にはどこ吹く風で、次の瞬間には、通りすがりの愛想の悪いトイプードルに目を奪われた明。目をキラキラさせながら、声を弾ませている。
「あー、はいはい。本っ当に“可愛い”ね。」
チラリとトイプードルに目をやった裕美は、皮肉を込めて答える。トイプードルよりも、トイプードルにウキウキしている明の方が、よっぽど犬に見えた。トイプードルのリードと首輪を見ながら、裕美は思った。
(うちの犬旦那にも、リードを付けたい。明をノーリードにするのは、危ないし、何より“私”が探すのがめんどくさい。)
ついつい職業柄、合理的な考えに及びがちな経営者の妻(飼い主)は、ここで注意力散漫な夫(犬)に宣言する。
「ねえ、いちいち明を探すのがダルいから、出先では私から離れないでね。はい、手を繋ご。」
そう仕方なしに呟くと、明の顔が嬉しそうにほころんで、パアッと明るくなった。
「裕美って、本当にツンデレだよね!!僕は、いつでも裕美と手を繋ぎたい。出先じゃなくても繋ご!おうちでも繋ご!寝る時も繋ご!」
「うざい時と、暑い時は却下。」
そうすげなく返しつつも、余りにもルンルンしている夫の能天気さを見て、裕美はついつい吹き出しそうになる。夫が完全に、猫のように気まぐれな妻が、久しぶりにデレてくれたと“盛大な勘違い”をしていたからだ。
(いや、君が迷子になったら、私の“貴重な時間”が台無しになるから、リードの代わりに手を繋ぐのを提案したんだけど…。)
そう心の中でノリツッコミをしながら、裕美は上機嫌の明の“リード”を引いてお出かけを続行したのだった。それからのお出かけならぬ“お散歩”では、裕美は欠かさず明と手を繋いでいる。手を繋いだ方が、明のテンションも上がって楽しそうであるし、迷子も防げるという“一石二鳥”の素晴らしい策だからだ。最も、“迷子を避けるため”が一番の理由ではあるが、それは本人には言っていない。
(…しかし、手をちょっと離しただけで、何でこうなるかな…。)
人波をかき分けながら、裕美は自問自答する。こういった明の“天然さ”は、裕美と出会った中高生の頃からである。いつもぼんやりしている明は、自分の苦手な事や(大体は、“一般常識”というやつに該当する)、興味のない事には、無類の無関心さを発揮するのだ。その上、“世間知らず”というオプションもついているのだから、始末に終えない。宅配便の内容物を書く欄に、“お誕生日プレゼント”と書いて、裕美に送り付けてきた事もあった。当時、明の熱烈な求愛を一年フルシカトしていた裕美も、これには“大笑い”したものだ。
(確かに、明といるのは本当に“面白いし楽しい”んだけど、こういう時は“めんどくさい”。)
ため息を付きながら、裕美はスマホで電話をかける。
「…おかけになった電話番号は、電源が入っていないか…」
機械的な音声が耳に虚しく鳴り響いた。
「…あのお馬鹿…。」
裕美は思わず、大きなため息をつく。恐らく、いや、確実に。明のスマートフォンの電池がすっからかんになっているのだろう。そういえば、久しぶりのお出かけにワクワクした夫が、電車の中で“意味もなく”YouTubeの犬や猫の動画を、大量に見せてきていた事を思い出した。
「ねえ、裕美!見て見て!このハスキー、まゆげがすごい可愛いよ!ぼく、ハスキーを飼いたいな!久しぶりに大型犬とお散歩したい!」
裕美は、車内に少しばかり大きく響く“子どものような”夫の声に眉間にシワを寄せ、シーッと嗜める。
「シーッ、静かに。…ハスキー?マンションだからダメ。ただでさえ明の筋トレ道具と、デカ猫のタマが場所を取ってるのに、もっとお部屋が狭くなるでしょ。筋肉かハスキーか、どっちか選んで。」
「…タマ、そんなに大きいかなあ…?」
不思議そうに首を傾げる夫に返答もせず、妻はため息をつく。脳裏に、6キロを優に越え、もさもさとしたしっぽを靡かせるノルウェージャンフォレストキャットの呑気そうな姿がぼわんと浮かんだ。
(初めて見た時に、タマがベッドから床に降りてる音が、“ドスン”って聞こえたもんなあ…あれが小さい訳ないだろ…。)
そんな事を考えている妻の思考を読んだように、すかさず、明は愛猫のタマを庇った。
「タマ、最近年のせいか、痩せてきたし、ちっちゃくなってきたけどね?だって、この間計ったら6キロギリなかったんだよ??あんなに軽くなっちゃって悲しい…。」
「…猫で5キロある時点で、大分デカイから。和猫を見てごらん?3キロ位しかないでしょ??そもそも、お散歩なら、チャロと行けば良いじゃん。」
「チワワのチャロにとっては、ぼくと5分歩くのも、旅だよ?足が短いし可哀想だよ。」
「…じゃあ、筋トレがてら、一人でジムまでお散歩しに行きなよ。とにかく、大型犬はかさばるからダメ。」
「えー。あ!見て見て!このポメラニアン、スッゴク可愛いよ!タヌキみたい!ポメラニアンは??」
ハスキーから興味が早くも失せた明は、マイペースに次の対象へ好奇心を寄せている。裕美は、目を輝かせている夫の姿に内心呆れながらも、思った。
(君が一番犬だよ。うちにはもう、チワワと猫と犬(旦那)がいるんだから、これ以上必要ありません。)
「裕美裕美!カワウソも可愛いと思わない??昔デートした品川の水族館のカワウソ、ハートの形に寝てて可愛かったよね!カワウソがおうちにいたら、どう思う?」
