第4話 調査

 龍生たちは3件目にしてようやく当たりを引き当てたようだった。桔梗は黒のSUVに車を寄せて並走した。

 烏羽からは質素な着物を身に纏った、長い黒髪のおさげの少女が、後部座席から運転手の男の耳元で何かを囁きかけているように見えた。

「こいつで間違いないね。怨霊がとり憑いてる。まだ若いと思うよ。12歳くらいかな?少女だ」

「彼女、殺されたのかもしれません、頸部に索条痕のようなものが見えます」煤は細微なことも見落とさないよう、その霊に目を凝らした。

「12歳の女の子を絞め殺した?」義憤を感じた龍生は眉間を寄せ険しい顔をした。

「状況は分かりませんが——はい、顔面のうっ血、腫脹しゅちょう、眼の溢血点いっけつてんから察するに、絞殺で間違いないでしょう」窓を全開にして走っている車の中はよく見えた。この寒空の下、窓を全開にして走っているこの男の体感温度は、馬鹿になっているに違いない。もしかしたら何かしらの薬物を利用しているのかもしれない。救いようのない人間が多すぎると煤は嘆じた。

 ざわついた心を落ち着けようと、助手席に座っていた龍生は、桔梗に気づかれないよう微かに尻を動かし、座りなおしてから資料を読んだ。「名前はきし佳之よしゆき、男性、38歳、既婚、結婚して3年、子供はいませんね。仕事は小学校教諭」児童相談所の報告書を見て龍生は顔色を変えた。「児童相談所に匿名の男児から寄せられた通報内容は、おぞましいものです——担任の教師が自分の股間を男児に触るよう強要し、自らは男児の股間を舐った——こんなくそ野郎が小学校の教師で、毎日子供たちと接しているなんて、胸くそ悪くなるな」龍生は憤慨して言い捨てた。

 岸は仕事を終え、自宅へ帰宅するところだ。怪しまれないよう、後続車の3台後ろから桔梗は追尾した。「霊の様子はどうだ?話せる状態だといいんだが……」

「意識はあると思う。岸に耳元で何か囁やいてる。他の被害者同様、事故を起こさせようとしてるんだろう。かわいそうにな……女の子がだよ。俺この変態ヤローが呪い殺されたところで全然同情できない。絶対懲らしめてやる!」烏羽は怒り心頭に発した。

 自宅マンションの駐車場に車を駐車した岸の後方、少し離れたところに桔梗は、車を静かに停車した。

「私と烏羽で接触してみます。妖の姿を人間は見ることができませんから、岸に気づかれることなく、霊に近づくことができます。私だってあんな男、呪い殺されればいいと思いますが、彼女が怨霊のままこの世を彷徨うのか、それとも成仏して転生するのか、どちらを選ぶとしても一度、神に仕える巫女である玉依姫様と話をしていただかなくてはなりませんから、私たちと一緒にきてくれるよう説得してみます」

 変化へんげを解き、本来の妖の姿になった烏羽と煤の姿が見えなくなり、ひとりでに後部座席側のドアがかちゃりと開いたその様子に、龍生は背中に僅かな震えを感じた。妖のこと、霊のことを説明され、信じられないこの事態が、夢でも幻でもなく現実に起きていることなのだと、頭では理解したように思っていたが——自分の頭は案外柔軟にできていたらしい——実際目にすると受け入れ難い存在に動揺して、龍生は自分の弱さを苦々しく思った。警察官は常に冷静な判断をし、落ち着いて行動しなければならないが、どんなに屈強な人間だってこの状況に薄ら寒いものを感じるのは、当然の事だろうと自分で自分を励まし、烏羽と煤が向かったSUVの車内を見ようと目を凝らした。

 岸は運転席から後部座席に移り、辺りを警戒しながらいそいそとタブレットの電源を入れた。はやる気持ちを押さえながら瞳をぎらつかせ、お目当てのファイルを開き、パスワードの要求に淀みなくキーボードを打つ。『my_boy』岸は動画に映っている15歳にもならないような少年の裸体を見ながら、自慰行為に耽った。

 煤はその不快な動画から意識的に視線を逸らし、霊に話しかけた。「その男は罰を与えられるべきだと思います。葬ってやりたい気持ちもよく分かりますが、今は私たちと少し話しをしませんか?」

