架空の端緒シリーズ
接木なじむ
Like Butter
Episode,1 『月夜見』
『死んでもいいわ』
敢えて説明するまでもないと思うが、念のために説明しておくと、これは
聞いたところによると、ロシア文学作品の何とかに登場する『私はあなたのもの』という意味の
一方で『月が綺麗ですね』は、夏目漱石が英語教師をしていたときに『I Love You』を生徒にそう訳させたとかなんとかで、つまり、このふたつの
たしかに、そう言われると、文脈がおかしいような、なんとなく
まあそもそも、夏目漱石が『月が綺麗ですね』と訳させたという逸話は、信憑性の薄い、都市伝説的な話だそうで、あまり深く考えても仕方ないことではある。
あくまで噂。
話半分。
虚実半々。
とはいえ、たったの十四文字、たったの二文が、多くの日本人の心を掴んでいるということは確かで、やはり、
日本人は思いのほかロマンチストである。
本当に。
まあ、それにしても『死んでもいいわ』は重すぎる気がするけれど。
何が重いって、愛が重い。
想いが重い。
永きに渡って連れ添った熟年の夫婦が、庭で月を眺めながら、そんなやりとりをしている――という情景であればまだ理解できるのだが、今まさにふたりの恋が始まるという場面で、愛に『生き死に』を重ねるなんて、そんなの重すぎる。
私がそんな返事をされたら引いてしまう。
どん引きである。
本当に。
それでもやっぱり、こんな一句がロマンチックな愛の
ブライダルリングは金か白金が一般的とされる国。
日本人は
と。
そんな、取り留めもない思考を巡らせながら、明るい夜空の下を自宅に向かって歩いていた。
ひとり、とぼとぼと。
淡い影と、溜息を落としながら、歩く。
南の空には
雲ひとつない夜空の中、何にも邪魔されることなく
あるいは――死神でも降りてきそうな。
そう思わせるほどに綺麗で
そして私は、そんな月を見てこう思うのである。
「死んでもいいわ……」
まったく、仕事帰りに見る綺麗な月ほど切ないものはない。それが丸々としていて、空高く上っていればいるほど、切なくなる。
「はあ……」
うちの人事はいったい何をしているのだろうか。毎日、こんな遅くまで残業が必要になる会社なんて、人事が仕事をしていないということに他ならないだろう。いや、もう、人手が足りないとかそういう問題じゃない気もするけれど。
ここ二週間に至っては、帰宅時間が日を跨ぐ少し手前という生活が続いている。自宅の滞在時間の方が短いとか意味がわからない。もはや帰宅するのに出張費が欲しいとか、
つまり、私のこの詩には『この殺人的な仕事から解放されたい』という願いが込められているのであり、そこには日本人的な奥床しさもなければ、風情もロマンチックさも含まれてはいない。
まあ、ある意味では日本人らしいのかもしれないけれど。
仕事は人を殺す。
本当に。
ホホジロザメなんかよりよっぽど人を殺している。
そろそろ、B級サメ映画のモチーフになってもいい頃合いだろう。
――はあ。
「なんてね……」
そう。
なんだかんだ言っても、別に本気で死にたいとは思ってはいない。
心から死にたいと、そう思うのなら、もうとっくに死んでいる。
例えば、さっき電車を待っていた駅のホームとか。
黄色い線から二、三歩踏み出せば、それで達成される。
意外と死は身近なのだ。
ワンステップである。
それでも実行しないのは、やっぱり死ぬのは怖いからだ。
普通に怖い。
実に怖い。
本当に。
この生物として当たり前な思考回路が、仕事によって壊されないことを願うばかりである。
綺麗な月に、そう願う。
「…………」
最近、有名になったとある文学作品の中で、こんな話が語られている。
死神は、その人にとって一番魅力的な姿をしている、と。
何故なのかは知らない。その方が死神の仕事が円滑に進むからなのかもしれないし、最期のひとときを幸せに過ごさせるためかもしれない。あるいは、死は人間にとって魅力的なものであるということの
わからない。
けれど、それが本当だとしたら、私の前に現れる死神は、いったいどんな姿をしているのだろう。
興味がないと言ったら嘘になる。
私の好きを詰め込んだ姿。
私の性癖。
うーん。
黒髪ロングのクールビューティー系のお姉さんだったら、喜んでこの命を捧げてしまうかもしれないな。
うん。
殺されるなら美人がいい。
心の底からそう思う。
とか。
そんな益体のない思考を巡らせているうちに、自室のあるアパートの近くまで来ていた。
残り数十メートル。
そうしたら、束の間の休息。
束の間の……。
「はああ……」
残酷すぎる現実に深い
「――っ!」
あまりに突然で、声も出なかった。
いや、正確には――声が出せなかった。
私の口を覆う、手袋をはめた大きな手。
上手く息ができない。
そして、私の耳元で鳴る、荒れた呼吸が囁く。
「声を出すんじゃねえぞ」
私の身体を羽交い締めにする人物は静かに、有無も言わさぬような口調でそう言って――もう片方の手で、私の胸部を乱暴にまさぐり始めた。
荒々しい男の手。
そして、私は、私の思考は、完全に停止した。
頭の中は白飛びしたように真っ白で、何も考えられなかった。
状況を理解することで精一杯。
状況を理解することもままならない。
いや、このとき、状況を正しく理解していたら、私は死んでしまっていたかもしれない。
陰部を撫で回す無骨な手。
臀部に押し付けられる熱。
首筋をなぞる湿り気。
こんな状況を細かに理解していたら、間違いなく、ショックで死んでいただろう。
もっとも、私の中の「女」は死んでしまったけれど。
あはは。
そうして「他の女性が被害に遭わずに済んだならそれでいいか」なんて、半ば自暴自棄な思考がよぎった――そのときだった。
「いっけなーいっ! 遅刻遅刻ぅーっ!」
と。
なんとも場違いな台詞が――いや、場違いすぎる台詞が不意に聞こえたのだった。
可愛らしい女の子の声。
そして、話の流れを読まない少女は、たったったっ、と。明るい足音を奏でながら急速に近づいてきて――お約束通り――派手に、実にコミカルに衝突した。
激しく揺れる視界の中、私はこう思った。
一体全体、何が始まるというのだろう……。
「いったたぁ……」
と、苦鳴を漏らす少女。
小さな少女。
左手には分厚い食パン、もう片方の手には銀色のバターナイフを持った、小さな女子高校生。
こんな時間から登校?
