小さな魔女の散歩道〜もう一人の魔女

◆1

ため池の脇に、靴と遺書があった。

池の水はすでに静か。

遺書を拾い上げて読んだ。


『私の中の泡が、私を苦しめるのです』

『お腹の中でぐつぐつと泡が湧いて』

『胸の中を上がって、頭の中に達して、脳をぐつぐつと壊すのです』

『私の脳は穴だらけになって、私が私でなくなるのです』


『もう体の中に泡がある事に耐えられない』

『水に体を沈めます。そうすれば体の中から泡を追い出せるから』

『そんな事をすると死ぬかもしれません』

『でも、もう』

『死んだ時のため、手紙を残します』


こぽこぽと、水面に池の底から泡が浮かんだ。

私はじっと、それを見つめる。


……



◇2

この街は夜になると。

黒い服を着た、小さな『魔女』が歩く。


神様を信じる祖父は、

「お前に悪魔が憑いている。魔女になってしまうぞ」

と棒で殴りながら言い。

自分の正しさを信じる母は、

「黒い服で夜歩きなんて、魔女じゃない。みっともない」

と吐き捨てた。


私は自分を魔女と思った事はない。でも正しい二人が言うのだから、きっと魔女なのだろう。


私が夜に出歩くようになったのは、いつの頃からだろうか。

今は小学生。

家族の異物だった私は、親が仕事から帰って来る時間になる前に家を出るのが習慣になっていた。

靴を一つ玄関に揃えて。

部屋のドアには鍵をかけて。

「開けるな。入るな。ノックするな」と、ドアの表に、張り紙をして。



私は夜の街を歩く。

人を避けるようにして。人に紛れるようにして。

そして、私は見る。人の世界の異物であり、おそらく歪んでいるのだろう私は、同じく歪んでいる人間と『目が合う』。もしも私を魔女と呼ぶ理由があるとしたら、たった一つ、これだろう。



目が合うと、私は『彼ら』が『それ』と判る。

そして大抵、『彼ら』は私を同類と認識する。

自分が歪んでいると認識している者もいるし、していない者もいる。ただ『彼ら』は自分の同類がこの世に殆どいない事だけ認識していて、見つけた数少ない仲間である私に、自分の中の異物について話すのだ。


だから。

私は、狂える『彼ら』の話を聞く。

私は、狂える『魔女』として振舞う。

彼らの中の異物の、異物である彼らの、ささやかな宿りとなるように。



私は自分を魔女だと思ったことはない。でもこうして魔女として振舞っている私は、きっと魔女なのだろう。



◆3

藪に女の腕と脚を埋めている男がいた。

「手と足ばかりなのね」

「体はコレクションしてるんだ。これは余ったゴミさ」

「トルソみたいね。人形ではいけなかったの?」

男は気分を害した。

「俺はな、生身の女が好きなんだ。女の人形や絵なんかが好きな、気持ち悪い奴らと一緒にしないでくれ」


それから男は、フィギュアやアニメや漫画、いわゆるオタク趣味への嫌悪を何時間も吐き続けた。彼らの趣味がいかにおぞましいか。いかに気味悪いか。いかに社会の害悪であるか。

「生身の人間でないものを好きになるなんて異常だ」

男はそう断言した。切断した何本もの女の手足を埋めながら。



◇4

駅前で、兵器の廃絶を訴える演説。

「人を殺すために作られた物を容認めるわけにはいきません!」

私には意味のある言葉とは思えない。

およそ人がその手にして、同族殺しで使われなかったものはない。



◆5

その男は作家だと名乗った。

「僕の好きな言葉を教えてあげようか。『功臣粛清』」

「物語のためにとても役立ってくれた登場人物を、無慈悲に殺すんだ。その時に僕は、これ以上ない快感を覚えるんだよ」

「そいつはきっと、僕に『何故』と問うだろうね」

「その時の顔を想像すると、ね・・・」



「君は変わった子だね。何故かな、つい色々と話してしまうよ」

ひとしきり話をしてから、最後に作家の先生は満ち足りた表情で言った。私と目が合った意味が分かっていない。この人は、自分が歪んでいる自覚がない。さっき言った話も、ただ創作上の事だと思っているのだ。だがきっと、そうではない。



◇6

飲食店で、男性客が平身低頭する従業員に向かって「誠意が見えない! 誠意を見せろ!」と怒鳴っている。女性が携帯電話で「彼が2分以内の返信も、どこで誰と会ってるかの証拠写真も、メールとチャットを全部見せるのも嫌がる。誠実じゃない」と愚痴っている。往々にして人は奴隷のみを誠実と呼ぶ。



◆7

夜の繁華街の混雑した人通りの中、一人の女性と目が合った。

初対面の女性と何の示し合わせもなく同時に二人で人混みを外れ、人気のない公園ベンチで隣り合って座った。女性は自分の身の上を話したが、普通の人だった。会社員。実家暮らし。私と目が合う理由はないように思えた。


普通の女性だった彼女は、しかし一点、普通ではなかった。

「私、人が信用できないの」

「昔、家のペットを誰かに殺されたことがあって」

「犯人は分からなくて。周りに人がたくさんいるでしょ? でも、もしこの中にチロを殺した人がいたらって考えると」

「誰も、全然、全く、信用できない」



◇8

人を眺めていて、ふとある男性の所作が引っかかる。

道路にツバを吐いて、また別の場所で自分のバッグを地面に下ろす人は、別の自分がそこで同じようにツバを吐いたのではないかと考えないのだろうか?