「…魚臭いと思う。確かに可愛いけど、“水族館の匂い”が毎日するんじゃない?後、君のお風呂掃除が今よりも大変になるよ。」
現実感溢れる最もらしい返答をした経営者の妻は、この辺で少しばかりの“眠気”を感じた。久方ぶりの“犬旦那との1日デート”に備えて、ここで仮眠を取ることは酷く“合理的”に感じたのだ。何せ、目を離したら迷子になる危険性をはらんでいる上に、とってもおしゃべりなこの子犬のリードを持つのは、割と体力を消耗する。
「…明君、私はちょっと寝るから、静かにしててね。着いたら起こして。」
そう厳めしく言い含めると、明は素直に頷き、ごそごそとカバンからswitchを取り出して、スマホ片手にゲームをし出す。目を閉じてからの小一時間、明が何をしていたかを裕美は知らない。だが、予想はつく。
(…多分、大音量で音楽を聞いてたら電池がなくなったんだな。)
(電車の中で、携帯用の充電器をあてがっておけば良かった…。)
裕美は、数時間前の明の様子を思い返しながら、つい、自分のバックの中の充電器を恨めしそうに見つめる。勿論、明がそんなものを“用意周到”に持っている訳はない。この前、出先で鼻水が止まらなくなった時も、裕美が“常日頃から”バックに忍ばせているポケットティッシュを懇願し、鼻を啜りながら恵んでもらっていた我が夫にそのような“才覚”があるとは、到底思えなかった。深くため息をついた妻は、目についたベンチに腰掛け、いつもの癖で足を組む。とりあえず一時間は、夫の“帰巣本能”を信じてみても良いだろう。裕美らしい“慎重な待ちの姿勢”であった。
一方、その頃。周防明は、“途方にくれた表情”で、人波の中をうろうろしていた。その腕には、可愛らしく“ギフトラッピング”された大きな買い物袋が提げられている。
(…どうしよう、初めて来た場所だし、ここがどこだか全然分からない。やっぱり、浅はかだったかな。ちゃんと裕美に声をかけてから、一緒に選びに行けば良かったかな…。)
チラリと後悔まじりに、妻へのプレゼントが入った買い物袋を見つめる。しかし、明は、例え“迷子”になったとしても、“これ”をどうしても妻にあげたかったのだ。そしてきっと、裕美と“二人で”見に行ったならば、このプレゼントを買うことは叶わなかっただろう。明にとっては、“迷子になる恥”なんかよりもずっと、“大好きな裕美に幸せを運ぶこと”の方が価値が大きかった。
(…だって、裕美は、今までずっと、沢山いっぱい“我慢”を“自分で自分に”強いてきたんだ。きっと、僕が“頼りにならない夫”だから、“お金”の事だって、いつも神経を磨り減らしてるだろう。僕は、“現実的な事”を考えるのは苦手だ。自分が子どもっぽい事だって、ちゃんと分かってる。裕美はきっと、“これ”を“自分では”絶対買わないし、買えない。だからいつだって、裕美が自分で“我慢”を強いて買えない物は、僕が気付いてプレゼントするんだ。)
明は、そんな事を考えながら、数週間前に何回か繰り返した妻との会話に思いを馳せる。
「…やっぱりさー、こういうのって“お洒落”だよね。リビングにあったら、“インテリア栄え”するんだよなあ。」
休日の至福の午後、妻の“膝枕”で“うっとり”としていた明は、上から降ってきた言葉に反応する。裕美は、相当そのアイテムに“ご執心”なようで、先ほどまで頭を撫でてくれていた片手は、完全に動きを止めていた。
「何を見てるの??」
体を起こし、妻の手にあるスマホを覗きこむと、そこには、明には“よく価値が分からない物”が写っていた。
「ああ、コーヒーを飲む時に使う“ガラガラ”だね。」
「…あのね、“ガラガラ”じゃなくて、“コーヒーミル”って言うんですよ、お兄さん。」
呆れたように“正式名称”を教えてくれる妻の声を聞き流しながら、明は画面の中の“ガラガラ”を見つめた。明の目には、この“ガラガラ”が、商店街の福引きの時に回す“ガラガラ”と、大差なく見える。けれども、その“ガラガラ”は、妻がため息をつく位、“欲しい物”らしい。だからこそ、間髪入れず、明は目を輝かせて言った。
「僕が買ってあげる!!」
「…んー、良いかな。もったいないし…。」
だが、せっかくの申し出は、すげなく妻に“脚下”される。
「…何で?裕美が欲しいなら、良いじゃん!もったいなくなんか、ないよ!」
「…うーん。この前パンプスをもらったばかりだし、明もお小遣いすっからかんでしょ…?“こんな物”のために無理する事ないよ。それに、パンプスなら、いつでも履けるし重宝するけど、“私しか”コーヒーを飲めないから、あっても使わないと思うんだよねー。最初お洒落ではまっても、その内、なんだかんだポットの方が楽で戻ってきちゃう気がする。たまには、豆から挽きたいと思うかもしれないけど、洗い物増えるし、めんどくさいって思うんだろうなあ…。」
「別に、僕がコーヒーを飲めなくったって、関係ないじゃん。そんな事を気にしないで、“自分のため”に“お金”を使おうよ。洗い物だって、裕美の手が荒れるのは嫌だし、置いといてくれれば、他のと一緒に僕がしとくからさ。だから、めんどくさい事なんて1つもないよ。」
「いやー。流石に“悪い”から良いよ。それに、明はココアが好きでしょ??ポットだったら、両方淹れられるし、やっぱり使わない気がするんだよね。それに、“お値段”を見てごらん、ほら。」
