雪華

見咲影弥

 ひらりと——まるで花びらのように、それは僕の小さな手のひらに落っこちた。雪だ。手の温もりで徐々に溶けて小さな水溜まりになる。僕は懲りもせず、また手を差し出す。ひらり。小さな粒。ふっと生温い息を吹きかけてみる。あっという間に溶けた。笑みが溢れる。自嘲だ。馬鹿らしい。空を見上げ、舞い散る雪を睨む。僕は雪が、嫌いだ。


 チャイムが鳴り、授業が始まったというのに喧騒は止まなかった。やれ雪だ何だ、と大の高校生のくせに、たかだか雪如きで騒いでいるのだ。まぁ無理もない。この地は雪などめったに降らぬ温暖な気候なのだから。


 思い返すと、転校して来て半年。もうそんなに経つのだ。住む場所は心機一転しても、なかなか自分自身は変わることができないでいた。僕は友達付き合いが苦手だ。少し話すだけで心臓が飛び出しそうなくらい緊張するのだ。昔からだった。気づけば僕は何処でも独りだった。そんな僕に手を差し伸べてくれたのは……君だった。煌めく銀世界にたなびく黒髪。僕に見せてくれた笑顔。あぁ——。君の匂いを、近くで感じる——。


 *

 白嶺雪華しらみねゆきかと出会ったあの日も、雪が降っていた——。


 通学中、駅行きのバス停にて。僕はバスを待っていた。雨宿りならぬ雪宿りできそうな屋根つきの停留所だった。ベンチに座ろうと思って、重くなった傘を下ろすと、どさ、と雪が落ちる音がした。まさか、こんなにも積もっていたとは……。そして、さらに予想外のこと。ベンチの端に座っていた人に雪がかかってしまった。それも頭上から——。


「すみません‼︎」


相手は女子高生のようだった。タオルで濡れた髪を拭きながら、


「せっかく整えてたのにぃ」


とぼやいていた。


「ほんとにすみませんッ」


僕は勢いよく頭を下げて謝る。すると、彼女は笑いながら


「いいよ、ちょっとからかってみただけ。頭上げてよ」


と言った。恐る恐る顔を上げると、思っていたよりも近くに彼女の顔があった。雪のように白い肌だった。くしゅん。彼女は可愛らしいくしゃみをした。冷たいものを頭から被ったのだ。無理もない。本当に申し訳ないと思っていると、彼女はまた茶目っ気たっぷりの笑顔でこう言った。


「んー。やっぱりさ、ちゃんとしたお詫びってことで向こうの自販機でコンポタ二本買って来てくれない?」


 自販機で二本も缶を買ったことなんてなかった。いつだって僕は独りだったから。悴んだ指先には刺激が強すぎるほど、缶は熱かった。抱えるようにして彼女の所に持って行く。彼女に差し出すと、一つは君のだから、と言って、早速プルトップを引いて口をつけた。


「美味し」


僕も彼女のそばに立ったまま、口に含んだ。何粒かのコーンと甘い温かなポタージュが流れ込む。美味い。身体が温まってゆくのを感じた。ほっと溜息が漏れ、顔の筋肉が緩む。


「あ、笑った」


彼女は僕を指差して、にやりと口角を上げた。慌てて表情を取り繕う。ごくり。心地の良い音がする。彼女はもう飲み終わったみたいだが、何か仕切りに缶の中を見ていた。


「これさ、毎回飲む度に思うんだけど、コーンが全部食べ切れないのよねぇ。端っこにへばりついてるの」


顰めっ面で缶を覗き込む様子が、何だか面白かった。


「こういうあと一粒とか、細かいこと、私気にしちゃうんだよねぇ」


缶を転がしたり、叩いたりしてみるけれど、なかなかその一粒は現れなかった。もう、と彼女が片手に打ちつけたとき、ようやく最後の一粒が出てきた。ラッキー、と口に放り込む。僕はまだ温い缶を弄ぶ。もう少し、この温もりが続いて欲しかった。