 霊はゆっくりと煤に視線を向けた。「……あなた、誰?」

「私は煤、彼は烏羽、あなたの名前を教えてくださいませんか?」

「私はかえで

「楓さん、何をそんなに悲しんでいるのですか?」

「私の赤ちゃんが死んでしまったの——あいつ……あいつがやった。あいつが私を殺して、赤ん坊も殺した——」少女は自分の腹に爪を立て、えぐった。

 煤は思わず目を瞑った。死者の楓に痛みはないと分かっていても、自らの腹を裂き赤子を引きずり出そうとしている正気を失った少女に、子を産んだことのある煤は経験した痛みの記憶に震え、気が遠くなりそうになった。

 ふらついた煤の背中を烏羽が手を当てて支えた。若く溌剌とした少年は優しい心を誰に対しても惜しげもなく注いだ。

「ありがとう。大丈夫よ」弟のような、息子のような存在の——実際子供の頃から成長を見守ってきたのだ——烏羽に背中をそっと撫でられた煤は小さな声で烏羽に言った。

 腹から出てきた血まみれの赤子は、瞼も耳たぶも唇もまだ形成されておらず、人とも呼べない姿だった。

 烏羽は臆することなく赤子の額に優しく触れ、楓の腕を撫でた。「君たちをちゃんと親子にしてあげたい。愛らしい子供を君の腕に抱かせてあげたい。俺たちにその手伝いをさせてくれないか?」

「無理よ、だって私の赤ちゃんは死んじゃったんだもの——」

「そうね、死んでしまった子を生き返らせることはできないけれど、あなたと赤ん坊を理不尽の無い、幸福な世界へ連れて行ってあげたいと思っています。そして、それが私たちにはできます」煤は楓の顔をまっすぐに見つめた。

「ダメよ、ダメ、ダメ、天国へ行けとおっしゃるのでしょう?私は我が子を死なせてしまった罪人なのよ、地獄行きだわ。天国に子殺しが行けるはずがない、子供と引き離されてしまう——」楓は怯えたように取り乱した。

 美しいと言うほどではないが整った面立ちに、素朴で愛らしい——生前は輝いていたであろう——光りを失った黒い瞳をキョロキョロとせわしなく動かし、激しく動揺し取り乱す寸前の少女を落ち着かせて、姿を消されてしまう前に話しを聞いてもらわなければと思い、煤はいつも以上に相手を思いやる態度で、優しく声をかけた。「あなたが殺めたのですか?違うでしょう?産声を上げることなく天に召された我が子を、不憫に思っているからこそ、この世に残って無念を晴らしているのでしょう?それなら、あなたを罪人だと咎める人はいませんよ。むしろ子供を命がけで守っている素晴らしい母親だわ」煤の声には特別な何かがある。相手を落ち着かせ、信頼を得るのは得意分野だ。煤に語りかけられ、楓も例にもれず、少し落ち着きを取り戻したようだった。

「昔、私は無力でこの子を守ってあげられなかったわ。だけど今なら守ってあげられる。それだけ私は強くなったの、だからこの男——化け物——から子供たちを守らなければならないの。それが私の神から与えられた使命なのよ」楓は憎悪を込めた瞳で岸を睨みつけた。

「私も母親だからあなたの気持ち、とてもよく分かるわ。母というものは子を守るために強くなるものよね。だけど、あなたの大事な子供は今も心に傷を抱えたままだわ——もしも、悲しい過去を幸せなものに変えられるとしたら?他の親と同じように、我が子の成長した姿を見られるとしたら、あなたは母として子のために全力を尽くしますか?」今にも呪い殺してしまいそうな気配に包まれた楓の意識を岸から離し、腕に抱えられた子供に戻そうとした。

「もちろん尽くすわ——この子を産んであげられるの?私たち幸せになれるの?」楓は一縷の望みをかけて煤に縋るような目を向けた。

「あなたたち親子が幸せになれるよう、私たちに助力させてください」煤は女に一歩近づいた。

「でも、どうして私たちを助けてくれるの?」楓は眉間を寄せ、訝しんだ。

「子を大切に思う親と、親を慕う子を見捨てるわけにはいかないからです」

「私、あなたたちを知らない。何の得にもならないのに赤の他人を助けるなんて信じられないわ、きっと騙そうとしているのね。私を殺したあの男と同じよ——」楓の顔が般若のように変わり、一帯を陰気が包み込んだ。