「…15000円…?そりゃあ高いかもしれないけど、こういう物って、それ位はするんじゃない?それに、裕美だってこの前、ぼくがずっと欲しかった、最新作のゲームの“デラックスデジタルバージョン”を買ってくれたけど、その位の値段したから良くない?」
「…それは、明が去年からずっと欲しがってたから良いの。私のコーヒーミルへの“情熱”は、そこまでじゃないもん。それにさ、安いのだったら、5000円位のもあるよ?だけど、あんまり安過ぎると、ちょっとちゃちくなるから、いらないかなあ。ほら、私、“贅沢な女”だし、こだわり出すと止まらないから。」
目線は“ガラガラ”に釘付けであるにも関わらず、なんて事のないように言ってのける妻。その姿は、元カレの“言葉の呪縛”に縛り付けられていた頃の裕美を彷彿とさせる。
<裕美ちゃんは、“贅沢”だよ。“我が儘”だよ。>
何度、そうした心無い言葉が、裕美のハートを傷付けた事だろう。常に冷静で、まるで息を吸うように、目の前の“欲望”を“我慢”してしまう裕美。“欲しい”から、目をそらすのが癖になってしまっている事を、もはや本人は理解していないに違いない。
裕美がどこか淋しそうな顔で、“我が儘な女”と自嘲した事が、明は許せなかった。裕美に、そんな“トラウマ”を植え付けた世界も。しかし、そうした“他者から押し付けられた価値観”に、未だに苦しみ続けている当人に対して、何を言っても解決策にはならないだろう。若い頃に植え付けられた“観念や古い価値観”から抜け出す事は、容易い事ではない。ゆえに、多くの人々は“病んでいる”のだ。
(裕美に必要なのは、言葉じゃなくて、“真心のこもったプレゼント”なんだ。ぼくが裕美の“我慢センサー”が点いている時、すぐに気付いて、心が死んじゃわないように助けてあげるんだ。)
明は、裕美が“我慢”をしている時の癖を、もう熟知している。初めてプロポーズをした時も、そうだった。あの時も裕美は、睫毛を痙攣させながら、まるで何かをグッと耐えるように、“無機質”を装って、明を振った。裕美が“我慢”をする時、そこにはいつも、“無機質な冷静さ”があるのだ。無論、裕美とて、完璧人間ではない。感情を完全に“殺せる”人間などいないのだから。“無機質な冷静さ”の後は、大抵、“暴風雨のような感情の大嵐”が吹き荒れる。そんな時、明は呆気に取られて、“びっくり”した。しかし、ある時、明は“びっくり”してから、ぼんやりと考えてみたのだ。
(裕美に何をあげたら、裕美がこの“苦しみ”から解き放たれるかなあ??)
“感情の起伏が激しい”事を、裕美が気にしているのは理解していた。では、激しくなるのは、どういう時か?それは決まって、裕美が“我慢”をしてしまう時である。繰り返すが、“我慢癖”のついている人が、そこから解放されるのは難しい。だからこそ、明は、自ら進んで、“裕美を甘やかすプロジェクト”を年中推進中なのである。
二人の生活が始まってから、少しずつ、裕美は自分の中の“子供”を取り戻しつつある。いつも遠慮がちに、明の差し出す“真心”を恐る恐る受け取る、怯えた子供のような裕美の様子を見守る瞬間だけ、明は“大人”になった。その時間は、明にとって何とも形容しがたい、胸が“いっぱい”に満たされるものである。それはもしかしたら、明の中に、裕美への“父性”や“母性”に近いような“愛情”が、芽生えつつある、という事なのかもしれない。
(裕美は、小さな頃から、常に“大人”であり続けなければならなかった。だから、ぼくが、“大人”の裕美に“子供の時間”をプレゼントするんだ。子供は、ありのままに“我が儘”を言うのが仕事だ。でも裕美は、きっと、“我が儘”を“罪”だと思っている。“我が儘”を言ったら、嫌われると思い込んでいる。おじいちゃんを失って以来、裕美に“子供のような我が儘を許してくれる場所”がなくなったからだ。ぼくが、裕美が“ありのままでいられる時間”を見守る“大人”になるんだ。)
明は、裕美と付き合う前からずっと、裕美に連絡先をブロックされても、罵られても、暴言を吐かれても、そんな“決意”を胸に抱いていた。
なぜなら、どうしても忘れられない光景があるからだ。それは裕美が、元カレからの誕生日プレゼントをもらったその日に、泣き崩れていたシーンだった。
「…どうしたの?何かひどい事を言われたの…?」
おずおずと、泣きじゃくる裕美に聞くと、こんな事を言われた。
「…プレゼントが、ビニール袋に入ってたの。小さい頃、ママがこういう事に雑で、“ギフトラッピング”されたプレゼントをもらった事がなかったから、せめて彼氏からは“ギフトラッピング”されたプレゼントを貰いたかったの…!」
正直な所、当時、明には裕美の“ギフトラッピングへのこだわり”が全く理解出来なかった。明は、プレゼントをもらったら、すぐバリバリと包み紙を開けてしまうし、包み紙は即ゴミ箱行きにしてしまう。別にビニール袋に入っていようが、ゴミ袋に入っていようが、欲しい物さえ手に入れば、いつだって、飛び上がる程嬉しかった。
しかしその時、明はこれがどこかで聞いた事のある話だと気付いた。明の母、冴子も、“ギフトラッピングへの異常なこだわり”を持っていた。それは、土建屋の娘として産まれ、共働きで忙しい上に、“がさつ”な祖父母に育てられた事で置き去りにされた、母冴子の中の、“満たされなかった小さな子供の気持ち”なのだろう。母はいつも言っていた。誕生日に“むき出しのお金”を差し出され、好きな物を買ってきな、と言われるのが、とても“淋しかった”、と。そう語る時の母の横顔は必ず、自分の“親”であるはずが、なぜか“小さな少女”のように見えた。
