単身赴任なんてしなきゃよかった。

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残香


 冬も深まる師走の昼下がり。

 長期単身赴任をしている俺は、約二か月ぶりに我が家へと帰ってくることができた。



「あら磯崎さん、なんだかお久しぶりですね」

「こんにちは……いやぁ、この土日だけですがなんとか帰ってこれました」

「単身赴任だったっけ? 大変ねぇ」

「あはは。でもようやく家族にも会えるので、疲れも吹き飛びますよ」


 マンションの入り口で煙草を吸っていた知り合いの奥さんに会釈を返し、挨拶もそこそこにエレベーターへと乗り込む。

 ボタンを押して壁に寄り掛かると、視界の端に姿鏡が目に入った。そこには草臥くたびれたスーツ姿の男が映っており、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。



「う~ん。こんな姿でユウと再会したら、『パパ臭い〜』って避けられちまうかもな……」


 残業上がりでそのまま夜行バスに乗ってやってきたために服も髪もヨレヨレで、ちょっと汗臭い。

 ユウは良くも悪くも言うことがストレートだからなぁ。はてさて、なんと言われるか。


 そんな事を考えながら歩いているうちに、部屋の前まで辿り着いた。

 鍵を鞄から取り出し、鍵穴に差し込んで回そうとする。……が、そこである異変に気が付いた。



「ん?……おいおい、玄関の鍵が開いてるじゃんか。さてはまた戸締りを忘れたな?」


 おそらくは俺が帰るという連絡を見て、ママが慌てて飯の材料を買いに行ったんだろう。


 ママは仕事はできるくせに、家では途端にズボラな人間になってしまうからなぁ。早くママとしての自覚を持って欲しいのだが……。


『家に着いたんだけど、もしかして今どこかに出かけてる? あと玄関、カギが開けっぱなしだったよ』


 行先の確認がてら、メールでママに戸締りの件を注意すると、すぐに返事が送られてきた。


『ごめんなさい、うっかりしてたみたい。用事が済んだらすぐに帰れると思うから、家でユウちゃんと一緒に休んでて』


 うん? ユウは買い物に連れて行かなかったのか。


 家の中に視線を移すが、電気は一切ついておらず、シンと静まり返っている。

 普段なら俺が帰ってきたと分かれば、ユウが一目散に飛んでくるんだけど。土曜日だし、まだ寝ているのかな。


 さすがに起こしてしまうのは可哀想なので、足音を立てないように忍び足でリビングへ向かうことにする。



「うっ、煙草くせぇ。俺がいない間にまた煙草の量が増えたな……」


 テーブルに置かれたガラス製の灰皿が、吸い終わった煙草で溢れかえっている。

 壁にヤニの匂いが染み付いてしまっていて、部屋中が臭い。煙草の匂いを誤魔化そうと思ったのか、部屋には何かの香水の匂いも混ざっていた。


 俺自身も喫煙者だからヤニの匂いには慣れているけど、こんな空間に居続けたら頭痛がしてしまいそうだ。



 換気のためにベランダへ続く窓をガラガラと開けると、外の冷たい空気が部屋に流れ込んできた。



「まったく、これじゃユウの健康に悪いだろうが……」


 せめてベランダで吸えばいいのに。さては寒いからって横着したな?


 部屋の空気がいくらか新鮮になったところで、灰皿をもう一度見てみる。すると、ママが普段吸っていた銘柄とは別の煙草が混ざっていることに気が付いた。



「ママが二種類の煙草を吸うとも思えないし……まさかとは思うが、俺が居ない間に男を家に上げていたんじゃないだろうな」


 実は買い物も真っ赤な嘘で、本当はユウを放置して男のところへ会いに行っていたんじゃ……。



「あぁもう、余計にユウの様子が心配になってきたぞ……念の為に一度、寝顔を見ておくか」


 嫌な予感を覚えつつ、廊下に出て、三人で使っている寝室へと向かう。

 万が一寝ていたら悪いので、できるだけ音をたてないようにゆっくりとドアノブを回してみる――が、なぜかドアが開かない。



「鍵? なんでだ?」


 このドアには元々、ロック機能なんてなかったはずだ。俺がいない間にママが取り付けたんだろうか?