◆9

小学生らしき男の子が、こんな夜に、寂しい郊外の道端でしゃがんでいる。

見ると懐中電灯で茂みを照らして、アマガエルを見つけて捕まえては潰して殺していた。瓶の中には一杯のカエルの死骸。

「何をしているの?」

「アマガエルを殺してる」

「なぜ?」

「運動会が嫌だから。雨が降るように」


「アマガエルを殺したら雨が降るぞってじいちゃんが言ってたから」

「だからたくさん殺せば運動会が中止になる」

「これは五本めのビン」

それはとても小さいけれど。

でも確かな、狂気の卵。



◇10

新興宗教の、奇妙な善意に満ちた歪な標語に彩られた施設と、その中を行き交う敬虔な人々を、通りすがりに横目で眺める。

私は、神様は信じてもいいと思っている。

でも、宗教は信じるに値しない。



◆11

痩せた初老の絵描きが、夜の公園で画架を立てていた。カンバスには女の肖像が描かれていたが、その顔の部分がズタズタに切り裂かれいて、絵描きはその前に悄然とうなだれて立っていた。

「それは、あなたが?」

「違う。僕じゃない」

「それなら、誰が?」

「その絵自身だよ」


「その絵のモデルは美しい女性だった。だが酷い女性だった。僕の大切な物を一つ一つ奪って壊しては喜び、最後には僕の前から消えた。でも彼女を愛していた。僕は完璧な美貌である彼女を絵に描こうと思った」

「でも絵が完成するとね」

「絵の彼女は、嗤いながら僕が描いた自分の顔を切り裂くんだよ」



◇12

「子供の頃は幸せだった。何も知らなくてさ」

サラリーマン風の男性の雑談。

何も知らない事を幸せと言う人がいるが、私は知らない事で幸せだった事はない。子供に確固たる自我があるとも信じてない。顔ぶれの同じクラスが、担任が変わるだけで全く違った。

私なら、七大罪には『無知』を入れる。



◆13

道端に立っていると、一目で高価と判る大きな花束を抱えている軽薄そうな若い男性と目が合った。

「なあなあ、お嬢ちゃん。どう? 凄い花束だろ」

「……そうね」

「そうだろ。これをもらって喜ばない女はいないだろ」

「そうかもしれないわね」


「そうだろそうだろ。高価かったんだぞこの花束。俺の彼女に渡そうと思って買ったんだ。さっき喧嘩しちゃってね」

「そうなの」

「家に金がなくて喧嘩になったんだ。でも豪華な花束で仲直りだ」

黙って私は少し首を傾げた。

子供でもおかしいと思うけれど、この人は分かっていない。



◇14

二人連れの年嵩のビジネスマンが、部下の悪口を言っている。

「給料だけ一丁前に貰いやがって、ありゃ家畜だよ。餌もらうだけの動物。下等な動物!」

私は、家畜は下等な動物ではないと思う。

家畜になるには安住することを認識する知性が要る。

多分。高等な生き物ほど、たやすく家畜になる。



◆15

住宅地で、今まさに玄関先で帰宅しようとしている女性と目が合った。女性は話しかけてきて、自分の足元を指差した。

「ねえ、ここにある物って、あなたには見える?」

何もない。私は首を横に振る。

「地面だわ」

「そう……私ね、ここで人を殺したのよ」

「幽霊が見えるの?」

「違う」


「恋人の浮気相手を包丁で刺し殺したの。ここで。でもね、浮気相手なんかいないって言うの。私の妄想だって」

「人違いで刺した?」

「違う。『私が刺した女は存在しない』って。ここで女が死んでるのに、誰も見えないって言うのよ」

彼女は地面を指差した。

「今もここに、腐った死体があるのに」



◇16

ふと思う。

家畜と、それを世話する人間。

どちらが王様で、どちらが奴隷だろうか?


