*

 翌日、彼女は現れず、僕は独りバスに乗った。少し遅れて、彼女は乗り込んで来た。僕を見るなりすぐ目を逸らし、離れた席に座って、外を見ていた。僕は動いていた。自分の意志だ。彼女の隣に座る。おはよう、息をするようにするりと言葉が出た。彼女は狼狽えた素振りを見せ、窓の外を見たまま、おはよ、と息と一緒に吐き出すように言った。


「昨日のこと、僕なりに考えたんだ」


僕は彼女に向かって言った。彼女は振り返って僕を見る。


「聞かせて」


唇が微かに動いて、彼女は確かにそう言った。


「僕は、君を救えない」


彼女の瞳に諦めが過ぎる。僕は必死に言葉を搾り出す。


「それでも——君を、愛したい」


もしかすると、自分が安心したいだけなのかもしれない。誰かを支えることで、自分の存在意義を高めたいだけなのかもしれない。そうだとしたら、僕は最低な奴だ。——それでもいい。最低でもいい。彼女の真の笑顔を見られるなら、生きる意味を見出せるなら——


僕は何だってする。どう見られたっていい。彼女を壊さないよう優しく包み込む、そんな存在でありたい。


 彼女は微笑んだ。目元にきらりと光る涙が溜まっていた。瞳は希望に満ちている。彼女は僕にもたれかかった。


「ありがとう、コンポタくん——」


何かがぽろりと——。僕の頬を伝った。胸がスッと軽くなる。抱えていた錘が消えたのだ。そうだ、最後のコーンがようやく缶から出てきた、あの感覚——。


「ねぇ、君の名前、教えて」


今なら総て解き放てるような気がした。何もかも、溢れてしまってもいいと思った。僕は、僕の名は——。



太陽たいよう


周りを照らす明るい子になってほしい、母さんが名付けてくれた。ずっと、ずっと裏切り続けてきた。理想の姿になれなかった。僕はいつだって影だった。でも、今は違う。彼女を照らしたい。彼女を笑顔にしたい。僕はようやく、太陽になれそうだ。

 

 *

 それから、僕らは毎日駅まで一緒に通うようになった。僕は独りじゃない、彼女がそばにいるから——。学校での空虚な時は、彼女に想いを馳せる時間に変わった。彼女のことを考えると、頭の中が飽和しそうになるのだ。深蕗先生はニヤニヤしながら、


「最近ずっとヘラヘラしてるな。何かいいことでもあったのか」


と聞いてきた。さすが、勘が冴えている。でも勿論、先生に言うわけがない。


「さぁ?」


と焦らすと、先生は、大事にしろよ、と言って、僕の肩をポンポンと叩いた。


 ある日の車内にて。僕は今日も彼女とくだらない話をして、笑い合っていた。他愛ない日常の一コマ。彼女と過ごす、この一時が一日の最高の楽しみ、僕が朝起きる意味になった。太陽くん、と彼女が僕の方に向き直って言った。


「あのさ、朝だけじゃなくて……放課後とかも……会える?」


彼女の頬が薄桃に紅潮しているのが分かった。これは寒さのせい——じゃない。身体が熱を帯びるのが分かった。脳味噌が蒸発してしまいそうだった。言葉が思うように出てこなくて、かろうじて頷いた。すると、彼女は弾けんばかりの満面の笑みで


「じゃあ、放課後。バス停で——」


小指を差し出した。小指同士を絡める。約束だからね、先に帰らないでよ、そう念押しされた。絡み合った小指が、互いを支え合う僕らのように見えた。

 

 *

 彼女はベンチに座って待っていた。彼女は僕を見つけるなり、こちらにヒラヒラと手を振った。僕はそこまで駆ける。


「遅い」


彼女はご機嫌斜めだった。


「ごめん。クラブのミーティングが長引いてさ」


嘘だ。クラブなんて入ってもいない。本当は彼女よりも早く来ていた。どうしていようか、変に緊張して歩き回っていたら、彼女が来ていて、どんな顔をして彼女のところに行けばいいか、さらに分からなくなってしまったのだ。彼女は不貞腐れているようで


「罰として、コンポタ買ってきてよ」


と、そっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。言わなくても分かる。コンポタは二本だ。


 片方缶を渡すと、ありがと、といつものように調子良くなり、二人同時にプルトップを引いた。口の中、身体中が、あったかい幸せの味に包まれる。


 白銀は夕闇に溶けてゆく。談笑は終わりを知らず、僕らの総てが朱い夕焼けに染め上げられる。このまま時が止まってばいいのに——。何度もそう思った。


「そろそろ、帰らなきゃね」


彼女が寂しそうに言った。僕も、コーン一粒取り残された缶に目を落とす。もう少し、あともう少しだけでもいいから、そばにいたい——。


「家まで、送るよ」


気づけば、僕の口から自然に言葉が出ていた。


「——ありがとう」


彼女は照れているようだった。手を繋ぐと、彼女の熱が僕の身体全身を巡るような、不思議な感覚に囚われた。温かかった。


 歩道橋を渡っていた時、ふと彼女が立ち止まった。僕は彼女を見る。雲間から顔を見せる夕日は彼女を照らす。彼女は、素朴で綺麗だった。抱き締める。


 もう、離さないから——。


「僕は、君が、必要だ」


君がいなきゃ、生きていけない。君が堪らなく愛しい。笑った君も、怒った君も、泣いた君も、総てを愛している——。


「愛したい——これからも!」


温かいものが溢れてやまない。


「私も、私もだよ!私の人生に君が必要なの。いつだって君に、そばにいて欲しい」


彼女の言葉は僕の心に溶けてゆく。静かに奥底まで浸透してゆき、愛を確かなものにする。共依存だって言ってくれて構わない。僕らが幸せになれるのなら——それはそれでいいよ。