 陽気に包まれている煤は、その凄まじい陰気に眩暈を感じ、クラクラとする頭を抱えた。

陰気に耐性のある烏羽は動じることなく楓に話しかけた。八重歯を覗かせた少年は全くの無害に見えた。「落ち着いて、俺たちは君を騙そうとしているんじゃない、助けようとしているんだ——その子の名前は?」と話しを逸らし、こちらに注意を向けさせた。

「——名前?」楓は烏羽をキョトンとした顔で見つめた。

「子供には名前が必要だろう?」

「考えていなかったわ」烏羽の思惑通り、楓から発せられた一帯を覆っている陰気が少し薄れた。

「それじゃあ名前を付けてあげよう」烏羽は少し考えた。「そうだ!お母さんの名前の一部をもらって、風雅ふうがってどうかな?」

「風雅——素敵な名前」楓は腕に抱いた血まみれの我が子を見つめた。

「うん、お母さんの容姿を受け継いだ風雅君は、きっと雅やかで、眉目秀麗な好男子になるだろうから、ぴったりの名前じゃないかな?」

 煤は楓の腕にそっと触れ、その体を陽気で満たした。「大きく成長した風雅君を見るのが今から楽しみね。きっと沢山の女性が彼に思いを寄せることになるでしょう。親としては、子の成長を誇らしくもあり、心配でもあります。でも、心優しい風雅君は母親を決してないがしろにしたりしない。敬うことのできる賢い子よ」

「こんなクズみたいな男がどうなろうと俺はどうでもいい、いっそのこと俺がこいつに制裁を加えてやりたいぐらいだ。だけど、母親がその手を血に染めていると知ったら子供は悲しむと思うんだ。その子のために俺たちの手を取ってもらえないかな?」烏羽が言った。

 自分の腕に置かれた、煤の白く透き通るような美しい手と、自分の血にまみれた醜い手を見比べて、楓は小さくコクリとうなずいた。

「楓さん私の手を取って、私を受け入れて下さい」煤は両手のひらを上に向け、楓に差しだした。

 楓は子供を腹に戻し、両手を煤の手に躊躇いがちにそっと重ねた。

「神から頂いた尊き我が身を媒体として使うことをお許しください。すべては母子の幸せを願っての事、天と地の神へ、この者に祝福があらんことを——《祓え給い、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え》」眩しいほどの光りが降り注ぎ、2人の体を包み込んだ。それはまるで神からの祝福、温かな抱擁のようだった。そうして、煤は自らの体に楓を納めた。

 烏羽と煤が出て行ってから、どうなっているのか分からない状況を、もどかしく思っていた龍生は、突然開いた後部座席のドアに、また肝を冷やした。後ろを振り返ると、烏羽と少し顔色を青くした煤が座っていた。

「煤?大丈夫か?顔色が悪そうだけど」龍生が心配そうに煤の顔を見つめた。

「ええ、大丈夫です。霊の名前は楓、亡くなった時、妊娠していたようです。犯人の特定はできていませんが、誰かに腹に宿る我が子もろとも殺された……その産んであげられなかった無念が強い怨念となり、怨霊になってしまったようです。着ている着物から察するに、昭和初期頃の貧しい少女だろうと思います」

「——今、その少女はどこに?」恐怖が背中を伝って脳天を貫き、龍生の体がぶるりと震えた。その答えは聞かずとも超自然的なものだと想像ができる、きっと聞いたことを後悔する羽目になる、そう思うのに何故か聞かずにはいられなかった。

「私に憑依してもらいました。岸佳之を罰しなければならないという思いに囚われている楓さんは、この男が死ぬまで離れることができませんが、私と一体化することでこの場所から移動させることができるのです」龍生の戸惑いを察した煤は、同情するような視線を龍生に向け説明した。

「そんなことして煤の体に危険はないのか?」知識の乏しい龍生だったが、憑依させるなんて物騒なこと、禁忌に触れるのではないだろうかと考え煤の体を案じた。

「そう難しいことではないのです。神からの祝福も受けましたし、楓さんが私を受け入れてくれたので、大丈夫です。私が彼女を裏切らなければ何の危険もありません。ただ、一体化すると、体だけではなく、知覚や感情まで共有してしまうのです。彼女の死因が絞殺なので、少し息苦しさを感じるだけです」煤は蒼白な顔の口元を緩ませた。

桔梗が言った。「それでも危険はゼロじゃないんだ。もしも、霊が敵意を抱いたら煤の体を乗っ取られてしまうし、最悪命を落とすことになる。急いでETERNITYに戻ろう」