 ともかく内側から鍵がかかっているのなら、ユウがこの中にいるのは間違いないだろう。申し訳ないが、ここは起こしてでも開けてもらうか。



「ユウ? そこにいるのか?」


 声をかけてみるものの、なにも反応がない。俺はもう一度ノックをして呼びかけることにした。



「おーい、パパだよ~。お仕事から帰ってきたから、このドアを開けてくれるかな?」


 ……おかしい。いくらなんでも無言なのは不自然だろ。

 不安になり、ドアを蹴破ろうと一歩下がった、その瞬間。部屋の中からガサゴソと何かが動く音が聞こえてきた。



「……パパ?」

「ユウ! 良かった、そこにいるんだな!?」

「うん。おかえりなさい、パパ」

「あぁ、ただいま。ユウ」


 ドア越しにユウの声が聞こえ、安堵の息をつく。なんだ、俺の杞憂だったか。



「ところで、このドアに鍵がかかっているみたいなんだ。パパの方からじゃ開けられないから、ユウが開けてくれないかな?」


 ああ、これでようやくユウに会える。そう思ったのだが、ユウから返ってきたのは予想外な言葉だった。



「ユウ、パパとは会えない……」

「え?」


 会えない? 会えないってそれはどういうことだ!?



「えっと……どうかしたのか? パパ、ユウに会うために飛んで帰ってきたんだけど……」


 俺の言葉にしばらく沈黙が続く。

 そして再び、部屋の中がガサガサと物を動かすような音で満ちた。


 一体何をしているんだろうか。

 不思議に思っていると、今度は何かが擦れるような小さな音が耳に届く。



「あのね、パパ。ユウは悪い子だから、ここで反省していないとなの」

「――なんだって?」

「ユウは虐められているの。でもそれはユウが悪い子だから、仕方のないことなんだって。だからここで反省して、良い子になるの」


 今、ユウはなんて言ったんだ?

 俺の大事なユウが虐めを受けているだって? あんなに良い子がまさか、そんな虐めだなんて。



「それはいったい、誰から言われたんだ? お前のお友達か?」

「……言えない」


 涙交じりの、弱々しい声をどうにか絞り出すようにしてユウは言う。

 どうやら相当酷いことをされているようだ。だから部屋に閉じ籠ってしまったのか。


 しかし、俺としては黙っているわけにはいかない。

 だってそうだろ? ユウが辛い思いをしているというのに、親として何もしないでいられようか。だが行動に移すにしても、まずはいじめっ子の情報が欲しい。



「なぁ、ユウ。お前がその子に、いったいどんなことをされたのかを教えてくれるか?」


 すると、また少し間があった。やはり言いづらいのかもしれない。


 無理もない。自分がされた虐めの内容なんて、口にしたくもないだろう。けれど辛抱強く待っていると、やがてポツリポツリと呟き始めた。



「あのね。ユウがお外に出れないように靴を隠したり…………頭を叩かれたり」

「―――ッ!!」


 彼女が受けた痛みを想像するだけで、はらわたが煮えくり返りそうだ。怒りと悔しさが込み上げてきて、拳を握りしめてしまう。


 ふざけた真似をしやがって、どいつの仕業なんだ。今すぐソイツの元に行って、どうしてそんなことをするのか直接問いただしてやりたい気分だ。



 ……だがここで感情に任せてはダメだ。まずは相手を特定するには情報が足りない。


 しかしママは同じ家に住んでおいて、いったい何をしていたんだ?