家畜は、その時が来れば殺されると言うだろうけど。

でも王様だって、その時が来れば殺される。



◆17

駅の側に立つ私。フェンス向こうに見えるホームが騒ぎになった。痴漢の疑いをかけられた男が、駅員に囲まれて無実を叫んでいる。


「俺が触るわけないって!」

「女の体が柔らかいって言ってもさあ、挽肉には及ばないだろ?」

「挽肉の方が柔らかいに決まってるだろ?」

「挽肉のさあ……!」



「だから女の体なんかより、挽肉が……!」

揉め事を見ていると、フェンス越しにホームの男と目が合った。

男は一瞬驚いた表情をした後、仲間を見つけたかのようにニヤリと笑って、興奮していたのがピタリと落ち着いて、そのまま口をつぐみ、大人しく駅員に連れられて行った。



◇18

年配の夫婦がお店から出てきた。

「こんな物があんな値段するなんて馬鹿げてる!」

奥さんの買った物が理解できないようで、老人がしきりに文句を言っている。


例え話を思いついた。

ある人が壺を買ったのを見て、別のある人が笑った。

見ろ、あいつは金を出して「空っぽ」を買ったぞ、と。



◆19

夜の道端にひっそり立って行き交う人々を眺めていると、同じように人々を眺める大学生くらいの女の人がしばらく私を見つめて、それから近くにやって来た。

「あなたみたいな子が、こんな時間に何してるの?」

「別に。家にいたくないだけ」

「そうなんだ。やっぱりね。私、人間観察が趣味なの」



「そう」

彼女は趣味の人間観察について色々話しかけてきたが、私は彼女と話す気は無かった。人間観察が趣味の人間など碌な人間ではない。私も含めて。

それに、それを他人に言ってしまう人間は、本当は観察する気がないか愚か者だ。

観察対象に自分の存在を知らせるほどの愚行はないのだから。



◇20

酷い殺人事件を報道する店のテレビを見ながら酔客が言う。

「あんな事する奴は人じゃねえな」

違うと思う。人だ。私は人の可能性を信じている。

どんな善も、悪も、正気も、狂気も、全て人だ。どれだけ道を外れたとしても、それは人という存在がそれだけの器を有していたという証明に過ぎない。



◆21

その男性は、公園のホームレスの間では「王様」と呼ばれていた。敬称ではない。あまりにも横柄だったからだ。昔は裕福だったらしく当時のことを自慢にしていた。彼はひどく嫌われていたのと自慢話が過ぎたことで、まだ少しは金を持っているのではないかと考えたホームレス仲間に殺された。



生前の彼が、私に話したことがあった。

「俺は金持ちだった時は最低な人間だった。今はホームレスになるまで落ちぶれたが、一度出してしまった最低な自分を、金がなくなったからといって引っ込めるのは誠実な態度ではない」

根は誠実な人間だったのだろう。誠実なまま道を外れた。どこかで。



◇22

周囲の人の目も憚らずに、往来を号泣しながら歩く女性。

強い感情の熱量。その熱量は、必ずいずれ、彼女自身を毀すだろう。


絶望に耐えるのに、最も良い薬は絶望だ。

心の内を、魂を、低温に保っておけば、外を吹き荒れる吹雪の冷たさにも耐えられる。



◆23

ベンチで本を読んでいた女の人が、私に話しかけた。

「お願いがあるんだけど、この本の最後を読んで、主人公が死ぬか死なないかだけ教えてくれない?」

私は首を傾げる。

「思ったより主人公に感情移入しちゃって、それを知らないと、もう読めなくて」

「死ぬ話は辛い?」

「違うの。逆」


‪「物語の主人公の人生って、平穏でないものでしょ?」‬

‪「それが、辛くて」‬

‪「だから私、主人公が死ぬ話が好きなの。もうそれ以上、酷い目に遭わないから。主人公の死なない話は嫌いなの。だって、誤解、嘘、悪意、裏切り、すれ違い・・・死ぬよりももっと酷い目に遭うことが決まっているのよ」‬



◇24

路上でミュージシャンが歌う。

「凍りついた君の心を溶かしたい」

私は思う。凍った心が溶けたなら、それはもう同じ心ではない。

歌は、『君』の心はいらないと歌っている。『君』の見た目だけを愛していると、そう歌っている。



‪◆‬25

‪「たすけてえ! だれか、たすけてえ!」‬

‪突然民家の玄関が開いて、叫び声を上げて若者が飛び出してきて、通行人が見ている目の前で路上に寝そべり、手足を振り回した。すぐに家から母親と兄弟らしい人たちが出てきて、追従的な笑顔で通行人に謝りながら、若者を引きずって家に戻って行った。‬



家族に引きずられてゆく若者と目が合った。

それから引きずってゆく家族と目が合った。

若者は、普通だった。

おかしい環境におかれたら、普通におかしくなる。普通というのは、そういうこと。



◇26

若者二人が自動販売機の傍で立ち話をしている。

付き合っている恋人の愛が本物か、嘘をついて試す計画を立てている。

「あれだよ。愛っていう黄金が本物か試す、試金石、ってやつだね」

「ひゅーっ」


試金石というのは。

金を傷つけて試す。



◆27

玄関に黄色のテープが張られた家の前で、奥さん二人が話をしていた。

「まさか、あの子があんな事件を起こすなんてねえ・・・」

「すごく真面目でいい子だったのに、どうしてあんな事」

「分からないものねえ」


ああ。私はここに住んでいた中学生の息子さんと話をした事がある。


彼は規則や約束を守る子だったが、善人だからではなかった。彼は人が大嫌いで、そういったものを破ることで発生する人との一手間が嫌で嫌で仕方がないから厳守していた。

「でも、守って発生する面倒もあるわ」

「そんなことになったら、僕は何するか分からないよ」

あったのだろう。何かが。



◇28

今夜も路上でミュージシャンが歌う。

「明けない夜はない。終わらない悲劇はない」


悲劇はいつか終わる。

でも幸福もいつか終わる。

つまり輪になって、悲劇は延々と続くのだ。

昼と夜さえも、何もかもが完全に終わってしまう、その時まで。



◆29

「ぼくね、ぼーっとしてて、いっつもぼーっと友達について行ってるから、知らないうちに友達が悪い事してる時があって、いっつも一緒に悪いことした事になってるんだ」

「それで、いろんな友達と悪い事を一緒にしたから、ぼくが一番悪い感じになって」

「学校、変わらなきゃいけなくなった」


玄関に落書きされ、夜逃げのように引っ越しの準備が進んでいる家の前で座り込んでいた男の子が、私に話す。私は沢山の人の罪を背負って断罪される罪のない人というものが、この世界にいることを知っている。そして、そんな人が何と呼ばれるかも。

