海月の君
『そうか。君は本当に
「………くん」
曖昧な音が聞こえた。
「はあ、あい………ずねぼ………んだね」
「おーい。早く起きろ」
その音が、意味を持つ音になった。
誰かの呼び掛けに目を覚ました僕は、うっすらと目を開ける。
「まったく。やっと起きたか」
どうやら、声の主は僕が起きるのを待っていたらしい。僕に何か用があるのだろうか。
大きな海月。
「んん、海月……?」
「海月が喋るか」
そう突っ込まれた僕は、
小さな少女。
ミズクラゲの傘のような、前衛的なデザインのドレスに身を包み、まるで水の中にいるかのように空中を漂う少女が、呆れた表情を浮かべて僕を見ていた。
「えっ、誰?」
僕は当然の質問を繰り出した。けれど、その質問は華麗に無視されることとなった。そして、回答の代わりに、少女の口から飛び出したのは、こんな言葉だった。
「おめでとう。君は選ばれし者だ」
「はい?」
脈絡のない祝福に、僕は首を傾げる。
選ばれし者?
僕が?
いったい何に?
寝起きの頭には
「あはは! なんてね」
それっぽかっただろ?
そう言って、かぷかぷと笑う少女。
僕の思考はまだ追いつかない。
「さて、先程の質問に答えようか。私は、海月の神だ」
「海月の……神……?」
そう、神様だ。
と、僕の目の前で浮かぶ少女は、にこやかに表情を崩す。
だめだ。全然意味がわからない。
僕はまだ夢をみているのだろうか。
「だから、残念で悲しい死を遂げた君の運命を
「――――!」
その言葉で、僕はやっと理解が追いついた。
そうか。僕は死んだのか。
ああ、そうだった。
そっか。
そっか。
となると、ここは死後の世界ということなのだろうか。
少女から視線を外して周囲を見渡すと、そこはなんとも不思議な空間だった。薄暗い、けれど、そこにいる少女ははっきりと視える。まるで、水族館の大きな水槽の中にいるような。そんな空間。
ふいと、上を見上げると、そこには月があった。大きな月が、遠近感が狂ってしまうほどに大きな月が、さながら海に浮かぶ海月のように、ぽつねんと浮かんでいた。その月から伸びる柔らかな光の束が、ちらちらと揺らめきながら、足元まで降りてきている。それは、なんとも幻想的で、ここが俗世ではなく浄土であるという雰囲気が、丁度いい具合に演出されていた。
「海月の神様なんて初めて聞きました」
僕は周囲の景色に目を奪われながら、独り言のように、そう呟いた。
おやおや、と。
海月の少女は、かぷかぷと笑う。
「今まさに君の願いを叶えてあげようとしているのに。まったく、君はとんだ恩知らずだねえ」
「僕の願い……?」
「そう。君が願ったんだ」
「海月の神様に?」
「そう。海月の神様に」
少女は
その問答を受けて、僕は記憶を巡らせる。が、思い当たる節がどこにも見当たらない。
そうして、僕が頭に疑問符を浮かべていると、少女は、はあと深いため息を
「はあ、しょうがないやつだな。まあいいや。兎に角、海月の神様はいるよ」
ほら、現に君の目の前にね。
そう言って、彼女は、ぱちりと左目を閉じる。泣き
「案外、なんの神様だっているんだよ。海月だったり、
そう言われて、僕は頭の片隅から、適当な言葉を引っ張りだす。
「『
「そう、それそれ。まあ『なんの神様だっている』って言うと、ちょっと違うんだけどね。なんというか、ニュアンスが違う。正確には――『なんでも神様に成る』という感じかな」
「神様に成る?」
「そう。『神様
うーん。
よくわからないが、なにやら難しいことを言っていることは確かだ。
「裏を返せば、信仰されないと神様には成れないし、信仰され続けないと神様ではいられないってことだ」
要するに、と。
少女は言う。