「その後はどうするんです?」龍生が訊いた。

 極秘任務に従事している自分に出来ることと言えば、児童相談所の調査が正しく行われ、警察に通報が入り、岸の罪が露呈し逮捕されるのを見ていることしかできない。警察官はやりがいのある仕事だが、何もできず自分は無力だと感じるこの瞬間が、いつも正義感に溢れた桔梗の心を苛む。このまま岸を締め上げてやりたい気持ちを押さえて、桔梗は車を駐車場から出した。「まず、ETERNITYに戻って、彼女が殺された事件を調べる。彼女の無念を晴らしてやるのが俺たちの仕事だ。それができたら、玉依姫が天へと魂を導く」

 龍生は顎に手を当て、眉間の皺を寄せた。「なるほど、事件の捜査なら俺たちの出番ですが、古い資料をひっかきまわしたところで、昭和初期の事件の真相をつかめるでしょうか?権力者が殺されたような大事件ならまだしも、一般のしかも少女が殺された事件なんて、調べようがないのでは?」

「少し特殊な捜査をするんだ」桔梗は意味ありげに口の端を引き上げた。

「——なんだか含みのある笑い方ですね。嫌な予感しかしないのですが、これ以上に驚かされるんでしょうか?妖やら霊やら、この非現実をそろそろ現実だと受け入れる気になってきましたが、キャパオーバー気味です」龍生はあからさまに嫌な顔をした。

「まあ、君の常識が覆るくらいには驚くだろうね」まともな捜査は望めないだろうと察し、諦めを滲ませた表情の龍生に満足して、桔梗は喉の奥でくつくつと笑った。


 日が沈み、神社に夜の帳が下り始めた頃、ETERNITYに戻ってきた龍生たちを玉依姫と黒紅が出迎えた。

「お疲れさまでございました。もう少しで夕食ができますので、皆さま召し上がってくださいね」黒紅は温かい紅茶を差し出した。

 龍生が礼を言った。「黒紅さん、ありがとうございます。食事まで用意していただくなんてお手数おかけします」

「お気になさらずに、料理は私の趣味みたいなものですから」黒紅はキッチンへと姿を消した。

「怨霊は暴れることなく煤と一体化してくれたようです、まだ少女ですから心細くて誰かに助けてほしいと願っていたのかもしれません。一度陰気が漂いましたが、烏羽が上手く宥めてくれて、煤の陽気で落ち着いたようです」桔梗はいつものありえないほどに苦い茶をすすり、黒紅の妖しく揺れる突き出した胸と、誘うように踊る尻に股間が疼いた。美しく豊満なボディーの完璧な恋人を、今晩はどんなふうに愛でようかという妄想を、理性をかき集めて打ち消しながら報告した。

 煤が補足した。「名前は楓、まだ10代の少女に見えます。殺された時、妊娠していて、産んであげられなかったことに罪悪感を抱いているようです。その強い怨念が彼女を怨霊にしてしまっているようです。自分は子殺しの罪人だと思い込んでいて、成仏すれば地獄に落ち、子供と離ればなれになってしまうと恐れています。成仏するよう説得するのは難しいでしょう。それに私の我がままですが、このまま成仏を促すよりも、幸せにしてあげたいと思うのです」

「分かりました。煤の優しさ、温かさは死者にとって救いの光りです。あなたのその性質は得難いものです。ですので、今回も付き合っていただきたいですが、同じ母として煤にとっては辛いことかもしれません。どうですか?できますか?」

「はい、大丈夫です。私と一体化した楓さんの腹の中にいる子供が、母を慕っている。その気持ちが私にも絶えず伝わってくるのです。この子のためにも彼女の力になりたいです」

「煤——それではこちらへ」玉依姫は煤をリビングルームのソファーへと導いた。

 ゆったりとした大きなソファーに座った煤の小さな体は、ソファーにふんわりと包まれた。玉依姫は寄り添うように煤の隣に座り、龍生たちはダイニングルームから2人を、固唾を呑んで見守った。

 玉依姫は煤の右手を取り、両手に包み込んだ。「楓さん、私は玉依姫と申します。私と少しお話ししませんか?」

 煤は瞬きを一度して、話し始めた。「あなたは神様?ここは天国なの?」

 声も見た目も煤だったが、話し方は煤よりもずっと幼く、話しているのは煤ではなく、憑依した楓だろうと龍生は思った。

「ここは天国ではないわ、私は神に使わされた巫女よ。煤を覚えている?私は煤のお友達でね、あなたを助けて欲しいと頼まれたの。だから、あなたたち親子が幸せになって天国へ行けるよう手を貸すわ」