そんな学校があるなんて聞いたことがない。
というか、いくら急いでる状況であってもバターナイフは持ってこないだろ。
少女は立ち上がりながら、乱れた黒髪のショートボブを
「もうっ! こんな時間にこんなところで何してるのよっ!」
こっちの台詞だった。
男も同じことを思ったらしく「それはこっちの台詞だ! こんなとこで何してやがる!」と、怒鳴る。
いや、お前も大概だろう。
そうして男は、少女への突っ込みを言い残して逃げようとしたのか、立ち上がる素振りを見せたが、あえなく地面に崩れ落ちた。
どうやら、男は立ち上がることができない様子。
それも、そのはずだった。
男の右下肢。
足首の先にあるはずの足が、あったはずの足が――私の目の前に転がっていたのだから。
「ひっ……!」
お行儀よく靴を履いたまま。
赤く染まった靴を履いたまま。
そこに落ちていた。
それを目にした男は、目をぱちくりとさせる。自分の右足とを交互に見つめながらしばし
「おい、どうした! 大丈夫か!?」
と、少女は訊く。
が、口を塞がれている男は当然答えることができず、言葉にならない声を漏らす。
「なんてことだ……! 待ってろ、今楽にしてやるからな! 安心しろ! 私はこれでも漢検二級を持っているんだ!」
話の流れは読めないが漢字は読めるらしい少女は、片手で男の口を塞いだまま、視界を覆うように持っていた食パンを男の顔に乗せる。
「よ〜しよし、落ち着け。もう大丈夫だぞ。なんて言ったって、こいつは四枚切りだからな!」
と、少女はそう言って、右手に持ったバターナイフを
添えるように、そっと。
私は、自分の目を疑った。
次の瞬間――その丸い刃先は、するりと男の首へと入っていったのだ。抵抗なく、まるで吸い付くかのように。
「よしよし。いい子だ」
と、少女は男に優しく語りかけながら、あたかも柔らかいバターを切り分けるが
一瞬、電気が走ったように男の四肢が緊張した。
「おやすみ」
静かにそう言って、少女は上品な手つきで男の首からナイフを抜き取る。そして、それとほぼ同時に、開いた傷口から華々しく鮮血が噴き出した。
鮮やかな
真っ赤に。
目が眩んでしまうほど、真っ赤に。
そんな光景を、私はただ、呆然と眺めていた。
何ひとつ理解できずに、呆然と、眺めていた。
そうして、ぐったりとした男を見つめてじっとしていた少女は、ふうと、深く息を吐く。それから、上着のポケットから取り出したスマートフォンを操作し、耳にあてがう。
「もしもし? 終わったよ。うん。ただ……お客さんがいてね。うん。そう。うん……。うん、わかった。じゃあね」
誰かとの通話を終えたらしい彼女は、すくと立ち上がり、けだるそうにこう告げる。
「今からお前を
「えっ――」
ころころとした愛嬌のある声で紡がれた、とても律儀な脅迫。
あまりに急な展開に、私は唖然としてしまう。
「ほら。『鶴の恩返し』でも本当の姿を見られた鶴は帰っちゃうだろう? それと同じような感じで、お前に見られたから連れ去るってこと」
「いや、全然同じじゃないよ! やってることが妖怪だよ!」
あまりの理不尽さに、思わず突っ込んでしまった。
無茶苦茶すぎる。
「あはは。まあ、妖怪みたいなものだよ」
当たらずと言えども遠からずってやつだね、と。
少女は、返り血で怪しく濡れた髪を揺らしながら、けらけらと笑う。
そんな、含みのありそうな、何とも歯がゆい言葉に、私は興味を惹かれてしまった。
「じゃあ……あなたは、いったい何者なの?」
「ん? 私か?」
私は
その返答を受けて、にまにまと嬉しそうに表情を崩す少女。
そして、照れくさそうに
「私は死神だ」
小さな少女は、健やかに笑った。
ああ、なんということだろう。
私の死神は――高校の制服に身を包み、バターナイフを片手に持った――小さな少女だった。
これが、私の好きを詰め込んだ姿。
私の性癖。
ああ。
「死んでもいいわ」
心の底から、そう思った。
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