小さな魔女の散歩道
甲田学人
小さな魔女の散歩道
#1
私は『魔女』である。
小さな魔女がお散歩する絵本を読んで、自分が魔女だと気がついた。
魔法の杖もないし、空飛ぶ箒も持ってないし、使い魔の黒猫も連れていない。
でも、私は『魔女』。確かに『魔女』なのだ。
#2
私は毎朝、飼い犬のヨハンを連れて散歩に出る。
ヨハンはとても白い犬。ヨハンはとても大きな犬。
私はヨハンと散歩をするのが好きだ。私は散歩をしながら、そこで出会う色々な人に話しかける。出会うのは、みんないい人ばかりだ。
#3
真っ赤な郵便ポストの上には、妖精さんが座っている。
「おはよう、ポストの妖精さん」
「おはよう、魔女さん」
妖精さんはポストの上で、いろいろな人が手紙を入れるのを見ている。
「今日は素敵な手紙を見つけたのよ」
気に入った手紙を持っていってしまうので、時々手紙が届かない事がある。
#4
丘の墓地には、小人さんが住んでいる。
髭をはやした妖精の小人さん。墓石の下に住んでいて、とても器用。人の捨てた色々なものを細工して、自分達で使っている。
小人さんが自慢げに見せる。鋭い石斧。人間の前歯で出来ている。
「小人さん、それ使いやすい?」
「ああ。軽くて硬くて、とても鋭い。こんないい物を捨てるなんて人間はなんて勿体ないんだ」
「人間はみんな、たくさん口の中に持ってるよ」
「そうなのか。それなら寝てる間に、みんなで行って貰って来よう。捨てているんだから、ちょっと貰っても構わないな?」
「それはいい考えだねえ、小人さん」
#5
近所の生垣にある薔薇は、監視者だ。
大きく咲いた花の真ん中の、大きな目玉がその証拠。
監視者はずっと何かを監視して、土の中の誰かに何かを報告している。
何を監察して誰に報告しているのかは、規則らしくて聞いても教えてくれない。
「ねえ薔薇さん。ずっと目を開けていて、痛くならないの?」
「ちゃんとまばたきしてるじゃないか。一年がかりでさ。俺達から見たら、あんた達のまばたきは忙しすぎて、よく疲れないもんだと感心するよ」
大きな薔薇は、朝露の涙を浮かべてげらげらと笑う。
「ひとつ教えてあげる。見張っているのは私だけじゃない。土から生えた草や木はね、みーんな土の下に見たり聞いたりしたことを報告しているのさ」
薔薇さんが言う。
「それ私に教えていいの?」
「いいさ。魔女の言うことなんか誰も信じない」
「そうだね」
本当に薔薇さんはよく見ている。
#6
自分の髪の毛に知らない間に結び目ができていたり、毛布の繊維とかに髪の毛が入り込んでいるのは、妖精の仕立て屋さんの練習の跡だ。
妖精の仕立て屋さんは、季節がうつろうたびに生まれては死ぬ妖精の女王様のため、人の髪の毛で弔いの布を作り続けている。
妖精の仕立て屋さんはとても仕事熱心なので、人の髪の毛に結び目を作って留め結びの練習をしたり、落ちた髪の毛を拾っては、毛布やタオルで縫い取りの練習をして腕を磨いている。
もし頭を触っていて髪の毛が指に刺さったら、そこにはびっくりした妖精の仕立て屋さんがいる。
妖精の仕立てた弔いの布は、冬になって妖精の女王様が死ぬと、空に広げられる。
目に見えないくらい薄い弔いの布は、死んだ女王様のために翻り、その悲しみを表すために、冬のあいだじゅう太陽の光を翳らせる。
#7
散歩道。
一人と一匹で、今日も歩く。
いつもの散歩。どこにでもある散歩道。
私は『魔女』。
そしてここは、『魔女』の散歩道。
だからここは、『魔女』の散歩道。
私にはどこにでもあって。
皆はどこにもないと言う。
どこにでもあって。
どこにもない。
私とヨハンが歩く道。
そんな、『魔女』の散歩道だ。
#8
寝たきりのお爺ちゃんに朝の挨拶をしたら、お母さんが金切り声を上げ始めたので、今日も私はヨハンを連れて朝の散歩に出かける。
お爺ちゃんはもう死んだんだって。
知ってる。でもそんなこと、関係ないのにねえ。
#9
ヨハンは白い大きな犬。
いつも笑った顔をしている。
どうして笑っているかというと、人間が怖いから。