「神様の使い?私は罪人だから天国へ行けないわ」

 玉依姫の神々しい美しさに楓は、訝しむことなく神の使いだと受け入れたようだった。

「大丈夫よ、罪を償い、神から許しを得れば天国へ行けるのよ」

「本当に?私も風雅と一緒に天国へ行けるの?」

「ええ、そうよ。でも、そのためには生きている時に何があったのか、知る必要があるの。あなたに何があったのか、私に話してもらえるかしら」

「私は——よく覚えていないの。ずっと昔のことで……悪い男が私に伸し掛かってきて、苦しくてもがいたんだけど、とても重くてびくともしなくて」楓の瞳から涙がポロポロと零れた。

「辛いことを思い出させてしまったわね、ごめんなさい」玉依姫は煤の体を借りた楓の背中を撫でた。「楓さんは何歳かしら」

「12歳」

「どこに住んでいたか覚えていますか?」

「分からないわ、兄弟が沢山いたの。弟や妹の面倒を見てあげなくてはいけなくて、大変だったわ。お姉さんなんだから、小さい子は守ってあげなければならないでしょう?」

「そうね、楓さんは面倒見がとてもいいのね。だから辛い思いをしている子供を守ろうとしていたのね、1人で長い間よく頑張ったと思うわ。これからは私たちも一緒に守らせてちょうだい。疲れたでしょう?少し眠るといいわ」

「ええ、そうね安心したら眠くなってきちゃったわ」楓は大きな欠伸をして、瞬きをすると意識の中に沈み込んでしまったようで、煤が戻ってきた。

 その仕草があまりにも子供っぽく、龍生の心をかきむしった。

「煤、ありがとう」玉依姫は握っていた煤の手を、一度ぎゅっと握りそっと離した。

「楓さんはあまり覚えていないと言っていましたが、混乱しているように感じます。自分のものではない記憶も混在してしまっているのではないでしょうか」煤の顔色は相変わらず青いままだった。

「手から伝わってくる感情からもそう感じたわ。何か映像は見えましたか?」

憑依した霊が表に出てくる時、憑依された方は夢を見ているような感覚で、霊の記憶を見ることができる。

「時代は昭和4年だと思います。最後の記憶は街の劇場で、お芝居が封切りとなった日に弟——『よっちゃん』と呼ばれている男の子に、楓姉ちゃんと呼ばれていました——と一緒に劇場の前まで行ったことでした。もちろん観劇は高価ですし、子供だけでは見ることができなかったようですね」煤は垣間見た楓の記憶の中の、元気な男の子が『いつか役者になって楓姉ちゃんを劇に招待するよ』と弾けんばかりの笑顔で言っていたことを思い出して、微かに口角を上げた。「それと、大きな洋館が見えました。あまりいい記憶ではないようで、思い出すのを避けているように感じました」煤は小さく息を吐いた。

 玉依姫は労わるように微笑んだ。「当時のお芝居を調べれば場所の特定はできそうですね。楓さんを助けてあげましょうね」

「はい——」煤はこめかみをさすった。

「お食事の準備ができましたよ」黒紅がキッチンからひょっこりと顔を出した。

 煤は黒紅を手伝うためにキッチンへと歩いて行った。微かに口角を上げたように見えたが、青い顔をして元気をなくした煤を、龍生は心配そうに見つめた。

「煤なら大丈夫ですよ。ああ見えて強いですから。事件が解決すれば折り合いをつけるでしょう」玉依姫は龍生の隣の席に座った。

「そうでしょうか。随分と堪えているように見えるのですが」

「それは楓さんの意識がそう見せているのだと思います。辛い人生だったのでしょう」

「子供を食いものにする奴は許せません」龍生は憤慨した。

「ええ、確かに、子供は守られなければならない、尊き存在です」玉依姫は龍生に微笑みかけた。

 そのあまりの美しさに龍生は見惚れた。そして、夜のお勤めの事を不意に思い出してしまい赤面した。玉依姫は赤面の理由を察したようで、クスクスと笑った。

 黒紅の料理は本当に絶品だった。どんなに高級なレストランでもこんなに美味しい物は食べられないだろう。これはもしかしたら妖だからできることなのかもしれない、特別な何かが料理に入っているのではないだろうかと龍生は頭を捻った。怖いものが出てきそうだったので、真相を聞くのはやめておいた。賢明な判断だろう、知らなくていいことがこの世には多く存在するものなのだ。