明は、働き者の父と、専業主婦の母に育てられた。父は仕事で大抵いなかったが、母とペットの動物たちがいたから、“淋しさ”はあまり感じずに育った。だから、母の味わった“淋しさ”は、よく分からなかった。ただし、明は幼い頃から、知っていた。仕事で忙しい父が、決まって母の誕生日とクリスマスには、両手にいっぱいのバラの花束と、まるで海外の映画に出てくるような大きさのプレゼントを、少女趣味の母のために、わざわざギフトラッピング屋さんに包装してもらってまで贈る事。それを受け取る時、冴子は、その場にいる我が子よりも無邪気に飛び上がり、夫の哲夫に抱き付いた。
「てっちゃん、ありがとう!わあー!プレゼントだー!」
母が喜び、“小さな子供”のように乱舞する様を、無口な父哲夫は、嬉しそうにはにかみながら、いつになく“多弁”になり、今回のプレゼントを手に入れるまでの苦労を語る。側にいる明はそっちのけで、プレゼント会に浸るこの“馬鹿っぷる夫婦”には、“幸せの空気”が満ちていた。しかし明は、この夫婦の子供に産まれた事を、そんな時、心から満足する。
世間から見れば、両親は、“幼すぎる”夫婦かもしれない。“ままごと”のような生活をしていたかもしれない。母方の祖父母は、そんな風に、両親を時に“非難”したが、明は一度もそんな風に感じなかった。母の笑顔が、父の笑顔を引き出し、明にまで伝染する。その“幸せの周波”は、明にとっては、“立派な愛の形”であった。
母は、父からいかなる時でも、“お姫様扱い”を受けていた。それは決して、“レディーファースト”なんて物ではない。母が“女性”だから、ではなくて、母が父哲夫にとって大切な“伴侶”である、冴子という女性だからであった。料理人の父は、母以外の女性には、決してご飯をよそらなかった。他人が沢山いる集まりのバーベキューでも、父は人目も憚らず、美味しいお肉をまず初めに、母の分をよそって渡した。それからついでのように、我が子の明にもよそってくれた。父は、必ず最後に、自分の分をよそうのだ。哲夫は結婚から何年経過しようと、冴子を“第一優先”にしている。もちろん、仕事が母よりも優先される事はたまにあったが、父が最も大切にしている人間が母である事は、誰の目から見ても“明らか”であった。
明は、こうした父の“男性並びに夫としての在り方”に、幼い頃から強烈に憧れていた。“父”である前に、“夫”である事を優先する父を、子供ながらに誇りに思っていた。傍から見れば、父は、母の“言いなり”で、“尻に敷かれている気の毒な男性”という見方も出来るのかもしれない。何せ、ボンボン育ちで、羊のように大人しく穏やかな父は、毎度毎度、母の“エキセントリックな感情”に振り回され、激しい糾弾などされた暁には、泣き出しそうになりながら、どもっていた。
父の姿は、日本という国の“男性としての在り方”からは、かけ離れすぎていた。哲夫は男らしくなど、決してない。色白で、子供の頃は女の子のような顔をしていた哲夫は、よくある“昭和のちゃぶ台おじさん”が繰り広げるワンシーンのように、“俺の飯は?風呂は?”などと、冴子に言った事は一度もなかった。
哲夫は休みの日には決まって、喜んで腕によりをかけた料理を作って、冴子に食べさせた。フォークとスプーンを持って、出来上がるのを待っている子供のような母に、ご飯をよそる父の姿は、まるで夫というよりは、母性愛のような“慈愛”が感じられた。常日頃から、父の“愛”は、母の中の“子供”を暖かく癒していたのだ。
明は、“女性らしい母性的な慈愛”を持った父哲夫がいたからこそ、自分自身を受け入れる事が出来た。女性の体を持ち、男性の心を持って産まれた明は、自身の中に、“母性的な慈愛”がある事を、耐え難く感じる時期があった。少しでも、優しいと言われると、女の子みたいだと言われているようで、怯えた。しかし、両親について思いを馳せてみれば、父はどちらかと言えば、女性らしかった。逆に母冴子の方が、父哲夫よりもはるかに、男性らしかった。父が若い頃、通りすがりのヤクザに絡まれた際に、土建屋の大工のような、“気っ風の良い男気”で、“妊婦”の母は怯えた父を庇った。そうした両親の姿はたびたび、明に“勇気”を思い起こさせる。
(男らしさや、女らしさなんて、誰の中にでも両方あって、男女差なんてない。そして、大事なのは、自分らしくありのままで、自らがどう在りたいかだ。)
そう思えるようになった“大人”の明は、やっとこさ自身の中の“母性的な慈愛”を認めた。そして密かに、こう決めたのだ。
(いつか、ぼくの妻になる人が現れたら、その人の事を、父が母にしていたように、ぼくらしい、父譲りの“母性的な慈愛”で包んで愛したい。ぼくの“愛”は、どちらかと言えば、“女性的”かもしれない。それでもいい。ぼくはいつだって、ぼくの伴侶を、その人の子供の部分も、大人の部分も、ありのままに許して、母親のような気持ちで包んで愛する。それが、ぼくの“妻への愛の形”だ。)
