第一章 始まりの箱は甘い
case・一 チョコレートは甘いだけじゃない(其の一)
其の一【難しく考えるなと
「分析するのは構わない。でも、それで私を理解したと思わないで」
「うん。ひとつ理解した。君は気難しい」
──はあ。会話が途切れたその部屋に、女性のため息が響いた。
そこは真っ白な空間で、六畳ほどの広さがある。入口から向かって左には、太陽光が僅かに入るくらいの円形の飾り窓、部屋の中央には畳一枚弱のテーブル、椅子は人数分用意するようになっている。
テーブルに向かい合って座る男女二名、入口近くに一名。室内の様子は、記録するためにあらゆる角度から設置されたカメラでモニタリングされており、後ほど様々な検証のために使用する事になっている。
たった今、この部屋を利用しているのは、
飲酒禁止区域の地下商店街でアルコール入りのチョコレートドリンクを飲んでいたところ、ふらついて通行人と接触。通行人からの暴言に対して突然発狂し、通報──と書類に記載されてある。警察からの連絡で彼女を引き取りに行った者から、『ウチの管轄ではない』という簡素な報告書が上がっていたようだ。
今回、彼女を担当するのは、職歴十三年の
「警察じゃないんでしょ、あんたたち。私の話を聞いてどうするの。アルコールでちょっとヒステリックになっただけでしょ。確かに迷惑をかけたかもしれないけど、あんたたちには関係ないはず」
「そう。指摘通り、僕らは警察じゃないよ。でも僕ら、いや少なくとも僕は……飛来田さんの話がききたい」
二人から少し離れた席にいた都留島が、飛来田の目を見つめる。都留島は時々、仁喜多津の指示を待たずに一方的に話す事がある。そんな彼を仁喜多津は苛つきながらも止める事をしない。とりあえず好きなように喋らせておけば、彼は無駄に暴走しないのだと経験で学んでいるからだ。
「そういう目、知ってる。昔、どこかで。どこだったか……」
飛来田は、都留島から目をそらさない。都留島は、少しばかり動揺していた。自分たちから目をそらさない人に会った事がなかったからだ。
「ああ、そっか。その目、医者、ううん違うなカウンセラー……。あの人みたいな、ね」
飛来田は、俯いて呼吸を整えた。「あの人と似てるなんて……」と呟き、顔を上げ仁喜多津と都留島を交互に見た。
「私の経歴、本当は知ってるんでしょ。私から話を聞いてどうするつもりなの。私はもう、大丈夫なんだから」
「何に心当たりがあるんだろう。大丈夫って、なんの事?」と、飛来田の言葉にかぶせるように都留島が訊ねる。
飛来田は、唇を噛み締めた。
「難しく考えるな、飛来田さん。責めるように話を進めるのは、都留島の悪い癖だな」
仁喜多津が宥めるような優しい口調で言った。後半、都留島に向けては冷たく言い放ったが。
「ここに呼ばれたのは、君を叱責する為じゃない。君が通行人からの暴言に、なぜ過剰反応したのか。報告書と経歴書には書いていない、君の話をきちんと聞きたいし、君を理解したい」
其の二【悪いのは私だと彼女は自分を責める】
「あなたたちは警察じゃないって言ったよね。なるほどね。経歴書に出ていない事があるようだから、警察じゃないんでしょうね」
飛来田は深呼吸した後、天井を仰いだ。
「白い天井は、安心する。特にシミ一つないここみたいなところ」
「……同感だ」
飛来田の呟きに、仁喜多津が低い声で応えた。飛来田は、ゆっくり俯いた。
「まず、過剰反応した事について話すよ。酔ってたからじゃないって話はね、多分。あなた……その名札、なんて読むの?」
「にぎたづ。
「借りてるっていうことは、偽名なの?」
「偽名じゃない。ああでも、そうだな、本当の名前は使わなくなったから、偽名というのは間違いじゃないな」
「じゃあ、そっちのあなたも偽名なの? ツルシマさん?」
「ツルは本名だ」
「へえ。仁喜多津さん、あなた、ワケアリ仲間なのね」
「そうなるんだろうな」
「名前の事情はまたいつか話すとして。話を戻すね。酔ってなかったわよ、あの時。パニックになっただけ。それとチョコレート過剰摂取だったかもしれない」
飛来田は、「誤算だったのよ」と言い、失笑した。
「ああなるのは、私が悪いのよ。私が逃げてばかりだから駄目なんだぁ……」
其の三【乗り越えられないなら捨てる選択もある】
飛来田は、コンビニで購入していたチョコレートドリンクに微量のラム酒が混ざっているのに気付かなかったのだと言う。それを飲みながら、カカオ成分が高めのチョコレートも食べていたらしい。
「無意識だから、後になって気付くのよ。チョコレートばかり欲しがるのは、精神的に駄目な時だった、って。酔い易くなるし、ヒステリックになるし、大人しくしてなきゃならないのに、その時はわかってないもんだから」
まさか通報されるなんてね、と苦笑いする飛来田の目が少し潤んでいるのを、仁喜多津は見逃さなかった。
「なにかしらのトリガーはあるんじゃないのか。精神的に駄目になるきっかけ、それはわかってないのか?」
「ニキさん、ストレートに聞きますね」
「何か、気付いてる事があるなら問題ないだろ?」
二人のやりとりに、飛来田は苦笑いを浮かべる。
「向き合うつもりだったのに、半端に逃げ出したせいだよね。というか、まだまだ駄目なのかな」
「何があったかわからないが、乗り越えらないなら捨ててもいいと思う。個人的な意見だが」
仁喜多津は、そう言った後に「なるほど、だからこっちに回されたのか」と呟いた。
「何をするにも覚悟は必要だが。背負い込んだものを捨てたいと思うか? 飛来田さんが駄目にならないための、選択の一つとして、捨てられるものならそうしたいと思うか?」
仁喜多津は、姿勢を正し、飛来田をしっかりと向き合ってそう言った。
記憶の箱と壊れた記録 香坂 壱霧 @kohsaka_ichimu
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