第3話 任命

 赤い鳥居の前に立ち、男は頭を捻った。

昨日、警備局長のオフィスに呼び出された警察庁警備局公安課、常磐ときわ龍生りゅうせい警視は、不安に波打つ心を隠して平然とした顔を装った。

 極秘任務を与えると言われ、龍生は喜び勇んだ。元福岡県警本部長だった祖父に憧れて警察官を目指した龍生の目標は当然、県警本部長のポストだ。

警備局長直々の依頼を迅速に完遂してみせれば、出世の足掛かりとなりえる。近い将来、警視監まで引っ張り上げてもらえるかもしれない。そうなれば県警本部長の夢も現実味を帯びてくる。

 龍生はいつも持ち歩いている、ブリーフケースの中を探って一枚の書類を取り出した。

書類と言っても住所が書いてあるだけだ。その住所と地図アプリに表示されている現在地を照らし合わせた。

確かにこの場所で間違いない。

 極秘任務の場所が神社?ありえない。そもそも、この書類に書いてある住所事態、間違っている可能性が高いのではないだろうか。そう思い至った龍生が——自分にこの書類を渡してきた、警備局長のアシスタントの直通番号——電話をかけようとした時、見知らぬ男が声をかけてきた。

「君、常磐龍生警視かな?」

龍生は見知らぬ男から名前を呼ばれて、怪訝な顔をした。「あなたは?」

「俺は桔梗ききょう莞爾かんじ、警視生だ。チームPASTパストにようこそ。今日から君の上司であり相棒になる。よろしくな」

龍生よりも少し背が高く、筋骨たくましい身体と短く刈り上げた黒い髪が、剛健な印象を与えている。

 桔梗は出勤してきたとは思えないような服装をしていた。龍生が黒いスーツを着込み、黒いトレンチコートを羽織っているのに対して、桔梗はジーパンとトレーナーにブルゾンという出で立ちだった。

「どういうことですか?」いまひとつ事情が呑み込めない状況に龍生は困惑した。

「説明するのは難しいな、実際に見てもらった方が早い、ついてきて」

「桔梗警視正、失礼ですが、ここは神社ではないですか?ここに何があると言うのですか?」

「国家を揺るがす真実があるといったところかな、今日からここが君の職場になる」

「神社がですか!」

左遷されたということなのかと思い、今にも意識を失いそうなほどに、紙のように白くなった龍生の顔を桔梗がおかしそうに笑った。

桔梗は龍生の背中をバシッと叩いた。「心配しなくても出世コースから外れたわけじゃないよ、極秘任務だからこんなところを利用しているんだ。神主かんぬしの格好をした男がまさか警官だなんて思わないだろう?」

蒼白だった顔が初めての潜入捜査に色めきたち、小躍りするすんでの所でこらえた。

龍生は声をひそめた。「潜入捜査ということですか?」

「うーん、潜入捜査ということになるのかな?PASTの任務を把握しているのは警察庁の中でも我々と、警察庁長官、次長ぐらいだ。後は任務を指示してくる謎の誰か——彼が何者なのかは俺も知らないんだ」

 警備局長にも知らされていないということは、情報漏洩のリスク回避だろう。

更には、指示してくる人物を知らされていないときた——要するに直接的なやり取りをしていないということになる。外事情報部が攻撃計画を傍受した可能性を龍生は真っ先に考えた。「——まさかテロリストですか?」

 桔梗は参道の階段を上って本殿まで龍生を案内した。「ちょっと違うかな、そんな物騒なものではないけれど、このことが世間に知られたら、世界各国のマスコミが押し寄せるだろうね」社殿の前で足を止めた。「一応お参りしとこうか」

 信仰心の薄い龍生は、大学受験の前に友人と来たことがあるくらいで、神社にはとんと縁が無かった。

ましてや国家の非常事態かもしれないときに、呑気に神社参りをしていていいものだろうかと訝しんだが、桔梗からは非常事態を匂わせるような焦りを感じない。

面倒だなと思いはするものの、ここは従うのが賢明だろう。ただ手を合わせることにさほどの時間はかからない、どんな任務なのか早く知りたくて心が急いているが、無暗に上司を不快にさせる必要はない『長い物には巻かれろ、媚びは売って損なし』の精神でここまで順調に出世してきた龍生は、素直に従った。