怖いものに囲まれていたら、笑うしかないよねえ。
ヨハンはとても賢い犬。
#10
よく見かける黒猫がいた。
「こんにちは」
仲良くなりたいけど、わたしを見るとすぐ逃げてしまう。私は魔女なのにね。
伝説だと、猫には九つの命があるんだって。
いいな。一生のお願いが九回も使えるんだ。
#11
散歩が好き。
ずっと散歩できたらいいのに、といつも思う。
ずっと、ずっと、終わらない散歩があればいいのに。
そうすれば家に帰らなくて済むのに。
家には帰りたくないから。
#12
駅の近くを歩く。
混み合っていて、たくさんの人が出入りしている。
何百人も歩いていたら、中に一人か二人、死んだ人が混ざっていても気づかない。
死んだ人も、何百人の中を一緒に歩いていたら、自分が死んでいることにも気づかない。
#13
ショッピング施設の前で、ヒーローショーをやっていた。
子供をつれて、みんな見に来てる。
悪者がやってきて、子供が泣いて、悪者がやっつけられる。
ずっと何かに似てると思ってたけど。
これって節分だよねえ。
#14
もう何年も使われていない田圃。
背の高い雑草がみっしりと生えている。
草の中から子供の頭がひとつ出ていて、こっちを見ているのが見えた。
冬になって、草が枯れる。
足首くらいの高さになった草の中から、やっぱり子供の頭が、ひとつ出ていた。
この草むらは以前、持ち主のお爺さんが、草刈り中に近付いて来た小さな孫に気づかずに、その首を切ってしまったことがある。
子供の首は今でも、その草むらの中にいる。
#15
散歩道は、すぐに尽きて終わってしまう。
楽しい時間も、楽しい本も、楽しい道も、終わるのはあっという間。
私はいつまでも家に帰らないために、新しい散歩道を探す。そしていつも、探しているうちに一日が終わってしまうのだ。
#16
今日は川のそばを通る。
みんな知らないと思うけど、この川の始まりの場所には、たぶん女の人の死体がある。
恨んで怨んで憾んで死んだ。恨みが水に溶けて、川に広がって流れている。
ぽかり、
とボールのように、女の人の頭が川の水に浮かぶ。
ぽかり、
ぽかり、
ぽかり、
ぽかり、
川の上には浄水場があって、水道の水を作っている。
水源に捨てられた死体から溶けた恨みは、浄水できないから、水道管を通って、ずーっとずーっと広がっている。
お風呂のお湯から、コップに汲んだ水から、
ぽかり、
と女の人の頭が浮かぶ。
自分を殺した人を、ずっと探している。
#17
汚れた服を着た髭ぼうぼうのおじさんに会った。
「おはよう神様」
この人は神様。千年より前の約束で、村の人々を救うため百年ごとに人として生まれてくる。
「やあ魔女さん。儂が救う民は見つかったかい?」
「ううん」
「そうかあ」
もう村も人もないのに生まれてきて、約束の民を探してる。
#18
電気屋さんの大きなテレビで、行方不明だった人が無言の帰宅をした、と流れていた。
どこかの家に黒い車が入って、その周りに人だかりとカメラのフラッシュ。
でも無言の帰宅じゃないよ。あんなに大声で話してる。
人だかりの中の男の人を指差して、
「この人に殺された」
って叫んでるよ。
#19
川原で拾った石ころをポケットに入れて、山に向かう。
石は山に帰りたがっている。
ヨーロッパには、魔女がエプロンに包んで運んだ山みたいに大きな石がいくつもあるんだって。
私はまだこれくらいしか運べない未熟な魔女だけど、いつか帰りたいモノ達を全部ポケットに入れて、山に帰したい。
石は山で生まれて、川に落ちて、体が削れて丸くなりながら下流へと流れてゆく。
丸くなった石を、穴が開いた石を、人間が喜んで拾って、時にはお守りにする。
丸く削れた石は、人間なら手も足も顔も無くなって、バラバラになった一部だ。
だったら同じになった人間も、お守りになるのだろう。
#20
葉が落ちた大きな木が、空に枝を伸ばし広げている。
枝は、空に伸びて広がった血管。
根は、土に伸びて広がった血管。
木は、空と土に鏡合わせに広がっている。