『救世主』

私は、彼を慰める言葉は持っていない。



◇30

道路に転がって泣き叫ぶ子供がいた。

親の怒鳴り声に必死で従う子供がいた。


人は生まれてから物心つくまでの間に、どちらかを学んでいる。

自分の望むようにすれば望みのものが手に入ると学ぶか、他人の望むようにすれば望みのものが手に入ると学ぶか、そのどちらかを。


なら、私は?



◆31

繁華街に酔っ払いの一団。

「もう、この子は酔うといつもこれ」

その中の一人の女性が酔うとキス魔になるらしく、同行者の男性にも女性にもキスをして、そのうち無関係な通行人にもキスをする。

目が合った。

「あなたにもキスしていい?」

近づいてきた彼女から、お酒の匂いはしなかった。


「あなた、誰にでもキスしてるの?」

「まさか、誰にでもってわけじゃないわ」

私が質問すると、キス魔の彼女は、微笑んで答えた。

「キスって『味見』だもの」

「味見?」

「誰も生ゴミの味を見てみたいなんて思わないでしょ? 私がキスするのは、少しでも食べてみたいと思った相手だけよ」



‪◇‬32

‪遅い時間に帰る、進学校の生徒たち。‬

‪固まって談笑しながら歩く集団と、その後ろを一人で歩く男子生徒。彼が前の集団を見ている目は、自分が群れない狼であると主張している。‬


‪でも。‬

‪狼の毛皮も羊の毛皮も着ていない人間は、自分が一匹狼なのか、群れからはぐれた羊なのか、自分では分からない。



◆33

「俺って自由人でさ、維持に手間のかかるものが嫌いで、そういうものは全部避けるか手放してきたのよ」

「家も、車も、女も、オシャレも、趣味も、仕事も、友達も、何もかも全部ね」

「でもさ、気づいちゃったんだよ」

「一番維持に手間がかかるのは、この俺の体なんだよね」


橋の上で会った浮浪者風の男性は、そう私に言うと、橋から飛び降りた。紐で体にくくりつけた、ゴミから拾った鉄の金庫を抱えて。



◇34

顔に痣を作った女性が涙ながらに電話で訴えている。

「もう耐えられない……でも子供がいるから、父親を取り上げるわけにはいかないから……」

子はかすがい、という言葉があるけれど、かすがいを見た事があるだろうか。両端が尖ったコの字型の鉄釘を、無理矢理打ち付けて繋ぐ残酷な道具。



◆35

若い女性と目が合った。彼女はマンションの上の方にある階を、どこか遠巻きにするような微妙な表情で見上げていた。通路とドアと蛍光灯の明かりが並んでいるだけで、何の変哲も無い。誰か人が見えるわけでもない。

「何を見ているの?」

「あ、勘違いしないでね。ここ、私が住んでる所だから」


‪「私ね、このマンションの3階に住んでて、子供の頃にお母さんから、4階より上には化け物が住んでるから行っちゃダメだって教えられてたのよ」‬

‪「もちろん、住んでる階より上に行かないように嘘を教えたって、今では分かってる」‬


‪「でもね。今でも」‬

‪「見えるのよ。4階より上の階に。化け物が」‬



◇36

ある家。通りに面した壁に、細かい文字がびっしりと書かれた張り紙が、一面に、大量に、隙間なく貼ってある。内容は世界の愛を訴えている。そして政権を批判し、隣人を名指しで攻撃し、自分を盗聴するのはやめろと恫喝している。


多分。

自分の善良を疑わない人の前にのみ、疑いのない悪は現れる。



◆37

血まみれの鋏を持った女性が立っていた。

「……何をしたの?」

「これ? 彼とあの女が結婚するのを阻止したのよ」

女性は嬉しそうに笑った。

「殺したの?」

「子供が何てこと言うの。そんな恐ろしいことはしないわ」


「彼とあの女が結婚できないようにするには、どうすればいいと思う? 私、とても簡単な方法を思いついたのよ」

女性が出して見せたのは、血まみれの一本の指。

「あの女の左手の薬指を切り取って来たの。薬指がなければ指輪が嵌められないから、もう結婚できないでしょう?」



◇38

年配の女性二人。片方がもう片方を熱心に勧誘している。

「教祖様のその言葉でね、ずっと悩んでた私の迷いが吹き飛んだの」

私が思うに。他人からの訓えで目が開くのは、閉じた苦悩に他人の無理解が穴を開けるからだ。

それに感謝するのはいいと思う。でも、その無理解に心酔するのは、愚行だ。



◆39

路上で若い男性が、恋人に酷い暴力を振るっている。鼻が折れて血だらけで泣きながらうずくまる女性を、怒声を上げながら殴り蹴る。私と目が合うと、男性は怒りを隠し切れない顔のまま、言い訳するように足元の女性を指差して言った。