「さて、とりあえず君にも装束しょうぞくに着替えてもらおうか、社務所に案内しよう」

「装束ですか?」龍生は桔梗の後を追った。

「ああ、何事も見かけは大事だからな、完璧に神主かんぬしに化けてもらうぞ」

「なるほど、はかまを履くんですね」

「そのとおり、こんなことでもない限り神主の装束なんて着られないからな、結構楽しいぞ。君はまだ若いから袴の色は浅葱あさぎ色だな」桔梗は社務所の奥、備品庫の棚から白衣と袴を一式、龍生に渡した。

「年齢によって袴の色が違うんですか?」

「神主にも階級があるんだよ、浅葱色は3級、4級の神職だ。着付けできるか?」

「申し訳ありません。恥ずかしながら、和服を着たことがありません」

「まあ、普通はそうだな、難しくはないんだ、ちょっと特殊なだけでね。慣れるまでは巫女さんに手伝ってもらうといい」桔梗は緋袴ひばかまを着用している女に話しかけた。「すす、悪いけど彼の着替えを手伝ってくれるかい?」

「桔梗様、その方が新しいトラベラーですの?」10代後半の少女と言ってもいいような見た目の、クリっとした瞳がなんとも愛らしい巫女は、薄墨色の髪の毛を後ろで一つに結んでいる所だった。あと数年もすれば、男がわんさか寄って来るような女性に成長するだろうなと龍生は思った。

「ああ、そうだよ、常磐龍生警視だ」

「まあ、素敵な殿方ですわね。きっと姫様も気に入られるわ——」煤は袖で口元を隠して小さく笑い声を漏らした。「かしこまりました。殿方のお着替え手伝わせていただきます。常磐様、こちらへどうぞ」煤は龍生を手招きした。

 煤の良家の子女のような振る舞いに、神道の世界に疎い龍生は、こんな家に生まれたら躾けが相当に厳しいんだろうなと漠然と思った。

畳敷きの部屋に、文机と坐布団が一枚、姿見が一台置かれた部屋に龍生は案内された。

「ここは常磐様の自室としてお使いください、お仕事で遅くなった時に寝泊まりできるよう、押し入れの中にはお布団を用意しております。私は母屋のほうに常駐しておりますので、不足があればいつでも何なりとお申し付け下さい」

「お気遣い感謝します。自宅はここからさほど離れていません。寝泊まりすることはあまりないでしょう。」

煤はクスクスと笑った。「桔梗様は、ほとんどこの社務所に寝泊まりされていらっしゃいますよ」

「そうなんですか!すみません、ご迷惑をおかけして……」あのどこか飄々とした、馬鹿力の——さっき叩かれた背中がじんわりと痛い、きっと格闘技の心得があるに違いない——男は、若い女性が1人で暮らしている家に、離れとはいえ寝泊まりするとは、一体何を考えているんだか。もしも変な噂が立ったりしたら、職を追われ人生を棒に振ることになるというのに、無分別すぎる。

 これは諫言かんげんすべきことなのだろうが、配属されたばかりで波風を立てたくない龍生は、頭を悩ませた。

いい大人が少女に手を出すとは思えないが、念のため間違いが起きないよう見張っていよう。もしも、レイプなんてことになったら彼女がかわいそうだ。それこそ人生が終わってしまう。龍生の目には、桔梗がそんな卑劣なことをする奴に見えなかったが、人は見かけによらない。

「いいえ、母屋には私1人きりなので、警察の方がいらっしゃるだけで、心強いですわ」

「そうでしたか、私で力になれることがあれば、いつでも頼りにしてください」

「常磐様はお優しい——さあ、着付けをいたしましょうね。まずはお洋服を全てお脱ぎになってください」

龍生は顔を赤くした。「全て……ですか?」

「下着はそのままで結構ですよ」

「ですが……女性の前で下着姿になるのはちょっと、ましてやあなたのように若い女性の前では不道徳かと……」

「それでは、洋服を脱いだ後、襦袢じゅばんだけご自分でお召しになっていただきましょうか。私はその間、廊下に出ておりますから」煤は龍生に襦袢と腰ひもを渡して、部屋を出た。