世界という生命を維持する血管は、空と土の間に水と空気と養分を巡らせ、天と地の間に生命力を巡らせている。
#21
山の方に、高い鉄塔が並んでいる。
沢山の人が鉄塔を登っている。遠くから見ると、花に登る蟻のよう。
天国に行けない死者が、少しでも天国に近づこうとしているのだ。でも天国はたぶんもっともっと高いので、全然届かない。
高いところが怖い人は、天国は無理だなあと思う。
善い人が天高く昇って、悪い人が地の底まで落ちるとしたら、どっちも高所が怖い人にはつらそう。
死のイメージは何故か高所恐怖症に優しくない。
天国にも地獄にも行かずに地上に残ってる人は、案外そんな人達なのかもしれない。そんな事を考えて、道路に這いつくばる幽霊を見ながらくすと笑った。
#22
縁側が開いているお家。
部屋の中に祭壇と遺影とお骨があって、遺影に写っている人が、ぼんやり部屋をうろついていた。
家の人と、写真の人が、お互いの存在がないかのように、すり抜けていた。
多分、『死者』が見える人と見えない人がいるように、『生者』が見える死者と見えない死者がいる。
#23
ヨハンは散歩が好きな犬。
私を引っ張って、ぐんぐん遠くへ行く。
ヨハンは人間が怖いから、人間のいない場所を探しているのだと思う。でもヨハンは人間じゃないモノも怖いから、何もいない場所はどこにもなくて、最後は家に帰る。
家には人間も、人間じゃないモノもいるけど、ご飯もあるからね。
#24
散歩をしていると、人がヨハンを撫でたがる。
だって、大きくて白くてふさふさの犬だから。
ヨハンは人間が怖いけど、人間のように賢いので、嫌なふりは見せずに、笑顔を張り付けてじっとしている。
ヨハンは、人間みたいに、賢い犬。
だから、人間みたいに、可哀想だ。
#25
散歩の途中で、河川敷の階段に座って休憩。
隣にヨハンが大人しく座っている。大人しくて賢い犬。
ヨハンは人間も、人間じゃないモノも怖い犬だから、たぶん私の事も怖い。
私はヨハンにお話を聞かせる。ヨハンがもっと賢くなるように。人間よりも賢くなれば、きっと可哀想じゃなくなるよね。
#26
お話。
「昔々、動物達が王様を決めることにしました。
競争で一番になった動物を王様にすることになり、チーターが誰より早くゴールに着きました。でもチーターの頭にネズミが乗っていて、ぴょんと前に飛び降りたので、一番はネズミになりました。
動物達は一番立派なライオンを王様に決めました」
#27
「ねえ、神様が生き物の寿命を決める昔話は知ってる? 馬と犬と猿が苦しいから短くしてもらった寿命を、欲深い人間が貰ったから、人生の後半は馬と犬と猿の苦しみなんだって」
私は犬のヨハンに言う。
「じゃあ、人間が自力で伸ばした人間と犬の寿命は、何から奪った、何の苦しみなんだろうね?」
#28
図書館に行くのでヨハンは留守番。
ヨハンは家は嫌だけど仕方ないね。
お父さんは犬嫌いで、お母さんは犬好きでヨハンを飼ったけどヨハンを嫌いになった。
ヨハンは飼い主がいない。私は飼い主じゃない。ヨハンを洗うのもご飯をあげるのも私だけど、お地蔵に同じ事をしても飼ってるとは言わない。
#29
本が好き。だから図書館も好き。
でも本は騒がしいから、図書館はとても煩い。
「私の言いたいことを聞いて!」
「俺の考えを聞いてくれ!」
と、本棚の前を通る人に一斉に訴えている。
「またいつかね。そのうちね」
私は本棚から物静かな一冊を手に取って、図書館の隅っこに座り込む。
#30
ミラーのある狭い十字路。
ここは満月の夜のとある時間にだけ月の光が反射して、十字路の真ん中に丸い光を落とす。
それは月の光が集まった泉。私はそこから月の光を手の平に掬って、きらきらと輝いて零れるそれを、いつだか小瓶に詰めた。
その小瓶は無くした。
魔法は必要な人の処に行くものだ。
#31
病院の窓。ベッドの枕元に立つお坊さんがいた。
生者ではない。あれが枕元に立った患者は死んでしまう。