最も、そう決意してみたはものの、元カノの絵理奈と別れてから10年間、すっかり“ロマンスはご無沙汰”だった明は、実に呑気に過ごしていた。そんな折に、件の、“裕美ビニール袋大号泣事件”が起きたのである。明は、裕美が“淋しい幼少期”を過ごしたのを聞き齧っていた。きっと裕美も、明の母みたいに、“取り残された子供のような淋しさ”を味わったからこそ、彼氏に、“理想の親がくれるようなプレゼント”を潜在的に求めてしまったのだろう。その“期待”を裏切られたからこそ、泣き崩れてしまったのだ。
素早くそう推察した明だったが、目の前の“悲しみに暮れる裕美”にどうしてあげれば良いのか、皆目検討も付かない。なぜなら、当時の明にとって、裕美はただの“友達”であった。“恋愛感情”など微塵も感じた事はなかったし、裕美はいつも頼りになる存在であって、“悪友”だったのだ。初めて見る裕美の、“少女のような姿”に、裕美が“女性である事”を突きつけられた明は、少しまごついた。そして意を決して、恐る恐る裕美の頭を撫でたのだ。
「…かわいそう。つらかったね。」
そう呟いてソッと触れた裕美の頭は、驚く程小さく、頼りなかった。まるで、生まれたてのヒヨコのように弱々しげなその姿は、明に“強い衝撃”を与えた。明にとって、裕美は常に、勇敢で、皮肉のきいた毒舌を放つ頼もしい存在だった。裕美は、明の為なら、どんな大人の前にも立ち、“明の権利”のために“抗議”をしてくれた。“大人”で、押しが強く、冷静な裕美の中に、裕美ですらも制御出来ない、誰からも気付いてもらえない小さく、儚い“子供”がいる事。その“子供”は、明の手を伝って、自らの“存在”を確かに“訴えた”のだ。この刹那の、何に、自身が“胸を打たれた”のか、その時の明には、全然分からなかった。
(今なら分かる。あの瞬間、ぼくはどうしても、“子供の裕美”を“甘やかして”あげたかったんだ。ぼくの中の“母性”が、裕美を“伴侶”に“選んだ”んだ。)
ボンヤリと物思いに耽りながら、明は思った。それまでの明は、“甘やかしたい”という感情を、生々しく感じた事などなかった。明は、“甘やかしたい”より、“甘えたい”派だ。女の子を“守る”よりも、“守られがち”であったし、女の子を“可愛がる”というよりは、女の子に“可愛がられる”方が好きであった。女子たちに、“ペットみたいで可愛い”と評されてしまう事に対して、情けないと感じつつも、やっぱり“可愛がられたい”明であった。そんな明の“古い価値観”を、裕美は変えた。
明の“慈愛”はどこまでも、裕美の為だけに“発揮”された。元々、明は好きになったら“尽くす方”ではあったかもしれない。明の元カノ達は、誰しもが、明と付き合って良かった、と言っていた。それは、明の“母性的な優しさ”の一端に“触れた”からであろう。しかし、裕美に対する明の“慈愛”は、そんな生易しい物ではなかった。今までの明は、“彼女が求めている事”を何となくキャッチし、それを自らが、“愛を込めて表現している”のを“自己認識”出来ていた。
けれども、“対裕美への母性愛”は、そもそもの動きが違ったのだ。裕美が求めようと、求めまいと。裕美から拒否されようが、却下されようが、そんな事は“これっぽっち”も、明には関係なかった。相手からこうして欲しいという要求をキャッチしたから動く、という“受動的な動き”ではなく、例え裕美から何も要求が発せられなくとも、明は“能動的”に“動かざるを得なかった”。
それほどまでに、明の“母性愛”は、傷付いた裕美の“ヒヨコの部分”を柔らかな羽毛で優しく静かに、包み込みたくて仕方なかったのだ。それは、産まれたばかりの我が子を、“本能”で愛しく感じる母のような気持ちに近いのかもしれない。“有償”ではなく、自然と“無償”に泉のように湧き上がる、そんな類いの愛情であった。明自身にも“制御できないコレ”こそが、今回の“迷子の原因”である。元カノ達が、明の“母性愛の一端に、あくまで触れていただけ”と表現するならば、裕美は、“母性愛の糠漬けに漬け込まれている”と言った方が、正しい。
明とて、“愚か”ではない。自身が裕美を“溺愛”している事には気付いている。だがそれを、“甘やかし過ぎている”とは、微塵も思わなかった。裕美が、“強がり”で“あまのじゃく”で、“自身に我慢を強いがちな完璧主義者”であるのを鑑みれば、常に“自分自身に厳しく当たる”のは否めないだろう。ならば、伴侶である明が、“溺愛”する事でようやく、“帳尻が合う”という物ではないか。
幼い頃、明には、父が母を、さも“かぐや姫”のように扱ってしまう理由が、イマイチピンとなかった。父の母への“手厚い愛情表現”を、“誇り”には思っていたが、あの寡黙で穏やかな父が、せっせと“我を忘れて”母を甘やかす姿は、時たま、“常軌を逸していた”からである。
(…でも、ぼくにはもう分かる。きっとパパも、ママへの“母性的な慈愛”が止められなかったんだ。)
たびたび、“母性”は、“父性”に比べて、“狂気染みている”と言われがちである。しかしながら、“母性愛”なしに、“子育て”は成功しない。現代人の心の中に、多くの人々が抱えている、“インナーチャイルド”。誰からも気付かれない、小さな自分自身の“傷付いた子供”を、誰が抱きしめ、乳を与え、育ててくれるのだろうか…?自らで、“インナーチャイルド”に愛を与えられる器用な人ばかりではないだろう。人は一人では生きられない。ならば、“伴侶”と決めたその人と、互いの中の“インナーチャイルドの子育て”を始めて見ても、良いじゃないか。明が、裕美の中の“インナーチャイルド”を抱きしめているのと同時に、裕美もまた、明の中の“インナーチャイルド”を優しく抱き上げているに違いない。そんな風に、凸凹を合わせて、ゆっくりと、二人が一つになり、“つがい”になってゆくのだ。父哲夫と、母冴子の先例のように。
