届く、声

 リノリウムの床が十六夜の光を冷たく反射する。夜の病院はいつも暗く、そして静寂に支配されている。それは生と死が常に背中合わせにある所為だ。

 全身を支配するどうしようもないほどの疲労感を無理矢理に押え込み、私は、彼女の横たわるベットの脇に腰を下ろす。

 執刀医としてメスを握った十二時間に渡る手術が終ったのは、ほんの三十分前の事だ。本来ならシャワーでも浴びた後ぐっすりと眠ってしまいたいところだが、今日だけはそうする訳には、絶対にいかない。いつ彼女が目覚めるか分からないのだから。

 罹病者がまるで凍り付いてしまったかのように眠り続ける奇病、コーマが世界中に広まったのは、今から何年前の事になるだろうか。随分と昔の事のように思える。

 彼女は十八の時この奇病に倒れ、私は治療法を求めて医者になった。

 無為に繰り返す日々に目的を見失い、諦観に沈みそうになった事は数度ではなく、それを押し殺したのも数え切れない。それでも止まる事なく、たとえ同じ場所を回り続けるのだとしても進み続けられたのは、ただ彼女を目覚めさせたいと言う想いがあったからに他ならない。

 昨年、アメリカにおいて治療法が見つかったとの報告があった時、私は真っ先に渡米を希望した。私以外にも何人もの医師が渡米し、私達は一年をかけて術式を習得し帰国した。

 そして、日本における最初の被験者として彼女が選ばれたのは、手術自体の難度の高さと、彼女が日本における最初の被害者である事、私が執刀医になった事、その事による話題性の高さと無関係ではないのだろう。

 日本中の注目を集める中、そんな事など私には何の関係もなかった。自らの手で彼女を助けられる、その事に感謝しながら出来る事をやり遂げた。それだけだ。

 だから。

 今私は、彼女の横で、彼女が目覚めるのを待っている。

 本来ならば何人もの立ち会いがいるはずなのだが、特例として私一人が病室にいる。

 彼女が目覚めるまでの間、静かに待っていたいと思った私の我侭だ。

 静寂の中で私は考える。彼女に告げる最初の言葉を。

 目覚めた彼女にとって、タイムスリップしたようなものだ。戸惑うに違いない。

 考えながらも、もう私の中で最初の言葉は決まっていた。

 それは、彼女を目覚めさせると決めた時決まっていた言葉なのだから。

 彼女が身じろぎした。私は深呼吸し、彼女の瞳が開くのを待つ。

 そして、ずっと届く事のなかった言葉を届けるのだ。

「おかえり」と。

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月光に紐付く物語 此木晶(しょう) @syou2022

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