見える人はあれを死神だと言う。けど違う。あれは死にそうな人の枕元で、迎えに来る死神を待ってるだけ。ただ死神は死にゆくその人にしか見えないから、あれが死神を見つけることは少ない。
#32
病室に立つお坊さんの霊は、かつて餓死する寸前、訪れた死神を空腹のあまり食べた。
冥府の物を食べたから現世に帰れないけど、死神は食べたので死ぬこともできない。現世の存在でも冥府の存在でもないので、どちらの食べ物も食べられない。酷くお腹を空かせて病室に立つ。迎えの死神を食べるため。
#33
蟻の行列が、人間の小さな欠片をたくさん運んでいた。
生きてる人じゃない。死んで『向こう』に行かずに、地上を彷徨っていた人だ。
目的なく地上に残ると自分の存在を見失って、やがて動くこともできなくなる。
蟻にバラバラにされて地面の下に運ばれてゆく。
そうして、いずれ全てが土に還る。
#34
縁側に座って、お婆ちゃんとお話しした。
お婆ちゃんは庭の木で首を吊っているので、首が閉まって喋れない。
「どこで知ったのよ!? あんたの生まれる前の話じゃないの!!」
お母さんが叫んで、部屋に閉じこもって泣きだした。
晩御飯はなさそうなので、私は仕方なく夜の散歩に出る。
#35
夜に散歩をしていたら、月がまんまるボールのチーズみたいだったので、つまんで食べた。
欠けちゃったので、月がまた育つまで待たないといけない。
私が食べたのは、月とヨハンと私だけの秘密。
#36
夜空が私を見下ろしていた。
細く欠けた三日月の口で、
にやら、
と嗤っている。
#37
夜の道を歩く。
人は皆、夜を怖がっている。私も夜は怖い。
でも皆は暗闇を怖がっているみたい。へんなの。
私は暗闇は怖くない。
私は暗闇に明かりがある事の方が、ずっと怖い。
#38
見せる顔は違っても、月は世界のどこでも共通。
月は鏡なんだって。だったら世界のどこでも、映して見る事ができるかもしれない。
いつかそんな魔法を紡ぎたいな。
私が月を見上げると、世界のどこかで月を見上げている人の顔が見える。
そして世界のどこかで、月を見上げる私の顔が見えるのだ。
#39
月は風流なんだって。
桜も風流なんだって。
どっちも人を狂気に誘う。
風流って、たぶん狂気のこと。
#40
拾った木の枝で、鉄の柵をなぞって歩いた。カンカンカンと鉄の音。
ご機嫌な音。私はご機嫌。ヨハンもご機嫌。
カンカンカン、
ぼす、
と音が変わった。
見ると、たくさんの身体が欠けた人たちが手を繋いで、柵の代わりに一つの家を取り囲んでいた。
残念。ご機嫌な音はしなさそう。
#41
車に轢かれて死んだ動物がいた。
轢かれるなんて馬鹿だな、って。おやつに食べた林檎の種を割れた頭の中に植えた。林檎は知恵の実だから、轢かれないくらい賢くなるように。
以来、轢かれた動物を一度も見ない。
ただ角みたいに頭に木を生やした生物の群れが、知性を宿した目で藪から人を窺う。
#42
ヨハンに引っ張られて藪の中に入ると草いちごがあった。
つぶつぶの集まった赤い身を摘んで、ひとつ口に入れる。甘酸っぱくておいしい。
でも夢の中のいちごは食べちゃダメ。
夢の中のいちごは魔女のいちご。呪いのいちご。呪われている。
いま散歩してる私は、ちゃんと起きてる私なのかな。
#43
公園の水道で顔を洗う。
私は顔を洗うのが好きだ。一回死んで、生き返ったような気分になるから。
#44
大きな公園に大きな池がある。
私は海を見たことがない。大きくなったら、海の近くに住みたいと思ってる。この池を、もっともっと、限りなく大きくしたものに違いない。
ぞろ、
と無数の真っ白な腕が隙間なくひしめいている池を見ながら、私はそんなことを思う。
#45
人間は水から産まれたけれど、水のおかげで生きてるけれど、水は人間を憎んでいると思う。
お風呂に首まで浸かっていると、水面に首を絞められている感じがするから。
母なる水が、私の首に手をかける。
#46
古いお家の庭に、古い梅の木がある。
その梅の木は、毎年ふたつだけ、眼球を実らせる。
何かを見ようとしているのだろうか?