「神様がいるから人が信じるんじゃあない。人が信じるから神様がいるんだよ」
「ということは……貴女は信仰されている――ということですか?」
ようやく追いついた理解で、僕がそう聞き返すと、少女は得意気な表情を浮かべて答えた。
「そういうこと。私は現在進行形で信仰を集めているのさ」
ふふん、と。
胸を張る海月の少女。
どうやら、立派に、立派な神様らしい。
「まあ、信仰してる人は少ないんだけどね。神社も一時期しかなかったし」
「えっ、神社があったんですか?」
「そうだよ。君も知っているはずだ」
「…………?」
そう言われて、記憶をもう一度探ってみるがやっぱり見つからない。
「うーん。思い出せないです」
「あはは、まあ、そう気に病むな。それよりも、それがどこにあったか、教えて欲しい?」
と、海月の少女は、にやにやと頬を緩めながら僕に問うてきた。
「えっ……じゃあ、教えてください」
「やっぱり、気になる?」
「はい、気になります」
「どのくらい? 夜も眠れないぐらい?」
「はい、もやもやして夜も眠れないかもしれないです」
「そうかそうか。でも、どうしよっかな〜」
口の端を意地悪く吊り上げながら、僕の周りをゆっくりと
やや、腹立つ。
「やけに勿体ぶりますね。そんなに凄い場所にあったんですか?」
「いやあ、それはもう凄いね。うん。凄く凄いよ」
「…………」
凄く凄い。
神様とは思えない語彙だった。
「聞きたい?」
少女は、もう一度問う。
僕は、神妙に頷いた。
「お願いします」
「よかろう」
聞いて踊るなよ。
少女は
「……江ノ島水族館の特別展示だ」
「…………」
聞いたことを心の底から後悔した僕だった。
知らない方が幸せなこともあるって本当のことでした。
散々引っ張っといて、期間限定の特別展って……。
しかも、そんなところでお祈りをする僕って……。
「な? 凄いだろ?」
「はい。凄く凄かったです」
僕の気持ちなど露知らず、満足気な表情で、うんうんと頷く海月の少女。
「それで……僕はどんなお願いをしたのですか?」
怖いもの見たさ、というか怖いもの聞きたさでそう質問すると、少女はゆらりと右手をあげて、僕の下半身のあたりを指さす。
「君が履いているズボンの左ポケット。そこに入っているスマホに答えがあるよ」
「…………」
はあ、ググれということか。
なんというか、回りくどいな。
そう解釈した僕は検索フォームを開こうとするが、一向に画面が動かない。それも、そのはずだった。俗世ではない場所に基地局を置く人はいないからだ。
「圏外だから使えないです」
いやいや違う違う、と。海月の少女。
「スマホにぶら下がっている
呆れ気味にそう言われて、視線を画面から下にずらす。するとそこには、
御守り。
海月の
「それが、君の願いだよ」
彼女は言う。
「君はそうやって――そんな風にして、ずっと願っていたんじゃないか」
ずっと――?
「…………!」
ふと、脳裏によぎる情景。
だが、それは酷くぼやけていて、思い浮かべようにも、上手く思い出せない。ぼろぼろに
あれは、いったい……。
「だから、君のその願いを叶えてあげるために、死んだ君をここに連れてきたんだ。まあ、理由はもうひとつあるんだけどね」
「え、なんですか?」
少女は、頭を地面に向けた状態で大きく伸びをしながら呟く。
「暇なんだよね」
「は?」
「いや、だから、神様って結構暇なんだよね。人気者の神様ならまだしも、ほら、私の信者少ないからさ……」
私もちやほやされたい、と。
俗すぎる愚痴を漏らす神様だった。
「そんな理由で……」
「そう。そんなわけで、そんな御守りをいつまでも身につけている
おわかり頂けたかな?