そう納得した明は、ふと吸い寄せられるように、ショッピングモールの向こう岸のベンチに目をやった。小一時間探しても、“彦星と織姫状態”で会えなかった妻と目が合う。明を視認した裕美は、片手を挙げて合図すると、ベージュのトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、立ち上がる。肩パッドなど入っていないはずのコートが、すっかり“怒り肩”になっているのが、見てとれた。
…カツン。カツン。
裕美の“ハイヒールの足音”だけで、彼女が“怒っている”事は、充分に理解出来た。明は思わず姿勢を正し、妻の“第一声”を待つ。
「…で?何で貴方は、“一時間以上”も“迷子”になったんですか?」
“君”ではなく、“貴方”呼びをされた時点で、裕美が相当イライラしている事は明白だ。ここは、素直な方が良いだろう。
「…心配かけて、ごめんなさい。」
明は、ペコリと綺麗に頭を下げる。
「…ねー、スマホの充電が切れてたのも、あり得ないんだけど!?自分が“方向音痴”なのも、分かってるよね??君は、私が店員さんとお話しをしている間すら、“いい子に”待っていられないの??」
「ごめん、スマホの充電は、YouTubeを見てたら、切れちゃってた。“方向音痴”も“自覚”してました。いつもなら、裕美ちゃんから進んではぐれようとは思いませんでした。…でも、例え“迷子”になったとしても、買いたい物があったんだ。迷惑をかけてごめんね。」
しおしおと謝る夫の手元を見た妻は、瞬時に状況を察した。裕美は、その“可愛らしいギフトラッピングのされた大きな手提げ袋の中身”が、夫が欲しい物ではない事など、とうに見抜いている。しかしながら、この度の“夫の迷子事件の時間の浪費”は、好ましい物ではなかった。裕美は、“予定通り”に、予約したレストランで舌鼓を打ち、明日の仕事の為に早く帰宅したかったのだ。だからこそ、合理的な妻は、語気を緩めないように、敢えて“厳しく”問い質す事にした。
「明が中々見つからないから、レストランの予約も“キャンセル”したんだよ??ねー、あの1ヶ月前から楽しみにしていた、“美味しいお高級な焼き肉コース”を、今夜私達は“食べられない”んだよ…?“事の重大さ”を、君は理解しているの?“反省”してる??」
「…うん、ごめんなさい。はんせいしてます…。」
しょんぼりしながら、明は俯く。ああ、やっぱり、レストランには間に合わなかった。覚悟はしていたが、空腹の切なさが、じんわりと広がる。だが、そんな飢餓に見舞われても、やっぱり明の中には、後悔の欠片もなかった。
「…で?何を買ったの…?」
もう“答え”は分かっていたけれども、裕美は明に聞く。
「裕美に、ぷれぜんと…!」
待っていたように、嬉しそうに無邪気にはにかむ夫を見て、妻は大きなため息をついた。
「あのね、この前も言ったでしょう??私の為に、“無駄遣い”をしなくて良いから。この間だって、パンプスを買ってもらったし、お誕生日でも、クリスマスでもないんだよ??たまには、自分が欲しい物を買いなよ。明のお小遣いが、なくなっちゃうよ?」
裕美は心底、そのように感じていた。無論、明が少ないお小遣いから、裕美に誕生日でもないのにプレゼントをくれる事を、愛しく、可愛らしく感じるし、嬉しい気持ちもある。けれども同時に、裕美は、明にも“自分の欲しい物”をちゃんと買って欲しかった。裕美の見る限り、明が散財をしている気配は全くない。彼は、プロテインとサプリメントを買う以外は、滅多に“お金”を使わなかった。欲しいゲームがあっても、余程欲しい物でない限り、明は裕美が誕生日やクリスマスに買ってあげるまで、まるで“餌を待つ子犬”のように辛抱強く待っている。
それにも関わらず、裕美が何気なく欲しいと呟いた物を見つけては、“喜び勇んで”プレゼントしてくるのだから、“お小遣いの使い道”は容易に想像出来る。“いじらしい”を通り越して、“可哀想”と思う時すらあったのだ。今回も、その“大きな袋”を見れば、彼のお小遣いがほとんど使い込まれた事は、“明白”である。だからつい、気付けば、裕美は“夫をいじらしく感じる真心”から、こんな台詞を吐いてしまった。
「…今度は、何に“お小遣い”を使っちゃったのー?もー、これ包み紙良いやつじゃん…高かったでしょう、“もったいない”よ…。“こんな物”に大枚をはたいちゃって…。」
「…僕が、“僕の最愛の奥さん”に“お金”を使う事の、何が“もったいない”の?何で、自分が欲しい物を、“こんな物”なんて呼ぶの?」
珍しく口調が強くなった夫に、裕美は意表を付かれ、顔を上げた。見ると、明の眼が爛々と輝き、“怒気”をはらんでいる。明が裕美に怒る事など、滅多にない。この珍し過ぎる光景に驚いた裕美は、思わず答えに窮した。
「…いや、だって…。“悪い”よ…。私の方が、“お小遣い”を沢山使ってるのに…。」
