善意と不安、鋭意。
λμ
鋭意:心をはげましてつとめること。
いつものように、どうでもいいであろう理由で
友人からであれば軽い単音。
鳴ったのは耳に障るがゆえに気づきやすい初期設定だ。
麻宮はネクタイを緩めながらスマートフォンの液晶を叩いた。
080-xxxx……
「……またか」
無感情につぶやき指を滑らす。スマホを手に取り、解いたネクタイをクローゼットに垂らして、画面に視線を落とした。ホーム画面に並ぶアイコンのうち、名前すら覚えていないメッセージアプリの右上に、『1』と数字がついていた。
麻宮は小さく舌打ちし、アイコンを叩いた。
彼は新着を告げる数字が嫌いだった。溜まっていると落ち着かないのだ。同期のスマホで二桁の数字を見たときなど
『大丈夫~?』
から始まる他愛のない内容だった。いわゆる迷惑メールだ。スパムメールともいうらしい。せめてコンビーフメールだったら食いついてやらないこともないのに。麻宮は画面を戻して肩を落とした。スパムでもコンビーフでも開けることは開けるか。
ぼんやりと考えながら冷蔵庫に近づき、扉を開いた。
「……っあ~……そうか。そうだったか~……」
炭酸水が切れていた。やはりサブスクリプションで定期購入するのが正解だったということだろう。スマホが鳴った。麻宮は倦怠感に包まれながら目を落とす。
画面に、新しいメッセージが届いた旨が書かれていた。
『……サポートセンター』
電話会社からだった。アイコンだけでは
『大丈夫ですか? 知らない番号からの連絡にお困りではございませんか? ……』
「……ああ、うん」
思わず口に出していた。言うほど困っていたわけでもないが、ちょうど、たったいま、きたばかりだったから。
何日か前にも。
麻宮の指が画面を戻してメッセージを探す。
その何日か前にも。
もっと前にもあったらしい。
「
思わず鼻を鳴らすと、大丈夫ですか閉め忘れていませんかとばかりに冷蔵庫が鳴った。閉じて、麻宮はしゃがんだ姿勢のまま、ぼんやりと考えた。
完璧なタイミング。読む気はないけど。
どうせ何か新しいサービスに登録して月の料金に加えましょうとか、そんな話だ。
それよりも炭酸水だ。
麻宮はコートだけ羽織って家を出た。息が白い。上着を着てくれば良かったかと後悔が過るも煌々と照るコンビニエンスストアを見たら忘れた。近さは正義だ。
麻宮は店員の挨拶を聞き流し、入り口そばの籠を取った。
寒い中せっかく来たのだ。
弁当に、角瓶に、明日のパンに、戻って絆創膏に、それから――、
完璧なタイミングだったよな。
ふと思った。サポートセンターからのメッセージは、あまりにも完璧なタイミングだった。ちょうどまたかよとイラつきはじめる件数がたまりはじめた頃に、興味はなくても新着表示が嫌いで開くだけ開く男のところに、メッセージはきた。
――もし。
もしも見知らぬ番号からのスパムが、電話会社が出したものだったとしたら。
なんでそんな面倒なことを。単純だ。金のためだ。スパムに比べればサポートセンターの方が信頼できる。スパムに引っかかるやつはいないが、サポートに引っかかるやつならいくらでもいるだろう。
麻宮はくだらないと思いながら、レモン果汁入りの炭酸水を籠にいれた。角瓶を買うからついでにレモンハイボール風にしようと思っていた。
サポートセンターから連絡がきたのは苦情が多かったからだろう。いまどきスパム対策くらいはしているはずで、それをすり抜けて送られてきているのだから。
カウンターに籠を置くと、店員が会計を進めつつマスクでくぐもった声で言った。
「お支払いは――」
「あ、それじゃ――」
途中で遮るように言って、麻宮はコートのポケットに手を入れ、固まった。財布が入っていない。尻のポケット。ない。上着――は脱いでコートだけだ。
財布を忘れた。
喉が鳴った。
「――どうされました? 大丈夫ですか?」
店員に問われ、そのとき初めて麻宮は店員を見た。ビニールの幕越しに、女子大生と思しき店員が不思議そうに小首を傾げていた。ひゅっ、と麻宮は息を詰まらせた。
「え――っと、財布を、忘れたみたい、で……」
声を低くしながら肩越しに振り向くと、後ろに並んでいた中年男が驚いたように眉を跳ね曖昧に会釈した。麻宮は曖昧な会釈を帰しながら顔を戻した。手が勝手に服のポケットというポケットに伸びた。
店員は言った。
「えっと、スマートフォンでも――」
「あ!」
麻宮は想定より大きくなった声に自らも驚きながら続けた。
「それ、やってなくて」
「……えと、すぐできますし、先に……後ろの――」
「と、取ってきますから! 商品! 戻しておいてもらって――」
「ああ。それなら、お戻りになられるまで置いておきますね。お近くですよね?」
「え!? あ、お、お願いします!?」
麻宮は「あれ? おかしいなぁ?」と口に出しつつ自動ドアに急いだ。背後でドアが締まる間際に「お待ちしてます」と聞こえた気がした。顔に当たる風が異様に冷たく思える。汗が吹きシャツが纏わりついてくるような感触があった。通りかかった通行人の目が気になり、背中を丸めるしかなかった。
なにやってんだ、なにやってんだ、なにやってんだ!