少女はそう言って、僕の顔を覗き込む。
まあ、僕がここにいる理由はよく理解できた。
が。
「貴女は、僕を転生させると言っていませんでしたか? なのに、僕の願いごとである『恋愛成就』を叶えるというのは、いったい……」
「君はさ、ベニクラゲって知ってる?」
「えっ……」
文脈を無視した、突飛な質問だった。
ベニクラゲ。
脳内に検索をかける。
「えっと、たしか……『不老不死の海月』って言われている種類ですよね」
「そう! それ!」
少女は、僕をびしっと指さして、語り始める。
「ベニクラゲは不老不死だなんて言われてるけど、実際のところはちょっと違う。厳密に言うと、あれは生まれ変わっているんだよ。転生しているんだよ」
また難しい話が始まってしまった。
「んんん……僕にはそのふたつの違いがわからないけれど……『自分に生まれ変わる』っておかしくないですか?」
なぜなら、それは生まれ変われていないから。
そんな僕の純粋な疑問に対し、少女はこう述べる。
「じゃあ、人間で考えてみようか。つまり、年老いたり、致命傷を負うと、赤ちゃんに若返る人間だ。例えば、五十歳のときに若返りをしたとして、また五十歳まで歳をとれば若返る前と同じ姿の人間になるだろう。なぜなら、DNAは同じだからだ。でも、その人の積み重ねた『記憶』はどうだろう。同じ五十年という時間を生きたけれど、その人の積み重ねた『記憶』は同じだと思うかな?」
これは、僕にもわかる。だから、僕は首を横に振った。
「そう、答えは否だ。全く同じ人生を送るなんてできるはずがないから当然だ。じゃあ、その積み重ねた『記憶』が違うふたりを同一人物と言えるか否か、ということだけど……それも否だ。なぜなら、人格とは『記憶の積み重ね』だからね」
「……つまり、記憶が無くなった時点で、その人は、その人ではなくなるってことですか?」
そういうこと。
少女は鷹揚に首肯して言う。
「だから、ベニクラゲは転生しているんだよ」
なるほど。
なんとなくわかったようなわかんないようなである。
でも。
「それで……その転生するベニクラゲと僕の願いにどう関連があるのですか?」
ああ、そうだ、その話だった。
そう呟いて、頭を小突く少女。
いや、忘れんなよ。
「そんなわけで、海月の神であるところの私は、その『転生』の願いしか叶えられないんだ」
「えっ、何でも叶えられるわけじゃないんですか? 神様なのに?」
「神様といっても、万能ってわけではないんだよ。できることとできないことはある」
「ふーん……そうなんですね」
神様にも色々あるということらしい。
「まあでも、安心してよ。転生すれば
「何故なら……?」
僕は神妙な面持ちで二の句を待つ。
「何故なら……物語に恋愛は
そう言って、海月の少女は、かぷかぷと笑う。
いや……。
そんなに上手くないし、笑うほど面白くもない……。
というか、クラムボンはお前だったのかよ。
必死にクラスのみんなで考えたクラムボンはお前だったのかよ。
なんだろう。
胸に渦巻くこの気持ちは、なんだろう。
よくわからないけど、切ないや。
そんな、幻滅にも似た複雑すぎる感情を抱く僕を他所に、少女はどこか嬉しそうな表情を浮かべて願いを訊ねてくる。
「そんなわけで、君は何に転生したい? ほら、なんでもいいんだよ? チート能力を持った幸薄そうな男の子とか、
「いや、なんでテンプレ的なラノベにありがちな転生先ばっかりなんですか……」
まあ、実際の転生先として人気があるからねえ。
と、海月の少女は言う。
「別に、ひとつに選ぶ必要もないよ。国を追放されたチート悪役令嬢がダンジョン飯で成り上がって、美男に囲まれながら
「タイトルだけで表紙が埋まりそうですね」
まあ、内容は大変わかりやすいが、強欲すぎる。
「なんなら『〜』も付けられるよ」