「こいつが悪いんだ、とんでもない事をしやがった」


「その人が殴られるほどの事を?」

「ああ、こいつ、俺の大切な思い出の品を壊しやがったんだ!」

「思い出の品?」

「ああそうだ。俺が事故で死にそうになった時、俺が目を覚ますようにって、こいつが時計買って俺の枕元に置いてくれたんだ。その大事な時計を、こいつ不注意で壊しやがったんだ!」



‪◇‬40

‪お通夜が行われている。‬

‪子供を残して両親が死んだと、痛ましげな話が漏れ聞こえて来る。‬


‪同じ夜を、家にいられない子供が徘徊している。‬


‪私は知っている。‬

‪後者の彼ら彼女らにとっては、死んでいるだけで最良の家族だ。‬

‪邪魔もしなければ、悪口も、暴力もないのだから。‬



‪◆‬41

‪「私はね、弱さを見せ合ってこその夫婦や恋人だと思うのよ。でも彼は強がって、私に弱みを見せてくれないの。でもそうされると、私は信頼されてないんだな、って思っちゃって」‬

‪その女性は運転していた車から降りてきて、私と目が合うと、そう話しかけてきた。‬


‪「弱みを見せ合ってこその信頼関係なのに、彼は弱みなんかないって言い張る。だから、作ることにしたの」‬

‪彼女の運転する車に轢かれた男性は、腕と足があらぬ方向に折れていた。‬

‪「これなら、すごい弱みだと思わない? もちろん私、愛する人の弱みを全部、受け入れられるわ」‬



‪◇‬42

‪老女たちが噂する。‬

‪「あそこの子、事故で死んじゃったって」‬

‪「ああ、あそこのお父さん猟とかするじゃない? 殺生のバチが当たったのよ」‬

‪バチという超常の因果が子に報いたとすると、子のものではない責を子に負わせたのは親ではなく神だ。人間は親の罪ではなく、残酷な神の方を責めるべきじゃ?‬



◆43

夜の散歩が、遠出をして明けてしまう日もある。空が薄明るい早朝の住宅地で、一軒の家の玄関先で中学生の女の子が呼びかけていた。

「ねえ、不登校なんかやめて、一緒に学校に行こうよ!」

「行かねえよ! 帰れ!」

家から男の子が怒鳴り返す。女の子は私に気がつくと、諦めたのか立ち去る。


「なあ、おまえ、今の奴どう思う?」

ドアチェーン越しに、迎えの女の子と押し問答をしていた男の子から声をかけられた。

「迎えに来たんじゃ? 早すぎる気はするけど」

「違うんだよ!」


「俺は不登校じゃないし、あいつは知らない奴なんだ! あいつが言ってる学校なんかどこにもないんだよ!」



◇44

駅前の路上でトランプを操るパフォーマー。

観客に絵柄を見せて、裏にして戻せば、もう違う絵柄。


ずっと思っていた。トランプの表と裏は、本当は逆だ。

人に見せている方は、全部同じ柄の方で。全部ちがう絵と数字は、人には見せない方。どう考えても、裏はこちらの方でしょう?



◆45

若いが高級品を身につけた、やり手のビジネスマン風の男性。このエリアで一番目立つタワーマンションの前に小型トラックを停めて、会社の後輩に荷物を積み込ませている。

「今度は何階でしたっけ?」

「40階」

「高いっすね」

「俺な、住むならできるだけ高い所じゃないと気が済まないのよ」


引っ越し手伝いの後輩たちが乗ったトラックを先に行かせて、自分の高級車に乗り込もうとした男性は私と目が合った。

「お嬢ちゃん、どっか行くなら送るよ」

「結構よ。高層階が好きなの?」

「ああ、高層階は安心するんだ」

男性は笑った。

「死にたくなったら、飛び降りたらすぐ死ねるだろ」



◇46

カラスが路上に落ちているアクセサリーをつついている。街灯の明かりを反射してアクセサリーがキラキラ光る。

近づくと警戒して振り向いた。

私を見るカラスの目が、緑色に光る。


自分たちの目がこんなに光っていることに気づいたら。

きっとカラスたちは、互いの目をつつき合うに違いないのに。



◆47

木造家屋の周りにガソリンを撒いている男の子がいた。小学生くらい。顔には激しい憎しみと悲しみ。

「人に言うなよ。あと止めるなよ」

「言わないし、止めないわ。そんなにこの家の人に恨みがあるの?」

「恨みなんかないよ」

「誰の家なの?」

「友達の爺ちゃんち」


‪「恨みもない、友達のお爺ちゃんの家に、どうして火をつけるの?」‬

‪「俺の爺ちゃんが死んだんだ。大好きな爺ちゃんで、すごく悲しかった。なのに友達の爺ちゃんは生きてるから、何で生きてるんだよって、公平じゃないって思って、すごく悔しくて……」‬