心中で叫び、顔を赤らめながら急ぎ足で歩くと、ふいに埃っぽい匂いがした。クローゼットの匂いだ。どこから? 顔を上げるも街頭と監視カメラの丸いレンズしか見当たらない。
まさか、と麻宮はコートの襟を立てて鼻を動かす。違う。たぶん。もう分からなくなっているだけかもしれない。麻宮は部屋に飛び込むなりコートを脱いだ。冷気が心地よかった。額の汗を拭い、コートを腕にかけ、テーブルを見やった。財布が出しっぱなしになっていた。手に取って、迷った。着替えるべきか?
「……いやでも、コートで行ったし……」
誰も気にしない。そんな分かった風なことはいくらでも言える。しかし、財布を忘れて荷物を取り置いた客だ。顔は覚える。着替えたらかえって変じゃないか。それに、あの店員は――、
『近くですよね?』
麻宮は言われた言葉を反芻した。分からないなら「お近くですか?」だ。彼女は知っていた。思えば、しょっちゅう行っていた気がする。店員の顔なんて見ない。セミセルフレジだかなんだか知らないが、あれになってから余計に見なくなった。同じ子だっただろうか。女子大生がこんな時間にバイトしているだろうか。ないとは言い切れない。たまたま講義がない日がかぶっていれば有り得る。
――もう使えない。
麻宮は髪の毛をかき混ぜそうになった。髪に食い込ませた指を滑らせ頬を撫でる。無視する。なかったことにする。いや、でも、商品は取り置かれている。商品は、取り置かれている。
「……なんで?」
麻宮は我知らず口にしていた。なんで取っておく? 戻しておいてと言ったのに。戻してくれていれば、上着を着替えるだけでしれっとまた行くことすらできたかもしれない。そうでなくても忘れられるのを待つか日を変えるくらいできた。なんで?
「……確実に、売れるから?」
麻宮の脳裏に、先ほど届いたサポートセンターのメッセージが
「行かなきゃじゃん……」
買いに戻らないと、俺が悪いことになる。麻宮は歯を噛んだ。拳を握った。左手で口元を隠し、鼻で呼吸をした。ミスをした自分が悪い。向こうが上手かっただけだ。思えば考え事をしていて余計なものまで籠に入れた気がする。戻ったら買わなければいけなくなる。なんてやり方だ。
「――クソッ!」
麻宮は耐えきれず悪態をついた。テーブルから財布をもぎ取り、埃臭いかもしれないコートを着直し、ポケットに突っ込んで店に戻った。できるだけ顔をあげないように、注意しながらカウンターに向かった。列はなくなっていた。
先ほどと同じ店員が、マスク越しでも分かる笑みを浮かべていた。
「あ、大丈夫でしたかー? 財布、ありましたか?」
あるに決まってるだろ。麻宮は胸裏で毒づきながら財布を出した。
「えっと、お支払いは――」
「これで」
努めてぶっきらぼうに言い、麻宮は電子マネーのカードを出した。店員がカタカタとレジを叩き、カードをかざそうとしたときだった。
「あ、年齢確認を――」
見りゃ分かんだろ! と麻宮は無言でレジの液晶を叩いた。
「それではお会計が――」
支払いが済む音だけを聞き、麻宮は、
「あ」
思わず声を出した。
店員が、また、同じ声で尋ねてきた。
「え? あ、袋。どうされます?」
肩越しに後ろを見ると、また列ができそうになっていた。
麻宮は慌てて返した。
「なんか、てきとうに――」
「てきとう?」
「お、大きいので!」
「えっと、たぶんそこまで」
「じゃあそれで」
また汗が流れ始めていた。追加された料金を払い、麻宮は店を出ると同時に膝に手をついた。マスクのせいなのか、いくら呼吸を繰り返しても楽にならない。部屋に戻り、角瓶のウィスキーをレモン風味の炭酸水で割って飲んだ。
「――クソッ!」
最後にそれだけ言って意識が溶けた。
翌朝。
重い頭を揺らしながら電車のつり革に捕まっていたときだった。
「……大丈夫ですか?」
気遣うような声に顔をあげると、中年の女性が眉を寄せていた。
「……はい?」
「座りますか?」
「いえ」
麻宮は笑顔をつくった。
「大丈夫です」
騙されるか。昨日の今日だぞ。
麻宮は背筋を無理矢理に伸ばした。悪者にされてたまるか。
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫だって言ってますよね?」
会話はそれきりで終わった。いつの間にか空が青みがかっていた。改札を出る間際に麻宮の革靴の踵を誰かが擦るように踏んだ。驚き、振り向くと、男が薄笑いを浮かべて会釈した。
「――すいません」
「……大丈夫です」
ふざけやがって。
ふざけやがって。
ふざけやがって!
