第12話
「やぁ、こんにちは。相模少尉、調子はどうだい?」
MUF横須賀基地、居住エリア近くにある医療区画、その一室だ。
「はい、まぁ…、まぁまぁです」
医師からの
病院といえば、白い壁や飾り気のない無機的な空間を思い浮かべるが、ここはそれとはかけ離れている。ところどころに暖色が使われ、全体的に明るい雰囲気の、どこか陽気な空間だ。
「昨日は三〇分くらい、簡単に話しただけだったからね。今日は、もうちょっと相模少尉のことを教えてほしいな」
三〇代半ばの男性医師で、四角いフレームの眼鏡越しの目は、僕のことを歓迎していた。
「改めまして、
「はい、よろしくお願いします」
綾瀬先生が椅子を勧める。簡素な丸椅子ではなく、リクライニングチェアだった。
「何か飲むかい?コーヒーならすぐに淹れられるが」
「え?いや…」
「遠慮することはない。付き合ってくれると嬉しいかな」
「はぁ、じゃあ、お願いします…」
先生がいきなりミルでコーヒー豆を挽き出した。唐突すぎる。コーヒーの香りが鼻孔に届く。リラックス効果でも狙っているのだろうか。
だが、ドリッパーにフィルターをセットして、挽いた粉末状のコーヒー豆を入れるまではよかったが、電気ケトルで沸騰したばかりのお湯をいきなり注ぎ出した。多分焦げたような風味や苦みが強くなるだろう。蒸らしも入れていない。途中まで拘りが見えていたのに、どうやら挽いた豆の香りまでが最高潮だったようだ。実に残念だ。
「少尉、砂糖とミルクは?」
「いえ、不要です」
「おぉ、わかってるじゃないか」
何やら嬉しそうに言うが、先生、拘りが
「さぁ、相模少尉」
先生がコーヒーを差し出した。案の定、苦みが染み出しているような香りだ。コーヒーが苦手な人だったら余計に嫌いになりそうだが、コーヒーを愛飲している僕的には飲めなくはないだろう。
それから、先生からいろいろ質問された。
というよりも、世間話という方が正しいかもしれない。
生まれた場所、小学生の時の話、父親との思い出、親戚の家に厄介になっていた頃の話、なぜMUFに入ろうと思ったのか、家で自炊はしているのか、などなど――。
「ふむ、同年代の女の子と同棲とは…。少尉が羨ましい限りだ」
「いや、まぁ、フィオナとの生活はなかなかなんというか……」
途中、そんな苦笑いが出る会話も混じったわけだが。
入室から一時間は経っただろうか。時折先生が更問を入れながら、僕が語る生い立ちに頷いていく。話題を切り替える以外は相槌のみで、先生は聞き役に徹していた。
「ありがとう。おっと、もうこんなに時間が過ぎていたとはね。コーヒーのおかわりは?」
「ん…、いえ、充分です。ありがとうございます」
空になった僕のカップを見て先生が言うが、丁重にお断りした。
「そうかい?じゃあ、疲れただろうし、今日はここまでにしようか。次回は明後日にしようか。スケジューラーに入れておいたので、忘れないように」
そう言われ、僕はリクライニングチェアから立ち上がる。
「ありがとうございました」
礼は言うものの、この話がどう治療に繋がるのかがよくわからない。そういう問診なのだろうか。
「また話せるのを楽しみにしているよ」
笑顔で見送られながら、僕は退室した。
《さて、相模少尉の様子はどうかな?復帰はできる?》
ふう、と大きく息を吐きだして、綾瀬が残りの冷めたコーヒーで一息入れようと思った矢先のことだった。
呼び出し音に応じたところ、基地司令官である
「それこそ、これからの問診次第ですよ」
医師としての見解として、『まだわからない』と答えた。
「少なくとも、話した感じは解離性健忘の傾向はない。人事資料との矛盾もなく、相模少尉の話は概ね一貫性がある」
《それはわかっている。PTSDかなにかだろう?いや待て。概ね、というのは?》
「細かいところを気にしますね。一般的な範疇で、という意味です。誰だって大なり小なり記憶があやふやなことがあるでしょう?つまり正常ということです」
細かいところを気にする高遠に、綾瀬はため息を挟んで続ける。
「あと、
《だが、概ね日常生活に支障はないのだろう?本当に異常なのか?》
「日常生活を普通に送れている患者は世にたくさんいますよ。相模少尉の場合、敵兵を殺した結果を見てしまったことで、それを彷彿とさせることが
《で、ASDの治療方針は?》
「ですから、まだ確定ではありません。司令は機械の修理の経験は?」
《いきなりだね。僕は元技術屋だ。経験はそれなりにある》
「ならば、故障個所を特定する『切り分け』と同じと考えてください。診断には症状の観察を経て原因候補の洗い出し、症状の再現性、鑑別診断などといった確認をする必要があります。そこを誤れば、適切な治療ができなくなってしまいますよ」
《なら急いでくれ。彼には再び戦場に立ってもらう必要がある。治療にはどれだけかかる?》
「ASDならばひと月程度……まぁ、一般論ですが。ですが、長引くことも可能性としてはあります。そうなればPTSDと呼ぶべきですが」
《遅すぎる。なんとかしろ》
「無茶を言わないでください。治療には、その症状が正常であると思わせる心理教育や、トラウマに向き合う認知行動療法、トリガーに段階的に触れて反応を弱める暴露療法など、長い時間が必要です。しかも精神疾患はいつ再発するかわからないんです。慎重に治療と経過観察を――」
《時間がないと言っている。次点を試しはするものの、本命を諦めるつもりはない。だから、相模龍斗を〈アルフェラッツ〉に乗せる必要がある。薬物投与は?》
「薬物と言っても、使用するのは抗不安薬や睡眠薬の類ですよ。飲めばすぐに症状が改善する話でもありません」
《確か、今研究中の催眠暗示プログラムがあったはずだ。ベンゾジアゼピン系の投与と組み合わせれば、症状の改善が見込まれないか》
「……まだ臨床中のものです。今の相模少尉には――」
《司令官命令だ》
「……わたしは軍人ではなく、軍属です」
《僕に命令権はないと?だが君とは雇用関係にあり、業務指示を下せる契約になっているはずだ》
「……っ」
綾瀬の奥歯に力が籠められる。
あまりに非人道的な行いだ。人として、医師として、一八歳の龍斗にそんなことはしたくない。
《見方を変えなよ、先生》
考えを見透かしているかのように、ふっと高遠の表情と声音が和らぐ。
《彼の献身が、奮戦が、オーストラリア奪還のキーになるんだ。誇張じゃない。いうなれば、君の決断が、単にオーストラリアの民間人三五〇〇万人の解放だけでなく、この長期に
鼓舞――とは綾瀬は受け取れない。ただの正当化だ。まるで、このままでは世界が滅ぶから一人の青年を犠牲にする、トロッコ問題のスイッチャーだ。
《じゃあ、頼んだよ》
綾瀬の返事など聞かず、高遠は通話を終了した。
君が手にする魔法の剣 神在月ユウ @Atlas36
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