 君と一緒にいたい——。鼻頭に冷たいものが落ちる。


「雪だ」


降り始めたようだ。彼女をまた強く抱き締める。彼女の髪がふわりと舞い……あぁ、これは……この匂いは——母さんの匂いだ——。母さんは、母さんは——



僕の目の前で——。


僕がまだ小さい、小学生の頃の冬だ。そう、雪かきを一緒にしていた。気乗りしない雪かき。適当にやって済ませてしまおうと……振り向いた時に、あぁ、屋根に積もった大量の雪が崩れるのが見えて——それが真下にいた母さんを——呑み込んだ。一瞬のうちに母さんは見えなくなって……。雪の中に埋まってしまって、出てこなかった。必死に、必死に掘った。でも、子供の僕では救い出すことはできなくて……近所の人を呼んで手伝ってもらった。けれど、遅かった——。母さんは死んでいた。雪の中に長い間埋まっていたからか、その顔は真っ白だった。あぁ——母さん——。僕は救えなかった。どうにもできなかった。本当?僕は、救えた?もし、もっと早く気づいていれば——違う、違う、違う!しょうがなかった、しょうがなかったんだ!僕は悪くない。僕は、僕は——


 あの残酷な映像が流れ出す。母さんの頭上の、雪が、危ない、危ない‼︎母さん!上!

 

 逃げて——‼︎

 


 力強く、押した——

  


 「「え」」


 何が何だか分からなかった。彼女もきっとそうだ。目を見開いている。彼女の身体は柵の外に放り出されていて、僕はそれを見つめていた。自分が何をしたのか悟った。そんな……助けようとしたのに!助けたかっただけなのに——。スローモーションのようだった。舞い散る雪華。あぁ——。身体が段々小さくなってゆき、やがて地に落ちた。弾ける音。白い世界に滲み出す緋い血。侵食し、やがて総てが染まる。虚ろな瞳が、罪深き僕を映し出す。非情にも、雪は止むことを知らない。しんしんと、ただしんしんと降り続ける——。


 *

 彼女の死は、事故だった——そう結論づけられた。そんなことで、僕の傷は癒えるわけもなかった。今でも、彼女を押したあの感覚が残っている。。彼女が母さんに重なって、僕は助けようとして、押した——。それなのに、助けるどころか、僕は殺めてしまった、最愛の君を——。


 あれから一年が過ぎようとする。半年前にマチの病院を退院してからは、父の計らいで南の地方に引っ越した。雪を見る度、嫌でも思い出してしまうのだ。だから、雪の降らない地方に引っ越し、新しい生活を始めることにした。


 唯一気がかりだったのは深蕗先生だ。先生とは、あの事件を境に遭っていなかった。彼の死を知ったのは、新聞の端の方の小さな記事だった。紅葉が赤く染まり出した頃だったと思う。


『教員自殺 うつ原因か』


そんな見出しだった。


『今年三月に***高校教員の深蕗倫也ふかふきともやさん(二十九)が勤務先の校舎から投身自殺した件について、県教委は今月十四日の記者会見で、深蕗さんの死をうつによるものと報告した。深蕗さんの通院記録から、三年前から症状を訴え、通院していたことを新たに明らかにした。県教委は業務による過労がうつを引き起こした可能性を視野に、今後も調査を進めるとしている』


彼は、僕が入院していた間に死んでいた。うつ——。ふと彼の言葉を思い出した。人は案外脆い、外は大丈夫でも、中は限界なのかもしれない。これは彼自身のことだったのではないか。彼は、雪華のことを語っているようで、実は遠回しに僕に訴えていたのではないか——。思い返せば引っかかる節は沢山あった。毎日僕のところまで来て、話をしてくれたり、死にたいと言ったとき、いつもと打って変わって怒ったり——僕は彼に支えてもらっていた。きっと、同じように僕も彼を支えていたのではないか。僕は……彼にとって特別な存在だった。こんなの推測に過ぎないけれど、僕が、彼をこの世に繋ぐ最後の楔になっていたのかもしれない。それほど彼は追い詰められていた。僕が彼の前から消えたから、彼は自ら死を選んだ——そんな仮説が脳裏を過ぎる。彼は自分を救えなかった。いや、救えたのかもしれない。この世から解放されたかったのかもしれない。今となっては分からない。人の心なんて、はなから分かりやしないのだから。もう分かろうとなんて、しない。


 また、彼の言葉が脳裏を掠める。助けようと差し伸べた手でも、あったかすぎたら溶けてしまう——僕は彼女、雪華に近づき過ぎた。だから、溶けてしまった。愛そうとしたのが間違いだったのだ。破滅を招いたのは、僕自身だ。僕は、自分さえ救えなかった——。僕は自分を愛せない、愛してはならない。


 ちらほらと雪が舞う様を目で追う。この地でも見られるとは思わなかった。発作は不思議と起こらなかった。彼女が呼びに来たような気がしたからだ。あの優しい匂いがした。ふらりと立ち上がり、教室を出る。先生が何か怒鳴っていたが、何も聞き取れなかった。階段を昇って屋上に行く。僕も綺麗に舞いたい。雪華の如く——儚く美しく散りたいよ。屋上から身を乗り出す。愛する君に想いを馳せて——今、逝くからね。


 世界が反転する。雪華とともに、ひらり——。

 舞い散る雪が、

 助けられなかった母が、

 支えられなかった友が、

 愛してしまった君が、

 彼らとの記憶が、

 救えなかった僕が、

 

 総てが溶けてゆく——。




【了】

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雪華 見咲影弥 @shadow128

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