どこまでも

 ゆっくりと下降して、慎重に地面に降り立ったら、翼を畳んでファスナーを閉め、そして家の扉を押す。証拠隠滅をしなければロイに怒られる。小さい時に怒られた。


「ただいま戻りましたー…」


 入り口のホールに向けて言うが、特に誰もいない。父はどうせ仕事で出て行っているだろう。みんな、母に捕まっちゃったんだろうな。どこだろう。


 とりあえず、部屋にカバンを置くために階段を上っていく。メイドもリクも誰もいない屋敷は、ちょっぴり恐ろしく思えた。



 そういえば、まだ七歳くらいの時に、雨の日に、家中探しても誰もいなかったことがあったな。


 両親の部屋には入っちゃいけなかったから、それ以外の、厨房も、ダイニングも、玄関も、風呂場も、全部の部屋を見て回ったのに、誰もいなかった。


 いつも誰かがどこかで何かをしていて、探せばすぐに見つかるのに。静かで、冷たくて、無機質にただ窓を打つ雨の音から逃げるように布団にくるまっていた。


 そのままじっと動かないで泣きそうなのを堪えていたら、ドアが開いて、布団で顔も隠したっけ。


 雨の怪物か何かが私を食べようと入って来たって思って。でも実際に入って来たのはメイドのスズだった。夕飯の時間なのに、降りてこない私が心配だったらしい。


 スズが優しく笑ってそのことを言い終わったと同時に、私は堪えていたのに泣き出してしまった。心細くて、怖くて、でも誰もいなくて、と、つっかえながら拙い言葉で、必死にあの恐ろしさを伝えようと、私は口を動かした。


 ゆっくりとしか話せない私に、スズも同じはやさでゆっくりと相槌を打ってくれた。そっと背中を撫でてくれた。


 部屋の外には他のメイドやロイもいて、まだ十二歳の駆け出しメイドだったミオがたまらず駆け寄ってくれて抱きしめてくれた。あったかくてこころがほどけた。


 そのあとはどうしたんだっけな。みんなとわらいながら———



「あっ」



 目が覚めると、ドアノブの前に立っていた。ああそうだ、と呟いて、銀色のノブを回した。部屋の机の上にカバンを乗せる。


 制服から普段着に着替える間にも、あの日を思い返す。白い服と紺のスカートというパッキリ別れた服装になっても、思考が同じようになるわけじゃない。思い出に浸っていたせいで、じっとりとした夢のような、寝起きのような感覚が残っている。


 ずるずると、母にも父にも会いたくない気持ちを引きずりながら、みんなのいる場所を探す。あの日と同じで、屋敷はしんとしている。外は晴れているし、昔と違って怖がりじゃない。ただ、やっぱり何かが怖い。


 厨房にでも向かおうかな、おやつとか何かあるかな。


 そういえば、スズは今、どこで何をしているのだろう。今はもう辞めてしまって、ここにはいないのが急に意識させられた。


 あの時は確か二十二歳くらいで、七年後に結婚することになって、最後の日は両親が家にいなかったから、ちょっと夜更かししてパーティをして、スズの門出を見送った気がする。


 あの夜に初めて、スズが泣いているのを見た。嬉しいのと悲しいのが混ざった表情は簡単に思い出せる。


 そういえば、母の確認作業に最初に捕まるのは決まってスズだった。


 …まあ、そういうことなんだろう。上手い理由にこぎつけられて、嬉しかったんだろうな。よかった。


 食堂を通り抜ければすぐに厨房だ。きっと厨房長のリンがいる。何か甘いものがあるだろうから、ちょっと頭を休ませてから母へ身構えよう。


 階段を数段降りて厨房に入った。


「ただいま」

「お嬢様。お帰りなさいませ」


 オーブンの前に立ったリンが優しい声で振り向きながら返してくれた。


「何か焼いてるの?」

「スコーンですよ」

「あとでみんなと食べれるかしら」

「ええ、もちろん」


 その返答に安堵する。みんなと一緒にゆっくり紅茶を飲みながらスコーンを食べる。楽しそうで仕方がない。


「お母様は今どこに?」


 母の話を出すと、決まってリンの眉毛は少し下がる。今回も例外ではない。


「多分ですが、自室に」

「パーティの招待状でも書いているのかな」

「きっとそうでしょう」


 視線をかち合わせて同時に言う。


「「どの色の蝋を使って封をするか」」


 一言一句変わらない予想に、思わず吹き出す。リンも笑い始めた。


「じゃあ、一番最初に捕まるようにするわ。選択肢はなるべく狭めておく」

「ロイがそれを聞いたら安心のあまりに泣き出しそうになるでしょうね」

「見てみたいわ」


 そう言って、私は厨房を出る。みんなのために、できることを。なるべく平和で負担のない毎日を送って欲しいから。



 今この時、メネダは何をしているのだろう。きっとずっと生産性のあることをしているんだろうな。

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