 浴衣ゆかたくらいなら着たことがあった龍生は、このくらいなら自分にもできるだろうと思った。

「さっき言っていたトラベラーって何ですか?」廊下にいる煤に聞こえるように、龍生は少し声を大きくした。

「それは、玉依姫から直接お聞きになられてください。私はそのことについて話せる権限を持っていないのです」

「玉依姫?とは誰のことですか?」

「それも、私からは話せません——のちほど、姫様のところへご案内いたしますので、直接お聞きください。お召し替え終わられましたか?」

「ああ、はい、これでいいのかな」

煤は戸を開けて再び室内に足を踏み入れた。「はい、よろしいです。では着付けていきますね。苦しかったり、痛かったりしたら仰ってください」

煤は慣れた手つきで、着方の説明を交えながら、あっという間に神主の装束を着付けた。

「さすがは巫女さんだ。和服はお手の物ですね」姿見に自分を映して、見慣れない着物姿に龍生は、子供のようにウキウキしてしまったことが恥ずかしくて、視線を落とした。

「お気に召していただけたようで、安心しましたわ。ここではこの格好を強いることになってしまいますから——」

「場所をお貸しいただいているのですから、このくらいは」

「それでは本殿のほうへご案内いたします。姫様がお待ちですわ」

 その玉依姫とは祀られている神の事だろうか、形だけとはいえ、神職に就くのだから就任式が必要なのかもしれない。神という不確かな存在を信じていない龍生には、どうでもいいことのように思えるが、信じる者にとって装束に袖を通すということは、重大な意味を持つものなのだろう。何をするのか分からないが、言われた通りにしていれば問題ないだろうと龍生は考えた。

 既に桔梗は袴に着替え、本殿に正座して待っていた。「警視正の袴の色は紫なんですね、階級は何になるのですか?」

「2級だ。俺の年齢では2級が妥当らしい、君は浅葱色がよく似合うな」

「はあ、ありがとうございます。今から何をするのですか?」

「通礼式だ。こっちは何もする必要はない、ただ鳥居を潜ればいいだけだ。玉依姫に認められれば潜れる。認められなければ……まあ、それは無いだろうから気負う必要はない」

「それでは参りましょう——」煤は龍生の手を引いて本殿の裏へと回った。

 そこには小さな鳥居があった。身をかがめて潜った煤の真似をして龍生も潜る。

春は目前、冬の厳しい寒さが僅かに和らぎ、凍えるほどではなくなった冷たい風が花弁を運び、龍生の頬を撫でていった。『白』『桃』『黄』ひらひらと舞う花弁とはこんなにも美しく目を奪われるものだっただろうかと龍生は見入った。

その不思議な光景に違和感を覚えて、先ほど潜ってきた鳥居を龍生は振り返った。

確かにそこに鳥居は存在する。しかし、本殿はどこにも見当たらない。本殿があるべき場所には、ブルーの小さな花が一面に咲いていた。

「……これは、どうなってるんだ?」龍生は近づいて来る1人の巫女に気が付いた。

彼女の長い髪は蜜のように輝いていて、透き通るような肌は雪のようで、閉月羞花とは彼女のために作られた言葉だと龍生は思った。それほどに美しい女だった。

「こんにちは、驚きましたか?私は玉依姫と申します」

コロリと頭を傾け微笑んだ姿は、まるで百合の花が風に揺れたようだった。

口をぽかんと開けて固まってしまっている龍生を、桔梗が笑った。

「姫のあまりの美しさに声が出なくなってしまったらしい」

「まあ、桔梗、それは嬉しいお言葉ですね」

龍生はハッとした。「申し訳ございません。その……驚いてしまって、私は常磐龍生と申します」

「常磐、ようこそおいで下さいました。ここは人間界とは隔絶された場所に存在しています。——『鏡の中の世界』というと分かりやすいでしょうか——我々はここをETERNITYエタニティと呼んでいます。私はこの森の管理を任されています。