でも大抵は、誰かが気づく前に、カラスがくわえて持って行ってしまう。
#47
堤防の上の道を歩く。前を歩く子供二人が、河川敷に降りる階段が16段か17段かで言い争っていた。二人の記憶が違っていて、どちらも自分が正しいと譲らない。じゃあ数えようと二人は階段を降りて行った。
階段は16段。「ほら」と言った一人の前で、見えない17段目にもう一人は消えた。
#48
少し向こうの山の木に、いつも首を吊った人がぶら下がっているのが見えていた。見えているのに、いつまでも、誰も、下ろさない。
見に行くと死体はなくて、藤の蔓にくびられて枯れそうな木があった。蔓を切ってあげようとしたけど、固くて無理だった。
木は枯れて、首吊り死体も見えなくなった。
#49
誰もいない小学校の校庭を、男の子が走っていた。
生きている子供じゃない。かくれんぼの鬼をしている最中に、事故で死んでしまったのだ。
ずっと隠れた友達を探している。でも首が折れて頭が背中にぶら下がっているので、いつまで経っても誰も見つけられない。
#50
プールがある小学校。
私は泳げない。泳いだことがない。練習すれば泳げるようになるのかな。
でも泳ぐ練習はしたくない。
だってプールには、必ず※※※※がいるんだもの。
……。
プールにいる『あの子たち』の名前を発音しようとしたけど、人間の口じゃ上手くできない。
#51
そういえば、伝説では魔女は水に沈まないんだって。
いいこと思いついた。
だったら魔女を材料にして船を作れば、絶対沈まない船ができるんじゃないかな。
#52
今日は土砂降りだ。ヨハンは残念だけどお留守番。
傘を差して、長靴を履いて、散歩に出る。道路に水が流れている。今にも川に繋がりそう。
ぽかり、
とボールのように、路面を覆っている水の中から、女の人の頭が浮かんだ。
#53
激しい雨の日は、天と地がつながる日だ。
間にある地上は、雨で満たされて、ふたつの異界と混ざる。
土砂降りの中を歩いている、けぶる人影の中に、人間ではない人影がたくさん混じっている。
でもみんな雨の勢いに傘を差して縮こまっているから、誰もその姿をよく見ていない。
#54
行方不明になった人を探すポスターが貼ってあった。
見ていると、
つう、
と写真の人が、赤い血の涙を流した。
ああ。
と思った。
血の涙は、降り注ぐ雨に溶けていった。
#55
雨上がりの水たまり。空の光で光ってる。
空が地面に開けた、空に繋がる穴だ。
見下ろすと、空に映る私とヨハンの足。
子供が向こうで水たまりの淵に立って、中にジャンプ。
すとん、
と子供は水たまりの中の空に落ちて消えた。
水たまりに子供の足が映ったまま。
その膝から上は無かった。
#56
きい……きい……
誰もいない公園で、誰も乗っていないのに、風もないのに、揺れているブランコ。
誰もいないから、ブランコが寂しくて、自分を揺らしているのだ。
子供の幽霊なんか乗ってないよ?
子供が乗っていたら、あんなに小さな揺れで済むはずがないよねえ。
#57
若い男の人が、路上でアクセサリーを売っていた。
キラキラ綺麗な楕円形のブローチがケースに並んでいて、女の子達が楽しげに選んでいる。
後ろから見ているとブローチから虫の脚と触角が生えて、じゅわじゅわと動いた。
「あ」
人間ではない男の人の笑顔が消えて、何も言うなよ、と私を睨んだ。
#58
大きなマンションの前に引っ越し屋さんがいた。たくさん段ボール箱が積んである。
口の開いた箱が一つあって、引越し屋さんが見ていない間に、黒い塵でできたモヤモヤとした犬のようなモノがその箱の中に、ずるりと入った。誰も気づかずに、箱は中に運ばれて行った。
フタにはちゃんと理由がある。
#59
マンションのベランダから、引きこもりの少年が飛び降り自殺したのを見た。
窓から飛び出した抜け殻の身体が、道路に落ちて、潰れた。
皆は、落ちた抜け殻を見て騒いでいた。
私は、空を舞う『彼』を見上げていた。
彼は羽化したのだ。
彼が引きこもっていた、部屋という蛹から。
引きこもりの少年が飛び降りた、ベランダを見上げる。
開いた窓。空っぽの蛹。
彼は羽化した。皆が望む姿の蝶ではなかったかも知れないけれど、彼は外に出た。
無理やり開けたら、蛹の中でドロドロに溶けていた彼の魂は死んでしまっていただろう。
ボロボロな羽根の自由が、空を舞っていた。
#60
並木で一本だけ枯れた木。
周りの木にいじめ殺された。
かわいそうに、木は逃げられないから。
私みたいに、他の場所に行けないから。
#61
春になると、妖精さんたちが生まれる。
花の蕾がふくらんで、ほころんで、咲くと、中から妖精さんが産まれて空に飛び立つ。
お腹のふくらんだ女の人がいた。
もうすぐ赤ちゃんが産まれそう。
「こんにちは」
私は笑顔で挨拶する。
この人ももうすぐ、ほころんで、咲くのに違いない。
#62
大きくふくらんだ花の蕾を、何匹ものイモムシが食べていた。
育ちきっていない妖精さんが、赤く露出した蕾の中で、イモムシたちに生きたまま食べられて、息絶えていた。
蕾に栄養を運ぶ茎も、囓られている。
見ているとイモムシたちの重みで、食い荒らされた子宮が、ぽとりと地面に落ちた。
#63
鯉のいる池がある公園。池の欄干におじさんが身を乗り出していて、その真下でバシャバシャと鯉が集まっている。
おじさんが撒いた餌はもうないけど、鯉はなかなかいなくならない。
嬉しそうにしてるけど、離れた方がいいよ。
鯉は餌を待ってるんじゃない。池に映ったおじさんを食べてるんだから。
#64
バス停のベンチで、コンパクトの鏡を見ながらお化粧を整えてる女性。
私は、鏡に映った顔を自分の顔だと皆が何の疑問もなく信じてるのを、いつも不思議に思ってる。
みんな、自分の顔を、ちゃんと自分の目で見たことあるの?
