最終話 火曜日夕方

 帰宅すると、母上様がクイックルワイパーを片手に、大砲トークを始められた。私は弁当箱やテキストの片づけをしながら相槌を打つ。

「利用者の○○さん、レジ袋がはち切れそうになるまでコンビニで食い物うてきとってさ! リハビリとかしないで、ずーっとスタッフにお菓子とか配ってたと! あがん媚びとるとに、肝心のリハビリとかのサービスしてもらえんで。それでも毎回毎回配るような惨めなことは、オリはしとうなか」

「うんうん、実際母上様はそんなバカげたことをしないんでしょ?」

「当たり前じゃん!」

 価値観を母上様に合わせて、私は聞き流す。片づけが終わって入浴を済ませても、母上様の大砲トークはおさまらない。

「何ごとも自分から動かないと状況は変わらんのに、利用者はみーんな受け身、リハビリの順番が来るまで四時間も五時間も座ってまっているの。スタッフも調子に乗って仕事より同僚とのお喋り! こんな体になってまで長生きしたくない」

「はいはい、そうだね。娘の私は寂しいけどね」

「そうよ、あんたにはまだまだ教えなきゃならんことがたくさんあるのに」

 母上様の波が下がらないように話題を運ぶのが、私の役目だ。

「そういえば、今日のドイツ語授業で聞いたんだよね。ドイツではあんパンが外道らしいよ」

「あら、そう! 日本ではあんパン、普通に食べるとに?」

 タイミングを見計らって、私から話題を変える。外国文化が好きな母上様は早速食いついていらっしゃった。

「あとね、イギリスの先生がアールグレイとセイロンティーの飲み分け方を教えてくれてさ。ミルクティーには味が強い方のアールグレイが合うんだって。今度私が淹れてみよっか?」

 母上様は「へぇー」だの「気分が乗ったら飲もうかな」だのとおっしゃる。外国語学部の大学に通うからこその特権を最大限に活かす。こういうとき、母上様が知見を広げることを好む性格でよかったと心底思う。だからこそ、私も知識の分け甲斐があるというもの。

 ちなみに木曜日の放課後には私が手話講座で家を空けるので、母上様の大砲トークは二十一時以降に始まる。私はいつものごとくある程度聞き流してから、口座で習った手話表現を母上様に披露して差し上げる。コツコツ積み上げる勉学が嫌いなお方だが、やはり手話表現の由来をウンチク化してお聞かせすると、手話で聞こえない人と交流できたらいいのにと呟かれる。


 こんな母上様だが、私を育て上げるのに大変苦労された。経済的な理由で、現役としての大学進学を諦めるよう私に諭される覚悟、就職した会社で私が心療内科のお世話になったこと、母上様ご自身が交通事故に遭われたこと、それで私に苦労をかけていると思い込まれていること。他にもたくさん。

 それでも我が家がこうして過ごせているのも、母上様のモットーに従う生き方があってこそ。確かに私たちが立ち直るのに時間は相当かかった。それでも私だってこうして吹っ切れているし、現役より遅ればせながら大学にも通えている。

 これがもし、よそ様のご家庭のように、○○でなければ脅迫感があれば今のように行動できていないと思う。自分軸で行動して、身構えず振舞う。ときどき低い波ローに呑み込まれながらも時間が立てば高波ハイが戻ってくる。

 あくまでも自分の心に忠実であれ。他に従うものなかれ。私たちの身体はサーフボードだ。

 さて、先日注文した柄マスクとフレンチスリーブのTシャツ、母上様が首を長くして待っていらっしゃる。次の割引クーポンが届くまでに、注文する品を母上様に決めていただかねば。

 生けるサーフボードが波に乗らずどうする。

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波に乗らず何に乗る 加藤ゆうき @Yuki-Kato

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