森が削られ食糧難に喘いでいた——妖は森の陽気を糧に生きています——妖たちを不憫に思ったあまてらす大御神おおみかみは霊域を作り出しました。通り道はその鳥居のみ。妖が住む森ETERNITYに入れる人間はあなたと桔梗だけです」

「妖って?」突風が龍生の体に吹き付けた。咄嗟に目を閉じて風をやり過ごした後、目を開けると、信じられないほど大きな白狐びゃっこが、龍生の顔を覗き込んでいた。「うわあ!」

「ふん、情けない!臆病な奴だな」9本の尻尾をゆったりと揺らしながら、龍生から離れて玉依姫の隣に座った。

白狐は160㎝ほどの背丈の玉依姫より10㎝ほど大きかった。

「——狐がしゃべった!」龍生はあまりの出来事に腰を抜かして、尻もちをついた。

白磁はくじ、驚かしてはいけませんよ」玉依姫は白磁のふさふさとした毛を優しく撫でて、龍生に。手を差し伸べた。「この子は白磁、九尾の狐です。私の用心棒のようなことをしてくれています」

 玉依姫に手を引いて立たせてもらった龍生は、どうにも事態がのみ込めず、玉依姫と桔梗の間で視線を彷徨わせた。

「警視正、これは何かの冗談ですか?」

 飛び込んできた嘘のような出来事に目を丸くしている龍生を、桔梗は愉快そうに笑った。

「これが真実だ。警察は以前から妖に協力を仰いで捜査をしている。当然このETERNITYの存在を知っている人間はごく一部だがな」

「捜査?何の事件ですか?」

「そうだな、肩慣らしに丁度よさそうな事件が発生したから、細かいことは捜査しながら説明していくとしよう」

「それでは、私の住まいに案内いたします。お茶を飲みながら新たな事件の詳細を聞くこととしましょう」ゆったりとした足取りで玉依姫は来た道を歩いた。

後を追うように龍生と桔梗と煤は森の中へと入った。

 龍生はこの摩訶不思議な出来事を目の当たりにしても、半ば信じられず可能性を頭の中で精査しながら、未舗装の道を警戒しつつ進んだ。

 森の中に佇む大きくはないが趣味の良さそうな家——多分こういうのを趣味が良いと言うんだろう、家の趣に関心がない龍生には、おとぎ話の中の妖精が住んでいる家にしか見えなかった。

前庭には小川が流れ、よく見ると魚が大量に泳いでいる。

石畳の小道を草花が取り囲み、可憐に咲く花たちは訪問客の心を弾ませようとしている。レンガ造りのしっかりとした家は、煙突からモクモクと白煙が上がっていて、部屋の中が暖かいのだなと分かる。

 玉依姫が玄関のドアを開けた。「さあどうぞ、お入りなさい——黒紅くろべに、今戻りました」

家の中から返事をする微かな声が聞こえてきた。ややあって、30歳くらいの女性が慌てて出てきた。

 エメラルドのネックレスが首元を華やかに彩り、揃いのイヤリングが耳元で軽やかに揺れている。その女性は豊満なバストを覆う僅かな布と、丸みを帯びた尻がスリットから覗くような艶めかしいデザインの濃紺のドレスを、見事に着こなしていた。

美味しそうな体とはまさにこのことを言うのだろう。

龍生はこの妖艶な女を直視することができずに、チラチラと盗み見た。

「お待たせして、申し訳ありません。お料理をしていて手が離せなかったのです」

「いいのよ、あなたの作る美味しいお料理のためなら、いくらでも待ちますわ」

 いきいきとした植物が床や棚の上、天井から吊るされ、それを引き立てるように白を基調とする家具が配されている室内は明るく、リビングのソファーに置かれた黄色や赤色のクッションが目を惹く。

外のテラスに続くようにダイニングテーブルが置かれ、20人くらいは座れるほどだ。

奥のキッチンからはお腹を鳴らすような匂いが漂ってきている。

 龍生は口の中に唾液が広がるのを感じた。「いい家ですね。温かみがあって、鮮やかだ」

「ありがとうございます。ここは玉依姫の希望を聞いて建てられた家なのですよ。代々の姫様は日本家屋を好みましたけどね、こちらの姫様は植物に囲まれて暮らしたいとおっしゃって」妖艶な女は龍生に微笑みかけた。「私は先々代の頃から姫様の侍女をしております。黒紅くろべにと申します」