見たこともないのに、鏡とか写真とかが見せるのを信じて、大丈夫?
#65
そうだ。
あのね。
それが鏡だ、という事を疑ってしまった時に。
鏡を覗いたら、駄目だよ。
#66
子供がしゃぼん玉を吹いていた。
しゃぼん玉の中には妖精がいて、しゃぼん玉を吹くと生まれる。あぶくが弾けると、その一生はおしまい。
数え切れない命が生まれて、あっという間に消える。
「こんにちは」を言う間もなく、風にたくさんの産声と断末魔が混ざりながら流れていった。
#67
女の子たちが車の下の猫ちゃんを呼んでいた。
車の下で、
「みゃあー」
と泣き声がする。
「こっちにおいでー」
と女の子たちがはしゃいでいる。
でも。みんな。
アレが、猫に見えるんだ?
#68
いつも停まっている車の横を通った。
いつも車の下にいる、血塗れで泣いている裸の赤ん坊は、今日はいなかった。
どこに行ったのかな。
#69
たくさんの田圃の中を通っている小道を歩く。
この田圃には、台風の日や、霧の日や、大雪の日に、不思議な火が燃える。
見に行ったら帰って来れなくなる。
「こんにちは。ええと、たいまつさん」
田圃の真ん中で、太陽の光でほとんど見えないけれど、全身が火に包まれた人が、手招きしている。
#70
少し遠い所にある小学校は、お墓だ。
四角い石の建物は、死んだ人と結びついてお墓になることがある。
そういう建物は結構多い。ビルとか、大きいほど死者と触れ易くなるし、良い墓標になる。
深夜、人には聞こえないチャイムが鳴る。
梵鐘めいたそれを聞くのは、私と、遠吠えする犬ばかり。
#71
男の人が自動販売機で飲み物を買おうとして、百円玉を落とした。
百円玉が、キンッ、と音を立てて路面で跳ねた瞬間、
ぬっ、
と販売機の下から細長い手が出て百円玉を掴んで引っ込んだ。
男の人が百円玉を探し回っていた。
自動販売機の下も覗き込んでいたけど、もちろん見つからない。
#72
今日も郵便ポストの妖精さんに挨拶する。
「こんにちは」
「ねえ魔女さん聞いて。いま女の人が手紙を出しに来たんだけど、私、バッグの中の別の封筒の方が欲しくなって、魔法で少しだけぼんやりしてもらって、そっちをポストに入れてもらったのよ」
「えぇ……」
妖精さんに悪気はないのだけど。
「手紙じゃない物をポストに入れさせるなんて、女の人、困ってるんじゃない?」
私は郵便ポストの妖精さんの悪戯を咎めて言う。
「平気よ」
妖精さんは答える。
「つまらない会社の書類だったもの。持ってた人も、つまらない物だと思ってるに決まってるわ」
「そうかな」
「そうよ」
そうかも。
#73
駅の前を歩いていると、
ガンガンガン!!
とコインロッカーのドアが内側から激しく叩かれていた。
見回したけれど、誰も気にしていない。私だけしか聴こえていない。
放って家に帰ると、
ガンガンガン!!