「僕達は、“夫婦”だよ。“悪い”なんて、他人行儀に思われたら、僕は“悲しい”よ。それに、裕美は僕の倍以上稼いで、“大黒柱”として日々色んな“お金”の事に頭を悩ませて、養ってくれているんだよ?“お小遣いの金額差”なんて、関係ない。…それに。」
明は、的を射ぬくような鋭い視線で、裕美を真っ直ぐ見つめた。
「…先月、僕のパンツに穴が空いてたからって言って、僕が良いって言ってるのに、裕美の“お小遣い”から、僕のパンツを十枚位まとめて買ってくれたよね?セールしてたからって言ってたけど、それだって、十枚も買えばそこそこの値段になるよ。
このジャケットと、ズボンだって、誕生日でもないのにいきなり“プレゼント”でくれたよね?僕はユニクロで良いって言ってるのに、一枚位良いのを持っておきなよ、ってくれたじゃん。僕は、ブランドとか知らないからいくらか分からないけど、裕美だって、僕に“お金”を沢山使ってくれてるでしょ。最近、自分の為にいつ、“お金”を使いましたか?」
思いもかけない夫の“反撃”に目をぱちくりさせ、裕美は誘導されるがままに、よくよく考えてみた。
(…最近…最近…何を買ったんだろう、私…?え、メイク道具は足りてると思ったから補充してないし…ネイルサロンも、早起きがめんどくさいし、高いから行ってない…あれ…?)
裕美の考え事を“後押し”するように、すかさず明が“追い討ち”をかける。
「ネイルサロンに行ってみたいって、この間言っていたから、行きなよってぼくは言ったのに、早起きしたくないからとかごちゃごちゃほざいて、結局行かなかったよね?ぼく、徹夜仕事の時に、そのまま昼間まで起きてるから、起こしてあげるよって再三言ったのに、“もったいない”って、その時“も”言った。」
「…うん…。」
「裕美が、ぼくに服とかパンツで、“お金”を使う事は、“もったいない”事ですか?」
「…もったいなくない…。」
「裕美が、ぼくにぼくの趣味のゲームを買ってくれる事も、“もったいない”と思ってる?」
「…思ってない。」
「…じゃあ、裕美が趣味で欲しいと思った“コーヒーのガラガラ”と、ティーカップセットをぼくがプレゼントするのも、もったいなくないよね?」
(…“コーヒーのガラガラ”って何…?…あ、コーヒーミルの事か!!)
夫の“真面目なお説教モード”から、一転して現れた“ユルい明語”にまたまた、意表をつかれた妻は、つい吹き出しそうになった。だが、夫の“咎めるような視線”の前で笑い出せば、このお説教が“長くなる”のは間違いない。賢い裕美は、“神妙な表情”を努めて作り、夫の“能書き”に耳を傾ける振りをした。と同時に、まだ見ぬ“コーヒーミルとティーカップセット”に、心なしか胸が踊る。“もったいない”と自制しつつも、やはり、裕美はコーヒーミルに“多大なる興味”があったのだ。
「…裕美はさ、滅多にゲームをしないけど、ぼくのゲームを買ってくれるし、ゲームが上手いって褒めてくれるよね。だからぼくも、コーヒーは苦くて飲めないけど、裕美の趣味のコーヒーミルを大事にして欲しいし、裕美の趣味を尊重したいんだよ。…このぼくの気持ちが分かる?」
「…うん、分かるよ。ありがとう。」
しみじみと宥めるように、裕美は優しく呟く。明の少し拗ねたような子どもっぽい表情は、裕美の“母性”を少なからず、刺激した。いつの間にか、先程までの、“迷子の夫へのイライラ”は、時の彼方に消え去っている。裕美は、明の手から“プレゼントが入った袋”を受け取ると、悪戯っぽく微笑んで声をかけた。
「今日はもうおうちに帰って、晩御飯は駅前のデリバリーにしよっか。それで寝る前に、二人で“お茶会”を開こうよ。明にはココアを淹れてあげるから。」
妻の提案に、明の瞳が、“今日一番の輝き”でキラキラと瞬いた。明のお尻から、肉眼では見えない“犬の尻尾のような物”が生えてきて、ブンブン高速で振られているように、裕美の心の瞳からは見える。
「…あのね、ぼく、この前思ったんだ!ぼくの作品が“ベストセラー”になって、いーっぱい“お金”が入ったら、裕美の夢だった、カフェを開いてあげる!」
「そっかぁ。」
“夢見る夫”の“取らぬ狸の皮算用”を、“リアリスト”な上に“女社長”の妻は、否定もせず、口元に“微笑”を浮かべて聞いた。カフェを開く事が、そんな容易い事ではないのも、ベストセラーを出すのが簡単でないのも全部、ちゃんと“経営者”のこの妻には、“とっくのとうに”理解出来ている。
けれども、今の彼女にとって“大切”なのは、そうした“現実的な観念”よりも、目の前でニコニコ笑っている夫の“子供の部分”であった。その上彼女は、自分の夫が“見かけ”よりもずっと、“大人びた部分”も持っている事をよく分かっていた。“わざと”否定しない妻の気持ちに応えるように、夫も、次は、“声を低めて”、こんな具合に囁いた。
「…でも僕は、“未来”だけじゃなくて、裕美との“今”も大事にしたいんだ。だから、裕美にね、リビングに“裕美だけのカフェ空間”を作って欲しくて、コーヒーミルとティーカップセットを買ったんだよ。
ちゃんと、裕美がスマホで見せてくれたような、アンティーク調でお洒落だけど、“現実的に使えそう”な15000円のコーヒーミルと、セットで買ったら、10000円から8000円に“値下げ”してくれるティーカップセットを買ったの。コスパ良いでしょ?