‪「だから、殺そうと思って」‬

‪「そう」‬



◇48

美術を志す二人の学生が、夜の街で夢を語り合っている。

理想。目標。願望。成し遂げたいこと。


夢というのは、不幸の種だ。

叶わなければ絶望の、叶えば空虚の、あまりにも狂おしい花を咲かせる。



‪◆‬49

‪小学生の男の子が、夜中に一人で庭に出ていたので、話しかけた。‬

‪「あなた、小鳥が嫌いなの?」‬

‪「ううん。大好き」‬

‪「ならどうして切っているの?」‬

‪手を血塗れにしながら鋏で小鳥を解体している。‬

‪「小鳥って可愛いでしょ? だから」‬

‪「どうして可愛いのか、分解して調べてみようと思って」‬


「なるほどね」


私は答えた。


「それは、道理だわ」



◇50

捨てられた子猫の入った段ボールを、女子学生たちが囲んでいる。

しきりに可哀想がっている。


心やさしい少女たちはいつだって、巣から落ちたヒナを哀れんで、拾って世話をして、ヒナの死を悲しむ。私のような冷血な娘は、最初から獣医のところに持っていくのだけれど。



◆51

廃ビルの入り口の階段に座り込んで、深く俯いている男性がいる。その両手とシャツの袖が、血で汚れていた。

「どうしたの?」

「人を殺してしまったんだ。とても後悔して、自己嫌悪してる」

「そうなの」


「でも、それじゃあ何で」

「貴方の顔は、笑ってるの?」



‪「僕、悪いことをしてしまった時の、自己嫌悪や後悔が好きでさ」‬

‪「なぜ?」‬

‪「だって、悪いことをして自己嫌悪になるのは、僕が正常だってことの証明じゃないか?」‬


‪「それが、たまらない快感で、安らぎでさ」‬

‪「やめられないんだ。人殺し」‬



◇52

産婦人科の前を通る。

遠く赤ん坊の泣き声が漏れ聞こえてくる。


人は泣きながら生まれてくる。

きっと人は皆、生まれてくる苦痛と恐怖で、全員発狂しているに違いないのだ。



◆53

墓地にある無縁仏の墓の前で女性が祈っていた。信心深い様子。でも、こんな夜中に。

「こんな夜にお参り?」

「ええ、あまり見られないように」

「なぜ?」

「ここに入っている、ある女の子のために祈りに来ました」

「天国へ行けるように?」

「いいえ」


「その子に、悔い改めるようにと」



「彼女は家族にも友人にも先生にも恵まれず、ひたすら人から傷つけられて自分の命を絶ちました」

「でも彼女は本当に優しい子で、誰も人を恨まなかった。彼女の遺書は自分を傷つけた誰でもなく、神様を恨んでいました」


「だから、彼女は」

「地獄に落ちたに違いないのです。神を呪ったのだから」



‪◇‬54

‪私がその深い藪の中に、その死体を見つけてから一ヶ月が経とうとしている。‬

‪腐敗し、虫に貪られ、乾燥してしまっているが、まだ人の形を保っている。この藪を見下ろす道路から落ちた人。その死体。でも誰も見つけられない。誰も探しに来ない。‬


‪人間の消失は。‬

‪人体の消失よりも、遥かにたやすい。‬



◆55

にこやかに笑う男性と目が合った。目が合ったので話をした。聞けば、これから死ぬのだという。

「貴方は死ぬのが嬉しいの?」

「いいや。もちろん絶望だよ」

「だとしたら、これから死のうとしている人の顔には見えないのだけど」

「まさにそれが、僕が死ななければならない理由なんだよ」



「子供の頃、父に言われたんだ『お前が嬉しそうに笑ってると、父さんも嬉しい』って。うちは母が困った人で、いい家庭じゃなかったから、その言葉が嬉しくてね。それから笑顔を心がけた。辛い時も。悲しい時も。必死で」


「その父が、先日死んだんだ」

「そのとき僕の顔は、嬉しそうに笑っていた」



◇56

ホラー映画のポスター前で、きゃあきゃあと怖がったり、腐したりする集団。

「作りごとじゃん? くだらねー」

一人の男がそう言って冷笑する。

人の感情を作ることを作りごとと呼ぶのなら、そうかもね。


人は、現実でないことにも恐怖する。

でも、その恐怖そのものは、現実。



◆57

中学生くらいの少女が、私と目が合って、興味を引かれたのか話しかけてきた。

「こんばんは。こんな時間に何をしてるの?」

「人のことは言えないんじゃないかしら?」

そう応対する。彼女は色々と話しかけてきたが、つまらない、興味のない話ばかりだ。私はテレビは見ていないし、友達もいない。


初対面の少女の下らない話に素っ気ない答えを返していたが、何か私の答えの一つがツボにはまったのか、彼女は大いに笑った。彼女は名刺のような紙を取り出して私に差し出した。