麻宮は肩を怒らせて歩いた。スマートフォンが鳴った。また知らない番号からきていた。ガチガチと爪を立てて新着の数字をけした。今度はサポートセンターからの連絡はなかった。一度目は外れたからまた焦らすつもりなのだろうか。
その手に乗るか。
麻宮は霞がかる目をこすった。
「おい、大丈夫か?」
「はい?」
声に顔を上げると、また別の顔があった。
「顔色悪いぞ? どうした?」
「……どうもしませんけど」
普段、そんなこと言わねぇだろ。麻宮は言った。
「なんですか? とつぜん」
「いや……朝から見てて……その、なんか、変だぞ?」
「俺がですか?」
「風邪でもひいたか?」
こいつもか、と麻宮は鼻を鳴らした。
「……なにが狙いですか?」
「は? 狙い?」
「帰らせたいんですか?」
「なに言って――おい、本当、大丈夫か?」
「こっちが聞いてんですよ!」
麻宮は声を荒らげた。
「もういらねぇから帰れってことですか!?」
「い、いや、そんなこと言ってな――」
「じゃあ何が言いてぇんだよ!!」
叫んでいた。部屋が急に静まり返った。
顔は、これ見よがしに喉を鳴らし、襟元を緩めながら言った。
「だ、大丈夫なら――その、無理、するなよ?」
「……帰らせたいなら帰れって言えよ! はっきり! 自分の口で!」
もはや部屋の時間は止まっていた。
麻宮の背後で誰かが言った。
「あ、あの、麻宮くん、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないかな?」
「……そうだよ! ちょっと、疲れてそうだし――」
「疲れてねぇよ!!」
麻宮は振り向いて叫んだ。誰もが眉を歪めていた。
「あ、麻宮くん」
背後で、顔が言った。
「帰ろう。今日は。帰ってくれ」
「……最初からそう言えよ」
麻宮は鞄を取って部屋を出た。急に息が楽になった気がした。もう騙されない。もう騙されない。もう騙されるはずがない。連中の狙いはなんだ?
ふらふらと駅に向かいながら麻宮は考えた。
そんなに邪魔だっただろうか。
何かミスしたのだろうか。
どうして帰らせようとしたのだろう。
理由は分からない。
けれど、一つ確かなことがある。
サポートセンターのメールと同じだ。叫ぶよう仕向けたのだ。どうしたら自分が悪人にならずに辞めさせられるか。心配してやればいい。気を使ったフリをすればいいんだ。乗ってくれたら儲けものだ。断られてもダメージはない。
なんて狡猾な連中だ!
麻宮は歯を軋ませ、膝の上で握り拳を震わせた。向けられる視線を睨めつけ回しついには叫んだ。
「大丈夫だよ! 言いたいことがあるなら言えよ!」
誰も何も言わなかった。言えなかったのだろう。当たり前だ。心配したフリをしているだけで、好奇の目で見ているだけだ。
どいつもこいつも。
誰も彼も。
麻宮は息を荒くし、ネクタイを緩め、空を見上げた。白味がかって見えた。ふざけている。こんないい天気に何をしているのだと言っている。冗談じゃない。俺はその手は食わない。
家の近くのコンビニを通り過ぎる間際に覗くと、あの店員がいた。
昨夜の記憶が麻宮の脳内で火花を散らした。
「……たしか……
ネームプレートにそうあった。
学生がこんな時間に何やってんだ。
お前、俺から搾り取るためにそこにいんだろ。
麻宮は感情に任せて店に飛び込んだ。
「いらっしゃいま――あ」
なにが、あ、だよ。
麻宮は吠えた。
「君さぁ! そういうの止めたほうがいいよ!?」
「え!?」
店員が震えた。
「『え!?』じゃねぇんだよ! 昨日みたいの! 二度とすんな!!」
吐き捨てるように言い残し、麻宮が背を向けた。ゆらゆらと体を揺らすようにして店を出ると、居合わせた客にまた何事か叫んでいた。
「……やっば」
半笑いの声に、平は肩を跳ねるようにして振り向いた。
「えと、店長、あの、私……」
「やっばいでしょ、あの人」
「えっと――私、なんかやりました……?」
声を固くする平に、店長が言った。
「大丈夫だって。ああいうのもいるってだけ。平さんは今まで通りにやってくれればいいから」
「でも」
「大丈夫、大丈夫。その方が儲かるから」
「――はい?」
「平さん、丁寧にやってくれるし、一人逃しても二人捕まえればオッケーだしさ。親切にしたら親切にされる。情けは人のためならずって言って――平さん?」
顔を歪める平に、店長が言った。
「……大丈夫?」
善意と不安、鋭意。 λμ @ramdomyu
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