「あ、バス」


向こうからバスがやってくる。大雪のせいか十分の遅延だ。でも、そんなことはどうでもよかった。どうせなら、もっと遅れてしまってもよかった。そう思った。


 *

 バスの中、彼女が隣の席に座ってきた。


「ここ、いい?」


そう聞く前から、彼女は腰を下ろしていた。そこから続いて彼女から何か言葉が出ると思っていた。しかし、予想に反して沈黙が流れる。彼女は隣に座っておきながら、こちらに話しかけてこようとしない。ただ単にここが彼女の定位置なのだろうか。彼女は何をするわけでもなく、外の景色をぼぉっと眺めていた。何だか居心地が悪い。いつもはあっという間の時間が酷く長い時間に感じる。早く停留所に着いてくれ、そう願っていたとき、彼女がこちらを向いて口を開いた。


「君、名前なんて言うの?」


僕はまた黙り込んでしまった。あまり言いたくなかったのだ。何と言うか、好きではないから——。


「教えてくれてもいいじゃん」


彼女は隣で喚いていたが、はっと何か閃いたような顔をした。


「じゃあ君、今日からコンポタくんね」


安易なあだ名だった。でも、自分の名前よりは随分マシだ。それでいい、と言うと、彼女は小さくガッツポーズをした。と、その時、バスが停車した。


「私は白嶺雪華。雪の華と書いて雪華。じゃ、また明日、コンポタくん」


彼女はそう言い残して、駆け足でバスを飛び出して行った。


 *

 「ふぅん、つまり君は、その子に気があると」


 昼休み、校舎三階の空き教室にて。僕と深蕗ふかふき先生は、よくここで二人で雑談している。クラスにいると、息が詰まってしまう。ここはほとんど人が来ないし、使われてもいない。電気ヒーターもあるので、憩いの場所になっている。ここで独りで寛いでいると、必ずこの先生が来る。彼は僕のクラスの担任で、クラス内で孤立している僕を何かと気にしてくれているようだった。最初は、独りにさせてくれ、とうんざりしていたが、今では格好の話し相手である。ヒーターを囲いながら机の上に適当に座って、今日も彼と話をしていた。話題は勿論今朝の出来事だ。先生は何か勘違いしているようで、僕が彼女を好きだと思っている。


「だからぁ、そういうのじゃないってば」


「まぁしかし、世の中そんなに甘くはないぞ」


急に現実的なことを言ってきて、またその落差がおかしい。そういうところが好きだ。先生は、そんなことより、と言って外を指差した。銀世界が広がっている。連日降り続ける大雪のせいだ。学校にいる間だけで、随分降り積もって除雪が必要になるほどだ。


「まだ時間あるし、ちょっと手伝ってくれるか?」


先生が不敵な笑みを浮かべた。常套句だ。今日も僕は雪かきを手伝う。


これだから、冬は、雪は——。

 

 