 ユウがこんなことになっているなら、真っ先に相談してくれそうなものなのに。


 今すぐにでも電話して、文句の一つくらい言ってやりたかったが、今はママのことを考えてる場合じゃない。


 俺はユウの話を最後まで聞くことにした。虐めてきた人物はまだ特定できていないが、おそらくユウがされてきた事はこれだけではないだろう。



 ――ユウの悲痛な声で語られたのは、まるで地獄の日々だった。

 階段から突き落とされたり、鞄の中にゴミを詰められたりと、それはもう酷い仕打ちだ。


 幸いにも大きな怪我はしなかったらしいが、それでも心に負った傷は深いだろう。その話を聞いただけでも、相手のことが憎くて仕方がない。


 けど、このまま放置しておくのはダメだ。何とかしてあげないと。


 でもどうやって? どうすればいい? 俺一人の力では限界があるし、警察に相談してもすぐに解決してくれるとは思えない。



「仕方ないよ……ユウが大事なものを奪ったから、ユウはそのつぐないをしなきゃいけないんだって」

「大事な物……」


 大事なものを盗んだから虐めを……? 人形でも取り合って喧嘩をしてしまったのだろうか。



「それなら、その大事なものをその子に返そう? 謝ればきっと、虐めもなくなるから……」

「でもおかあさんがそれじゃ許されないって」

「ママが……?」


 俺の声に怒りが混じる。

 どうしてママがそんなことを言い出すんだ。ユウが謝ろうとしているんだったら、仮にも親なら応援してやれよ。


 ああ、やはり単身赴任なんてするんじゃなかった。今更後悔したところで遅いが、とにかく早急に手を打たなければ。


 しかし、どうしたものか。

 ママが余計な手出しをしたせいで、ユウとその子の関係はだいぶこじれてしまっているように思える。これは下手に俺が動くと、より事態が悪化する可能性がある。


 いや、何よりも優先するべきなのはユウの心のケアだ。この様子だと、かなりつらい思いをしてきたに違いない。


 ならば、まずは抱き寄せて安心させてやらねば。鍵やドアなんて、後から直せばいい。俺は出費を覚悟でドアを蹴破ることにした。



「ユウ、もしドアのそばにいるなら、少し離れていなさい」

「パパ? 何をするつもりなの?」


 声の感じからして、ドアの近くには居ないようだ。

 ――よし。ひと呼吸して心を落ち着けると、俺は勢いよく扉に体当たりをした。




「ユウ……」


 そこにはグシャグシャに散らかった寝具と、部屋の隅にうずくまっているユウがいた。髪はボサボサで服も汚れているが、思っていたよりも元気そうだ。


 ユウは突然現れたパパに驚いているのか、目を丸くしている。そりゃそうだ。今の俺の顔は相当酷いものだろうから。



「パパ?」

「ごめんな、ユウ。お前が辛いときに傍にいてやれなくて……」


 謝りながら優しく抱きしめてやると、ユウはぶるぶると震えていた。可哀想に。これまで一人で悩んで、苦しんでいたのだろう。


 だが今は俺がいる。絶対に守ってみせるから、もう大丈夫だからな。ユウの背中をさすりながら、頭も撫でてやる。すると彼女はせきを切ったように泣き出してしまった。



 しばらく泣いていたユウが落ち着いてきたところで、俺は状況の確認をする。


 ユウは何日もお風呂に入っていないのか、俺以上に臭かった。さらには寝室にもリビングと同じ香水がかれており、不快さが増す。



「ママは何をやっているんだ!?」


 ユウの身体をくまなく観察してみると、腕に火傷のようなあとがあることに気が付いた。いったい誰がコレを?


 ――待てよ。もしかすると俺は、最初から勘違いをしていたのかもしれないぞ……!?



「なぁ、ユウ。もしかしてユウを虐めていたのって、お友達じゃないのか?」


 ユウは俺の顔を見ると、ふるふると首を横に振った。


 ――やはり。外に出れないように靴を隠されたのは学校での出来事ではなく、この家で起きたことだったのだ。そしてユウを殴ったのもお友達じゃない。母親だったのだ……。


 いや、おかしいな。そうなるとお友達の大事な物って何だったんだ……?

 予想はどれも辻褄が合わず、俺の頭は混乱を極めていく。



 ――ピロン♪



「メール? ママからだ……『もうすぐ会えるよ』だって?」


 メールの着信音に反応したユウが俺をジッと見てきた。どうやらママが帰ってきたことで、また暴力を振るわれると思っているようだ。


 しかし、ここでママを止めないと、もっと大変なことになりかねない。最悪の場合、離婚して彼女をこの家から追い出すことも考えないといけないだろうな……。



「大丈夫だよ。ママが帰ってきたら、パパがユウを虐めないように説得するから」


 そう言って安心させようと笑顔を見せたのだが、ユウは不思議そうな表情を浮かべた。



「おかあさん?」

「そうだよ。ママと会うのは怖いかもしれないけれど、パパと一緒にお話をしてみよう」

「パパはどうしておかあさんを待っているの? おかあさんはずっとお家の中に居たよ?」

「――――え?」


 どういうことだ? ママからのメールには、外出していると書いてあったぞ?


 だがユウは冗談を言っているようには見えない。そして彼女は右手を上げると、部屋のクローゼットを指差してこう言った。



「おかあさんは男の人と隠れんぼしてるから、邪魔しちゃダメだよ」


 嫌な予感が脳裏をよぎる。だがその予感は絶対に当たってほしくない。


 だが確かめないわけにもいかない。ユウの隣をフラフラと通り過ぎ、震える手でクローゼットを開ける。



「…………母さんママ


 中身を見てしまった俺は、その場でヘナヘナと崩れ落ちた。


「パパのお義母さんが連れてきた男がね、ユウに乱暴したの。なのに貴方のお義母さんは私が悪いって怒って、殴って。死んじゃえって……だからユウ……仕返ししたの」

「ユウ……」


 ユウは母さんのスマホと血塗られた包丁を持ちながら、俺の頭を抱いた。



「えへへ。ようやくパパと二人っきりになれたね。パパのお義母さんとクソ男のせいで私、汚れちゃったけど……ふふっ、これでずっと夫婦水入らずだよ」


 俺の大切なユウはそう言うと、いつまでもケラケラと笑っていた。


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