「常磐龍生です。よろしくお願いします。あなたも妖なのですか?」

 妖なんて絶対にありえない、もしかしたら自分は知らず知らずのうちに危険なドラッグを飲んでしまったのかもしれない、だとしたらこれは幻覚で、正気に戻るまでどのくらいだろうかと龍生は、昨日何を口にして、誰に接触したか事細かに思い出そうとした。

「ええ、私はふくろうの妖ですわ」

幻覚とはいえ、これほどの肉体を持っているなら、一度は抱いてみたいなと龍生はいかがわしい妄想をしてしまい、気まずさから視線を逸らした。

「今日は良いお天気です。折角ですから外でお茶をしましょう。黒紅、温室に茶を持ってきてちょうだい」

「はい、かしこまりました。桔梗様には、いつものお茶をお出ししますね、常磐様はいかがいたしましょうか?」

「ありがとう、常磐にも同じものを頼むよ」桔梗は少しだけ意地悪な顔をして、黒紅に茶を頼むと外へ出て行く玉依姫の後をついて行った。

 完璧なまでに手入れされた薔薇園が美しい裏庭は、薔薇が咲く日を心待ちにしているようだった。

これだけの数の薔薇が一斉に咲き誇る季節には、むせ返るような花の香りが庭園を訪れる者を迎えるだろう。

 ドーム型の温室に龍生と桔梗は足を踏み入れた。

まさに妖精の住処だと龍生は思った。天井を蔦が這っていて、何かの実がこぼれ落ちそうなほど実っている。室内には蔦の隙間から陽光が差し込み、肌寒い屋外とは違って屋内は暖かかった。

 玉依姫は3人掛けのソファーに座り、龍生と桔梗は向かいの椅子に腰を下ろした。

白磁は用心棒らしく入り口近くに待機している。龍生が玉依姫に危害を加えるのではないかと警戒しているようだ。もし指一本でも触れようものなら食い殺してやると言わんばかりの目で、龍生は睨まれた気がして、体中の毛が逆立った。

 黒紅と煤がティーセットを一式持ってきて、それぞれ丁寧な所作でテーブルに並べ、お茶を注いでいった。

 マナーに疎い龍生には分からなかったが——そもそもお茶を飲むだけのことにマナーがあるのだろうか——正しくテーブルがセッティングされているように見えた。

マナーを気にした方がいいのかと思いはしたが、結局のところマナーを知らないのだから、適当に飲むしかない。

 龍生はカップを右手で持ち、ゴクリと一口飲み込んだ。「——にっが!」

 目玉が飛びだしそうな勢いで咳き込む龍生を、桔梗が愉快そうに笑った。「あはは、これはセンブリ茶だ。食欲不振や胃腸虚弱に効くんだ。会食が続くと辛くてな、黒紅が淹れてくれたこの茶が胃に効くんだ。常磐も警視になったんだから、これから会食が増えるだろう。今からこの茶の味に慣れておいた方がいい」

「許容の範囲をはるかに超えた苦さだと思うのですが……」龍生は顔をしかめて、カップの中身を見つめた。

「うん、まあな、良薬は口に苦し、とはよく言ったものだ」桔梗は豪快に笑った。

 袖で口元を押さえながら、上品にクスクスと玉依姫は笑った。

「人とは面白い生き物ですね。薬が必要なほど体の毒になるようなことを好んでするのですから」

「姫、そのお言葉、お偉いさんたちに言ってくれませんか。俺はこの会食という務めが大嫌いでね。好きでもない奴に媚びなきゃならないなんて、まっぴらごめんだ」

「それでも、出世には必要でしょう」黒紅が気を利かして用意してくれていた、苦くないお茶を龍生は口直しにと啜った。

「俺は警視正で十分だよ」

「玉依姫は何の妖なんですか?」

「私は妖ではありません。日本の初代天皇、神武じんむ天皇てんのうの母である玉依姫たまよりひめの子孫です。玉依姫という名は神霊の依り代となる姫という意味を持ちます、つまり巫女です。その血を受け継いでいる私もまた巫女なのです」