家の郵便受けが内側から激しく叩かれた。
帰るのをやめた。また歩き出す私。
#74
踏切が好きじゃない。
生きた人達が遮断機のこちらで待っているように、遮断機の中には死んだ人達が待ってる。
駅が好きじゃない。
生きた人達がホームで待っているように、線路の上で死んだ人達が待ってる。
あんまり前に立たない方がいいよ。
電車が来た途端、『引っ張られる』から。
#75
道の真ん中に、女の人の幽霊が立っていた。
頭の右側が欠けた女の人と、頭の左側が欠けた女の人の、互いの傷がくっついて、茫と立ち尽くしていた。
死んで自分の形を忘れてしまって、そのまま欠けた所を補おうとして、こんな事になった。
自分を紡げないから、欠けは他の何かで補うしかない。
#76
公衆電話の受話器が外れていた。
コードでぶら下がった受話器の、耳に当てる所から、長い髪の毛が出ている。
見ていると、ずるる、と髪の毛が受話器の中に、呑み込まれるようにして引っ込んだ。
途端、私の携帯電話が鳴った。
出るつもりはない。
#77
黄昏刻に弱々しい月が浮かぶと、どこからか黒いガラスに似た皮膚をした子供のような異形の群れが現れて、細い腕を月に掲げて、人間の耳では正しく聞き取れない声を上げ始める。
人間の喉では発音できないそれは、月の本当の名前だ。
異形の群れは、月を賛美する。そして月に、輝く力を与える。
満月が昇って、煌々と夜を照らすと、全ての異形は姿を消す。
冴え冴えとした冷たい光の中で、この世のモノではない全ては搔き消える。
満月の夜の、明るい月の下で悪い事をする化物はいない。
満月の夜の、明るい月の下で悪い事をするのは、いつだって、人間だけ。
月の光の下を、傘を差して歩く。
日の光では体が焼けるけど、月の光では心が焼ける。
どっちも苦手な子はいるし、焼き過ぎは良くないに違いない。
傘をくるくると回すと、弱いモノたちが、地面に落ちた傘の影の中に、ひし、と集まってきた。
#78
世界は、たくさんの物語の連なりだ。
人に見られたくない時は、それさえ知っていれば、物語の隙間に入るのは簡単。
ほら。もう誰にも見られなくなる。
ただ、隙間には物語に入れない「できそこなった」モノたちがいっぱい押し込められているから、気をつけて。見つかったら、大変なことになるから。
人間は世界という物語の一部で、物語の連なりの隙間には、たくさんの物語になれなかった「できそこない」がいる。
みんな物語に入りたがっていて、ときどき入り口を見つけては、こっそり入り込んでる。
もし人間に見つかったら・・・捕まえて、連れて行くよ。
こっそり入ったのが、バレないように。
#79
世界の隙間に落ちてしまった人がいた。
時々いる。必死で元の世界に戻ろうと出口を探している。
教えてあげようと声をかけたけど、声も身振りも届かなかった。
ああ。あの人は『見えない』人だから、向こうに行ったら聞こえないんだ。
そこにある出口も見えないんだ。
立ち去るしかない、私。
#80
お葬式をしている家の前を通った。みんな悲しそう。
可哀想に。みんな私みたいに『見え』ないから、死が悲しくて怖いのだ。
死が悲しくて怖いのは、死が『お別れ』だからだ。
みんな私のように『見え』るようになればいいのに。そうすれば『お別れ』じゃない。
死が『お別れ』じゃないとみんなが気付けば、死を悲しんだり怖がったりしなくて済む。そうなるのは簡単。『見える』ようになる事。
でもそれだけじゃ駄目。もう一つ『どんなに姿や形や心が変わっても、その人だと判ってあげる』事。その人を紡いであげる事。どっちかと言うと、そっちの方が大事。
人も世界も物語。人は死ぬと紡ぐ力が無くなるので、物語の外に行ってしまう。
肉の形が無いので、自分の形を忘れて、やがて溶けてしまう。
ほとんどの人は、自分の形を忘れてしまう。
でも溶けても、その人はその人。
ちゃんと、見てあげて。
#81
時々、私と同じモノが『見える』人を見かけることがある。
大抵、人間とかけ離れたカタチのモノを見ると、その人は驚いたり、見ない振りをして逃げて行く。
道で何人も肩を組んで、仲良く笑っている若い人たちを見た。
どうして逃げて行かないのかな。全員あんなに心のカタチが違うのに。
みんな、人の心の形が見えていないみたい。変なの。
私は道行く人が違うものにも見える。動物。物品。機械。形の無い物。混ざり物。
皆が『異形』と言ってるものは、皆の中にある。