 嫌いだ。雪かきの合間に、そう途切れ途切れに言うと、先生に笑われた。


「君、この前、夏も嫌いだって言ってなかったかい」


言った……ような気がする。あのへばりつくような感覚が好きじゃないのだ。


「そんなんだったら、どこに、住むんだいッ」


重い雪を大きなスコップで放り投げながら——あぁもう僕は、この世界が嫌いなんだ——。ここじゃない、何もないところに行きたい。


「いっそ、死んじまいたいや」


ぽろりと軽い調子で、そんな言葉が出た。どさり、雪が降りかかる。先生がシャベルでこちらに投げたのだ。


「そんなこと言うな」

やけに真剣で、気圧されそうだった。


「人間、いつかは死ぬ。雪だって春が来りゃ溶けてなくなる。永遠なんてない。だから、今を大切にしろ。軽々しく自分を溶かすんじゃねぇ」


「……分かった」


黙々と作業を続けた。頭上に積もる雪がいつもより重く感じた。


 *

 翌日、遅延もなくバスは定刻に現れた。僕は彼女の姿を探す。コンポタくん、と僕を呼ぶ声がして、振り返ると彼女がいた。


「私を待ってたんでしょ」


咄嗟に首を横に振ってしまったが、バレバレのようだ。彼女はふっと笑う。昨日と同じように、彼女は僕の隣に座ってきた。長い黒髪が僕の前を揺れた。雪の粒があちこちについたままだ。鼻先を掠めたとき、芳醇な香りがした。不思議と安らぎを感じた。これは……どこかで嗅いだことのある、優しい匂い。この匂いは……思い出せない。酷くもどかしい。あぁ、一体、何の匂いだったのだろうか——。


「ねぇ、君はさ、自分を愛せる?」

彼女が突然そんなことを聞いてきた。僕は質問の意図が分からず、戸惑って


「いや、別に」


と訳の分からない返事をしてしまった。


「私はね、愛せない。好きじゃないんだ」


そう言う彼女はどこか悲しげな顔をしていた。何か深い深い事情がありそうな気がした。でも知りたがるのはよくない。人には誰だって触れられたくない傷があるから——。それくらいは分かっている。だから、僕はそれ以上突っ込まなかった。けれど——彼女は自ら話し始めた。


 どうして嫌いなのか、自分でもよく分からない。でも、何故か不意に自分を否定したくなる、物足りないと感じる時があるのだ。こんなに恵まれているのに、何か違う気がして、自分がどう在りたいのか分からなくなる。もっと誰かに認められたい、欲してもらいたい。思春期特有の感情なのかもしれない。そのくせ、そんな自分を幼稚だと蔑視する自分もいる。何が正しくて何が間違っているのか分からない。そんな相反する二つの感情の狭間で揺れ動き、苦悩し、振り切れた先は酷く虚ろなのだ。自分の存在意義が分からない。価値もないのに、生きる意味があるのか。そんな疑念を見て見ぬふりして、のうのうと生きている自分が許せない。だから、自分を愛せないんだ。


 そう言うと、彼女は左腕を捲った。生々しい無数の傷痕が横に連なっていた。


「もしかしたら、私の苦痛に、誰かに気づいて欲しかったのかもしれない」


彼女は傷を見ながら、自嘲するかのようにふっと笑った。


「おかしいよね。まだ会ったばかりなのに、こんなこと言うの。でもね、君なら大丈夫だと思った。私と同じ匂いがしたから。受け止めてくれると思ったの」


しばらく沈黙が流れる。何も言い出せなかった。


「ごめん。独りよがりだよね。さっきの話、忘れて」


彼女はバスが停車するのと同時に弾けるように立ち上がり、去っていった。僕はただ見送るしかなかった。


 *

 僕らはいつものように空き教室で暖をとっていた。深蕗先生に聞いてみる。誰のことかなんて言わない。かいつまんで説明した。自分がどうしたらいいか分からなかった。誰かに相談したかった。


「専門分野ではないんだけどなぁ」


先生はそう言って、髪をバリバリと掻いた。


「人ってのは案外脆い。外っ面は大丈夫に見えても本当は限界で持ち堪えてる時かもしれない」


彼の眼鏡が吐き出した息で白く曇る。彼女は、最初会ったときはハツラツとした明るい子だった。でも、それは見せかけの姿に過ぎなくて、本当は今にも崩れそうなのかもしれない。彼は外を見やり、雪、とぽつりと呟いた。


「雪みたいなもんだよ。助けようと差し伸べた手でも、あったかすぎたら溶けちまう」

先生の唇がへの字に歪んだ。初めて見る、悔しそうな顔だった。


「私たちには、そっと近くで見守ってやることくらいしか出来ないんだよ。意味を見出すのは、彼女自身しかできない。彼女を救えるのは、彼女だけなんだ。」


僕は彼女を救えない。それでも、僕にだってできることはあるはずだ。彼女を見守ろう、でも決して彼女を溶かしてしまわないように——そう誓った。




【続】

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