 食事を終えて人間界に戻ってきた龍生に桔梗が言った。「明日は朝8時にここへ集合、楓を殺したのが誰なのか、また父親が誰なのかということも知りたいな。どんな人生を歩んできたのかを調べよう」

「12歳で妊娠、昭和初期とはいえ結婚するには少し幼すぎるのではないでしょうか?」

「確かに、事情があるんだろう。煤の見立てでは貧しい家の少女だ。12歳の少女が妊娠とくれば想像に難くないが、推測はやめておこう時代が違えば事情も違ってくる。気に病むなと言っても難しいだろうが、今日はゆっくり寝て体を休めておけ、明日はきつい一日になるだろう」桔梗は手を振って社務所へ歩いて行った。

 龍生は楓の人生について考えながら車を自宅へ向かわせた。無理やり関係を持たされたのか、男に誑かされたのか、どちらだろうか、時代が違うのだから12歳の少女が結婚していたと考えられなくもないが、あまりにも早すぎる。幸せな結婚とは程遠い気がした。何にせよそれはずっと昔に起きた出来事で、捜査もままならない。ましてや楓を殺した犯人を捕まえるなんて不可能だ。桔梗警視正はこの事件を一体どうやって解決させるつもりなのか、解決と言ったって何十年も前の事件だ。当事者はおろか、事情を知るものだって全員が死んでしまっている。そもそも楓とは何者なのか、殺された理由は?単なる行きずりの犯行で、妊婦が通り魔に殺されたという不運な結末なのかもしれないし、楓をレイプした男が発覚を恐れて始末したのかもしれない。そのどれもが推測の域を出ず、可能性を考え出したらきりがない。手がかりすら無い現状、真相を暴くことはできないだろうと思えた。事件の全貌すら掴めるか怪しいものだ。——今日はもうダメだ、考えるのは明日にしよう。自分の頭に詰め込める容量を軽く超えてしまったようだ。これ以上考えたらきっと本当に頭がパッカンと割れてしまいそうだ——

 それにしても玉依姫はどうやって魂を天へと導くのだろうか?映画なんかでよくある呪文のようなものを唱えて成仏させるのだろうか。まるで『コンスタンティン』の世界だな。桔梗警視正はさながらキアヌ・リーヴスってところか?それじゃあ俺はシャイア・ラブーフか……。映画を観るのは好きだが、それが現実となると頭が痛い、目の奥に感じる頭痛の種をずっと無視し続けてきたが、そろそろごまかせないくらいに主張し始めていた。

 帰ったら鎮痛剤を飲んで寝ることにしよう。明日は朝8時に神社だから、7時30分に家を出れば間に合う。7時に起きてシャワーを浴びよう。今は22時か——昭和時代の芝居や洋館について、寝る前に少し調べてみよう。楓に繋がるものが見つかると思っているわけではないが——そんなに楽観的な性格ではない——昭和の男女関係だとか生活環境、特に幼妻を娶る理由についても把握しておいて損はないだろう。胸が悪くなる仕事だなと感じながら自宅駐車場に車を停めて、座席に龍生は深く沈みこんだ。岸が少年の動画を見ながら、自慰行為に及んでいる気色悪い行為を思い出してしまい、顔を両手で覆った。慌てて心地良い記憶にすげ替えようとして見事に失敗した。頭に浮かんだ記憶は玉依姫の微笑みだった。急に熱くなった顔と、下半身を罵りながら車を降りて、エレベーターに向かった。

 寝る前に冷たいシャワーを浴びて冷静になるべきか、明日、気が散らないようにするため、抜いておくべきか、ああ、でも今抜いたら確実に玉依姫をオカズにしてしまう。それは絶対にダメだ。あの美しい女性を汚すことになってしまう。小心者と笑われたっていい、子孫を残すためだけの心が伴わないセックスなんてできない、やっぱり夜のお勤めは断ろう。龍生は自分の不甲斐なさにがっくりと肩を落として家に入っていった。

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LIVE IN THE PAST——あの日への弔い—— 枇杷 水月 @MizukiBiwa

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