迷子になって、高級焼き肉が“おじゃん”になったのは本当にごめん。…でも、人だかりが出来てたから、売り切れるのが心配だった。それに、裕美も連れてったら、“もったいないからいらない”って言い張るだろうし、一人で買いに行ったんだ。ごめんね、許してくれる…?」
「…うん、許してあげる。」
裕美はうなずき、屈託なく微笑んだ。
…ゴリゴリ…バキッ…ゴリゴリゴリゴリ…バキッ。
(…こうなるのも大方、予想はしていた。)
数時間後、自宅のリビングに響く“不吉な音”を聞きながら、裕美は“生ぬるい視線”で、“コーヒーのガラガラ”を、“不器用”に力を込めて挽いている夫を見守っていた。
「ぼくがね、裕美“専属”の、“ばーてん”になってあげるからね!」
コーヒーミルを挽く前に、“胸を張って得意げ”に、明はのたまった。その足元では、飼い犬のチワワのチャロが、見慣れない“コーヒーのガラガラ”を警戒し、そんな異物から裕美を守ってやると言わんばかりに、キャンキャン鳴きながら“威張っている”。そんな二匹の様子を、裕美と猫のタマは、“のんびり”と眺めていた。まさに、“ペットは飼い主に似る”を、“絵に描いたような構図”である。
「“バーテン”は、バーにいる人の事だから、喫茶店の店員とは違うんじゃない?」
…ゴリゴリゴリゴリ…バキッ。ゴリゴリゴリゴリ…バキッ。
裕美のユルい“ツッコミ”を、コーヒーミルの“騒音”がかき消す。明は、裕美に“人生で初めて挽いた、コーヒーのガラガラから出たコーヒー”を淹れてあげるプロジェクトに“夢中”で、まるで聞いちゃいなかった。そんな事すら、裕美はもう、どうでも良かった。ただ、夫が“飲めもしなければ、興味もない”であろうコーヒーを、“妻の為だけ”に、懸命に挽いてくれる“間の抜けた様子”が、“可愛らしくて仕方なかった”のだ。
「…どう?」
“人生で初めて淹れた夫のコーヒー”に、口をつけた裕美は、またまた“予想通りの風味”に、口元に微笑を浮かべる。単刀直入に言えば、コーヒーを淹れ慣れている裕美が淹れた方がずっと、味“は”美味しいに違いないだろう。元来、“びっくりする程ぶきっちょ”な明が挽いたコーヒーが、美味しいはずもない。“荒削り”で、“不器用”に挽かれたコーヒー豆は、せっかくの風味を“台無し”にしている。
「…やっぱり、まずい…?」
心配そうな明に答えず、裕美はゆったりと、もう一口コーヒーを口に含む。
(…うん、やっぱり。私が淹れた方が、味“は”美味しいかも。)
そう思いつつも、裕美は、明が淹れたコーヒーを“残さず”飲み干した。そして、“満面の笑み”を浮かべて、明に微笑む。
「美味しいよ。ありがとう。」
明の歓声を聞き流しながら、齧ったカカオ75%の苦い“はず”のチョコレートも、先程の明の“ブラック”コーヒーのように、裕美の舌は、不思議と“甘ったるく”錯覚する。
“聡明な”裕美には、“またしても”、ちゃんと理解出来ていた。明が淹れてくれるコーヒーにも、一緒に食べるチョコレートにも。いつだって、それらには、“真心”という名の“糖分”が含まれている。その味は、“心地好く”舌の上でとろけて、“甘く”裕美の心を“刺激”する。けれども、“あまのじゃく”で“現実主義者”の裕美は、いつもこう思うのだ。
(ダメダメ。明が“甘ったるくて理想主義者”な分、私が“しっかり”しないと。)
本日も裕美は、敢えて“澄ました顔”で、その“愛の糖分”を味わっている。最も、口元が“緩んでいる”事に、“気付かない振り”をしながらではあるが。
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