「これは?」

「友達証明書」

彼女は言った。

「おめでとう。これは私の友達になる価値のある子にだけ渡してるのよ」



◇58

路上でミュージシャンが、永遠に変わらない愛を歌う。


永遠に変わらないものは、もはやその存在の本当の意味を失ってしまっているのではないかと、私は思う。逆にそうでなければ、永遠に存在することなどできないのだろう、とも。



◆59

いつか遺書を拾った池のほとりに来た。

自分の体の中、頭の中に泡が湧いて、自分が壊されてゆく妄想の果て、体から泡を追い出すため池の水に身を沈めた人。

事件にはなっていない。多分あの人は、まだここに沈んでいる。

眺めていると、


こぽり。


とあの時と同じ水面に泡が浮かんだ。


こぽり。

こぽり。


眺め続けると、泡は池の底から、何度でも浮かぶ。

池の底の死体が発するガスなのかもしれなかった。

ただ、私は思う。

もしかすると、あの人の体に湧いた妄想の泡は、今も尽きることなく湧いているのかもしれない。


これは、人を苛む妄想の泡。

これは、悪夢の泡。



◇60

いつも路上で歌っていたミュージシャンが、公園の木で首を吊って死んでいた。いつも愛と希望を歌っていたのに。



‪◆‬61

‪団地のそばで、夜中に抜け出した小さな女の子が、自分の足首に包丁を当てていた。足を切り落とそうとして、でもできずにいる。‬

‪「どうしてそんな事を?」‬

‪「お母さんが、悪い子だって、足に煙草を当てるの」‬

‪女の子の足は火傷だらけ。足だけ。‬

‪「だから足を切れば、もうお母さん、怒らないよね」‬



‪「そんなことしても無駄よ」‬

‪私は女の子に言った。‬

‪「どうして?」‬

‪「私のお爺ちゃんも、棒で私の腕に罰を与えてたの」‬

‪私は袖をめくった。‬

‪「だから私もあなたと同じ事を思って、切った。罰を与えたの」‬

‪切り傷。‬

‪「でもそれから罰は背中になったわ。悪い子はそれじゃないの。悪い子は……」‬



◇62

辛いことがあった人。

いま生きていることが辛い人。

道端で、隅っこで、みんな自分の身体を強く抱きしめている。自分を抱きしめて耐えている。

でも。


自分を強く抱きしめるべきではない。

強く抱きしめるほど、自分がどんどん小さくなってゆくから。



‪◆63

ベンチに放置された女性誌に、親友を殺害した女子高生の記事が写真入りで載っていた。いま話題の殺人事件。私は事件の前に、写真の少女と会っていた。月夜の晩、輝く小瓶をかざしていた。‬

‪「それは?」‬

‪「拾った。きっと、月の光を閉じ込めた瓶よ」‬


‪「月の魔法よ。きっと私に力と勇気をくれる」‬



月の魔法に勇気をもらった次の日。彼女は自宅で親友を刺し殺して死体を飾り付け、逃亡の末に捕まった。何があったのかは知らない。ただ確かに、彼女は必要としていた勇気を手に入れたのだろう。


見つけた勇気。もらった勇気。

私は自分のものでない勇気なんて、怖くて使えないけれど。



‪◇‬64

‪夜の繁華街を行き交う人々。‬

‪日常を謳歌する人。日常に倦み疲れた人。‬

‪日常が終わらないと疑わない人。日常が早く終わって欲しいと願う人。‬

‪でも。‬


‪日常とは終わらない現実ではない。‬

‪終わり続けている終わりの連鎖。生まれた時から崩れ続けている、焼け落ち続ける生の楼閣。‬



◆65

真夜中にベビーカーを押して歩く女性がいた。

ベビーカーに乗っている子供は白い。頭から足の先まで包帯。化学薬品の臭いと、死臭。

「それは、あなたの子供?」

「違うけど、そうよ」


「虐待されて死んで、棄てられてた子供を拾ったの。私はこの子を愛しているし、この子もきっと私を愛してる」

「私、人に愛される自信がなくて。でも虐待で死んだ子供なら、優しく世話する私を愛してくれると思って」


女性は、ベビーカーに乗せた死体を見て目を細める。

「愛して、くれるわよね?」

「そうかもしれない。でも」

私は答えた。


「それでも子供はきっと、本当の親を選ぶの。逃げられないのよ」



◇66

夜の高台から街を見下ろす。

夜空のような無数の光の中には数多の不幸な人生が混じっている。私の家の光も含めて。でも私は私。


私が考えるところでは。

生の全てが苦痛である時に、人が得られる最後のささやかな幸福は、自分が自分であることだけ。



◆67

知った顔と会った。同じクラスの女子。

大人びた容姿と服装をして、クラスの支配者的な位置にいて、そして私を目の敵にしている。明らかに高校生以上の男たちと繁華街を歩いていた。

「げぇ魔女じゃん。こんなとこで何してんの?」

「お前の友達? すげえ綺麗な子じゃん」

彼女の顔が歪む。



‪無視した。すれ違う時に彼女が呟いた。‬

‪「……死ねばいいのに」‬

‪「それを言葉にするのなら」‬

‪私は振り向いて、彼女の目を見た。‬

‪「貴女は、私を殺すべきだわ」‬

‪「!」‬

‪「言葉は、見えないし触れられないけど、貴女の意思で動く体の一部。手と同じ」‬


‪「あなたは刺したのよ。たった今。もうね」‬



◇68

私は仲直りの仕方が分からない。

人と仲直りをしたことがないから。


形だけでなく、本心から誰かと仲直りをしたことのある人間は、どれくらいいるんだろう?