動物と違って人間が色々な服を着ているのは、きっと、人間の心のカタチが外に染み出したからじゃないかなと思う。
#82
人間じゃないモノって、怖がってる人が好きなモノが多い。
あの子たちは自分の形が自分では分からないから、自分を見て反応する人を見ると、自分の形が見えた気になって嬉しいのだ。
人を介して自分を見ようとする。
強い自分が見える気がする。
でも。
人間にもそんなのがいるよね。変なの。
#83
目を閉じると、瞼の裏に砂嵐が見える。
古いテレビみたい。
いつか、どこからか届いた電波を受信して、別の世界の番組が映るのではないかと、ずっと待っている。
#84
破られた楽譜のノートを拾った。
五線譜は、小川を泳ぐオタマジャクシのようだ。自由で朗らか。
破れて不完全なそれを口ずさみながら、小川に行って楽譜を浸した。音符がノートの五線譜から、川に泳ぎだした。
私は、それを見送る。
いずれ蛙になって、不完全な歌を歌うだろう。
#85
砂場で男の子がトンネルを作っていた。
見ているとトンネルから汽車が出て来た。楽しいお客をたくさん乗せた、男の子の想像の汽車。
トンネルを出て想像の線路を走る。
砂場から、外へ、空へ。
「帰るよ!」
ママが男の子を呼んだ。
想像の線路はバラバラになって、汽車もお客も落ちて行った。
#86
「こんにちは、何してるの?」
一人を虐めている小学生たちを見つけて、私は挨拶した。
虐めっ子たちが、わっ、と逃げる。残された虐められっ子は、赤い顔でお辞儀をしてから、去って行った。
世界は、物語。
だから、言葉を投げ入れるだけで、世界は変わる。
#87
「おはよう」
「こんにちは」
「こんばんは」
私は世界に言葉を投げ入れる。世界を変えるために。
「いってきます」
「ただいま」
もっと世界が良いものに変わりますようにと。
願いの泉に硬貨を投げ入れるように、祈りながら世界に言葉を投げ入れて。
世界に立った波紋を、私は見つめる。
#88
「ただいま、お母さん」
家に帰ると挨拶する。
「ただいま、お爺ちゃん」
「ただいま、お婆ちゃん」
皆に挨拶する。
「ただいま、隙間の人」
「ただいま、黒い人」
「ただいま・・・」
お母さんが泣き出したけど、私は言葉を投げ入れ続ける。
お父さんとお母さんが、皆に食べられてしまわないように。
#89
今日も私は家を出て、散歩道を行く。
私が家にいると、お母さんが怒る。そしてこのままだといつか、私を怒るお母さんを、お母さんを庇うお父さんを、皆が食べてしまうだろう。
家にいる、私を庇ってくれる、優しい皆。
怒るお母さんを皆に見せないように、私はできるだけ家にいない方がいい。
#90
私はお母さんが死んでも、お別れでないと知っている。
でもお母さんは『見えない』から、きっと死ぬと、自分自身とお別れしてしまうだろう。
だから、みんな待って欲しい。
お母さんが『見える』ようになるまで。
お母さんはきっと、まだ『見える』ようになっていないだけだから。
全ての人が『見える』ようになるまで、待って欲しい。
きっと皆、まだ『見える』ようになっていないだけだから。
そうすれば、世界はもっと優しくなるから。
人も、人でないモノも、自分には見えないモノに、自分を見てくれないモノに、優しくできない。きっとただそれだけだから。
私は待っている。皆が、お互いに知る日が来るのを。
正常なんか無い、同じものなんか無い、全てはみな異形なのだと。
全ての人と人でないモノが魔女の目を持って、自分と皆それぞれが、誰一人同じではない、たった一つの異形なのだと知る世界。混沌として優しい世界。それが来るのを待っている。
#91
全ての境がなくなる世界。
全てが違っていて、違いなんか意味がなくなる世界。
「そうなったら、きっとヨハンも、もう何も怖がらずに済むよ」
私はヨハンに言う。
ヨハンは寝床の奥に行って、出てこなくなった。
ヨハンは人間と同じように賢い犬だから、人間と同じ悪いところを持っている。
私は全ての存在が互いの全てを『見る』事ができる世界を待ちながら、今日も散歩に出る。
その世界ではきっと、私には見えないモノも見ることができる。
存在しているはずなのに、私には見えない、魔女の目では見る事ができないモノを。
例えば――――怒っても泣いてもいない、お母さんを。
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