迷子の風船

月見 夕

高度一万メートルの墓場

 呆気なかった。

 操縦桿を握る男の口から、今しがた引き金を引いたばかりの拳銃を抜いた。


 あまりに情けなく命乞いするので塞いでやったのだ。銃口を咥え、男は最期に何か言っていた。が、私にはそれを聞いてやる道義などない。

 照星フロントサイトが前歯にカチカチと当たっているのがうるさかった。男は震えているらしかった。

 引き金を引き絞る瞬間、私の無機質な表情がその瞳に映っていて、それは存外に何の感情も浮いていなくて、お陰で私は躊躇いなく人差し指に力を込める事ができた。


 碌でもない父親だった。

 家族を捨て、国を謀り、世界を敵に回した。

 私は安全な世界を、あったはずの未来を、そして大切な人を永劫に失った。

 全てこの男のせいで無に帰したのだから、娘の私が引導を渡してやろうと思った。その後のことなんてどうでも良かった。

 高度一万メートルを航行する飛行船の中で、操舵を司る者はもういない。

 糸の切れた迷子の風船は、どこへ行くのだろうか。


 涎と粘ついた返り血に塗れた銃口を見て、適当に床に放る。始めはこの男を殺して自分も同じように死のうと思っていた。が、どうせそのうちこの船諸共墜落して死ぬのだろうから、それもどうでも良くなった。

 長い黒髪とセーラー服は生臭い血飛沫で汚れていた。この一滴一滴に含まれるDNAの半分が私にも流れていると思うと反吐が出そうだ。


 ふと、父親だった死骸を見遣る。シャツの胸ポケットから何かがはみ出ていた。

 何だろう。放っておいても良かった。どうせ私もこの後死ぬのだ。

 しかしどうせ死ぬからこそ、見てやろうという思いも湧いた。男を悼むのではなかった。ただ死してなおその心を蹂躙する何かを探していた。

 血脂でぬるぬるした指をスカートで拭い、ポケットからそれを抜き取った。

 それは残った体温でまだ温かった。

「――」

 それは古い写真だった。風船を抱えた黒髪の少女が、無邪気に微笑んでいる。その片笑窪には見覚えがあって、私は無意識に左頬を撫でた。

 どうして、今更この男は、こんな物を。

 何度も取り出しては眺めていたのか、写真の角は擦り切れて丸くなり、縁は手垢で飴色になっていた。

 写真を持つ、その指先に通う血が温度を失うような気がした。

 なぜ私は、それ以上知るのを恐ろしいと思っているのだろう。

 恐る恐る返した裏面には、たった一文だけ書かれていた。


『世界で一番愛した娘』


 遥か彼方の上空で迷子になった私の慟哭は、深く青い大気に吸い込まれていった。

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迷子の風船 月見 夕 @tsukimi0518

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