「これ以上、何を付け足すっていうんですか……」
「『〜国産スライムを添えて〜』とか?」
「フランス料理かよ!」
スライムが添えられたダンジョン飯とか嫌すぎる。
「というか、貴女の口振りから察するに、転生したら、今の記憶は引き継がれないってことですよね?」
「お、察しがいいね。そういうことだよ」
大人の持つ膨大な記憶を、未熟な赤子の脳に引き継ぐことはできない。そんなことをしたら死んでしまう。
彼女はそう言った。
そして、彼女は改めて問いかけてくる。
「さあ、どうしたい?」
「…………」
僕は、
記憶が引き継げないのなら、正直、何に転生しても同じだと思うんだよな……。
うーん。
転生。
生まれ変わり。
僕とは違う僕……。
「僕は……僕は、海月に生まれ変わりたいです」
「へえ……」
それまでにこやかだった彼女は、にわかに表情を曇らせる。
あれ。何か変なことを言っただろうか。
「理由を訊いてもいいかな」
彼女の問いに、僕は首を縦に振って答える。
「昔、誰かに教えてもらったんです。『海月には脳がない』って。脳がない海月は何も考えられないし、何も感じることができない。だから海月になりたい、と。その人は言っていました」
あれ?
それは、誰だっけ?
そんな疑問が頭をよぎったが、僕は構わず続ける。
「そもそも僕は、生きるのが嫌になって自分を殺したんです。だから、何かに生まれ変わりたいとは思えません。けど――」
「けど、海月なら――自分が生きていることを自覚できない海月なら生まれ変わってもいい。君はそう言いたいのかな?」
「……そうです」
そっかあ、と。
彼女は
「うーん、海月はおすすめしないかな」
「えっ、なんでですか?」
「自分の命のことを自分で決められないのは、凄く哀しいことなんだよ。とても哀しいことなんだよ」
彼女は、 平坦な口調で言う。
「海月になった君は、哀しくなんて感じないかもしれない。けれど、私は哀しいよ。そんなの、嫌だよ」
「そ、そっか……」
とすると、困ったことになった。
海月が妥協点だったから他に選べるものがない。かといって、彼女を哀しませたいわけではない。
ぬぬぬ。
「転生以外のお願いはだめですか?」
「まあ、私にできる範囲だったら……」
明らかにテンションが下がっている海月の少女。しょんぼりと肩を落として、空中で体育座りをしている。
そんなに転生させたかったのか……。
そういえば、暇だって言ってたな。
彼女の退屈を紛らわす丁度いい願いごと……
「じゃあ、僕と一緒に江ノ島水族館に行ってくれませんか?」
「へっ?」
僕の問いかけに、
「いや、暇してるって言ってたし……さっき、えのすいの話が出て、久しぶりに行きたくなったので……だめですか?」
しばらくの間、顔に三つの丸を作って唖然としていた彼女だったが、ようやく理解したのか、ぱあと表情を明るくさせて、こう言葉を紡いだ。
「私とデートしたいだなんて、あはは、変なの」
それは、どこか懐かしい響きを伴って、僕に聞こえてきた。
かぷかぷと、健やかに笑う海月の少女。
「よし、決まり! じゃあ、五月二十日の十一時に片瀬江ノ島駅で集合ね」
と、先程までとは打って変わった様子ではしゃぐ海月の少女。
えっ、今から行くんじゃないんですか?
僕はそう訊こうとして――けれど、それは叶わなかった。
彼女の言葉を聞いた直後、突然、僕の頭に強烈な睡魔が押し寄せたのだ。抗う術もなく、僕の思考は瞬く間に飲み込まれ、霞んでいく。
ぼやけていく意識の中、こんな声が聴こえた気がした。
「楽しみにしてるよ、後輩くん」
そこで、僕の意識は途絶えた。
架空の端緒シリーズ 接木なじむ @komotishishamo
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