私は行き交う人々を見ながら、思う。


……



◆69

月が天頂から下る頃、家に帰った。


家の中は寝静まっている。小学生の娘が夜に出歩いている間、家族は普通に暮らし眠っている。

反抗的で、自傷癖があって、学校では問題を起こし、不登校になった娘の行いを、両親は見ていない。見ないようにしている。見ないまま、口は出すけれども。


‪音を立てないように、幽霊のように家の中を歩いて、私は自分の部屋へ向かう。部屋へ帰るため。部屋へ還るため。‬

‪いっそ本当に幽霊だったならば、もっと平穏な心でいられるのに。私の心は肉体に囚われている。肉体は家族に囚われている。社会に、世界に囚われている。‬

‪私は自分の肉体を棺に入れる。‬



部屋に帰ってドアを開けた。

瞬間、私は動きを止める。自分ではない気配が部屋の中に残っている。

棚を見る。机を見る。引き出しを開ける。誰かが手を触れた痕跡。母親が勝手に調べたのだ。何か怪しいものがないか。


怒りと不快に震えて、唇を噛んだ。

私は家を飛び出し、また夜へと逃げ込んだ。



◇70

棺は死んだ人間の部屋で、部屋は生きた人間の棺だ。

棺を暴かれる事を呪わぬ死者がいるだろうか。

まして、ある死者が吸血鬼であるという証拠を探して棺を暴く行為は。死者の尊厳に泥を塗る最上級の行為だろう。


呪われろ。

呪われろ。

呪われろ。


たとえ私が、本当に吸血鬼であったとしても。



母、父、三歳下の妹。

家族とは、もう長らく『目が合って』いない。


きっと私は、もう家族とは分かり合えない。



血は水よりも濃いと言う。

そうだろう。知っている。粘りつく濃い血。へばりつくほど濃いヘドロ。どれだけ遠くへ逃げようとしても、私はしばしば、血溜まりの中で歩けなくなる。



◆71

夜道で一人の中学生に出会った。彼は家族に傷つけられ、夜に逃げ込んでいた。

「俺の親父は、家族は一つだって言ってる。一人の人間みたいなもんだって。俺もそう思う。なのに何で俺だけがこんな目に遭わせられるか、分からないんだ。妹は大事にされてるのに」

腫れた頰。切れた唇。空かせたお腹。


「家族が一人の人間というのには賛成してもいいわ。でも」

私は包帯を巻いた腕を見せた。

「私はこうやって自分の体から血を流さないと、生きていられない。私が正常ではないせいで」

「……」

「もしかすると」

私は言う。

「貴方は貴方の家族にとって、私の手首みたいなものかもしれない」



「貴方は間違いなく家族だと思うわ」

私は言った。

「私の手首と、同じように」

彼は気づいてしまった顔をして、その日のうちに包丁で妹を殺し、父親を殺し、母親に重傷を負わせた。一人の人間であった家族は、その一部であった彼による自傷行為で死んだ。



◇72

家族はひとつの生き物。

血の通わない手足は腐り落ちるけれども、家族に通う血液は何だろう?


血ではない。

情でもない。

愛でもない。


分からない。少なくとも、私には。



彼の事件を知った時、私が家族を殺すビジョンが浮かんだ。母を手にかける。父を手にかける。何も知らない妹を手にかける。だが、彼と違って私にはその資格はない。


おかしいのは、体(かぞく)ではなく腕(わたし)の方なのだから。


家族という殻の中で、私は異物だった。

異物の私には血が通わずに、すでに死んで腐敗している。腐敗した私が家族としてその姿を外に晒すことを、少なくとも母は許さない。外の世界も、おそらく許すまい。



ふと思う。この腐敗を覆い隠せば、私でも日の当たる世界で生きてることができるのだろうか? そうすれば、彼のように家族を手にかけずに済むのだろうか?


どうすれば隠すことができるだろう? 笑えばいいのだろうか? みんなそうしているように。笑顔の作り方など忘れてしまった私。



笑顔を忘れた顔で、うっすらと笑顔を作って、月に手を透かせた。有名な歌のパロディーのように。



笑顔を作れば、日の光は私を焼かないだろうか?

家族の中でも、外の世界でも、私は焼かれずに済むだろうか? 日の光に追い立てられて、家族を手にかけずに済むだろうか? この生を終わらせずに済むだろうか?



ただ。

もし。


もし、全てが潰えて、私が終わる時は。


そしてそれが、私が自らを終わらせるという死に方だった時は……


私は思う。

最後に私に手を下すのは、私が目盛のようにびっしりと傷を刻んだ、この手なのだろう。



そう、私は確信している。


否。

そう、あるべきなのだ。

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