「まあ要するに、玉依姫は日本神話に出て来る神様一族の1人だってことだな」桔梗が言った。

「ええ⁉神様だって⁉」龍生は目を丸くして、頭を抱えた。「こんな可笑しなことあってたまるか、そもそも妖だとか神様だとか存在するわけないだろう、それを何で俺はちょっと受け入れそうになってしまってるんだ。これはきっと夢を見ているに違いない。そうだ今に目が覚めて、家のベッドで大笑いすることになるはずだ」龍生はブツブツと呟いた。

 桔梗は大笑いしてやりたいのを堪えて、同情するように龍生の肩に手を置いた。「それじゃあ、目が覚めるまでの間、我々はこの奇々怪々な常磐の夢に付き合うとしよう」桔梗は書類をカバンから取りだして龍生の前に1部置いた。「連続不審死だ。まず1件目だと思われているのは、山内啓太26歳、男性、会社員、会社帰り車に撥ねられて死亡」

「交通事故?何故それが連続不審死に?」書類から顔を上げた龍生は怪訝な顔をして言った。

「もちろん最初は事故死で方がついている。その後にも1年間に4件事故死が続いた。佐久間徹32歳、男性、土木作業員、仕事中に高所から転落して死亡。松田みのり29歳、女性、無職、自転車の操作を誤り、川に転落して死亡。友田和夫45歳、男性、自宅ベランダから転落して死亡。脇田麻耶30歳、女性、パート従業員、仕事中、重機に巻きこまれ死亡。

この5件の不運な事故と思われていた事件が繋がった理由は、全員児童相談所が近隣住民や学校からの通報で、虐待の可能性ありとして、家庭訪問を行っていたからだ」

「誰かが事故に見せかけて殺したということですか?だとしたら刑事部の案件になるのではないですか?」

「もし生きた人間の仕業なら刑事部の案件だろう。故意に事故を装ったのなら、何かしら犯人に繋がる痕跡があるはずだ。しかし、どう見てもただの事故死だ。犯人がいると仮定して話すが、それは生きていないのではないだろうか。生きていない何かは捕まえることも、法で裁くこともできない。そこで俺たちの出番だ」

「妖の仕業ということですか?」自然と『妖』という言葉が口から出てしまっていることに龍生は、頭を壁に打ち付けたい気分になった。

「それはどうだろうね、人間を驚かせたり、からかったりする妖は沢山いるけど、危害を加えるような凶暴な妖は稀なんだよ。ここ何百年と現れていない。これは幽霊の仕業ではないかと考えているんだ」

「——幽霊ですか?警視正……ふざけてます?」こんなバカげた話に何故俺は付き合っているのだろうか、夢なら早く覚めてくれと思う反面、愚かにも玉依姫の美しさに魅入られて、夢でなければいいと思ってしまっている。

「とんでもない、大まじめだ。我々チームPASTの主たる任務はゴーストバスターだ。幽霊相手に人間ができることなんて無いだろう?話しを聞くどろころか、姿さえ見えないんだ。それでは対処したくてもできない。だから幽霊が見えて、話が聞ける妖たちに協力を仰いでいるんだ」

龍生は椅子の背にもたれかかって、天を仰いだ。「ああ、いよいよ俺の頭はどうかしてしまったらしい。こんなの絶対にありえないって思っているのに、妙に納得している自分が怖い」

「それは常磐にも身に覚えがあるからだろう。子供の頃、他人には見えないものを見たことはないか?俺もお前も霊力が強い、だからPASTに選ばれたんだ。大人になった今はもう妖を見ることはできないが、穢れを知らない子供の、純粋な魂でなら見えていたはずだ。俺は妖と長く一緒にいることで、薄っすらとだが、また見えるようになってきた」

「黒紅や白磁は見えていますよ。何故です?」

「それはここが霊域だからだ。人間界に戻れば妖の姿は見えなくなる」

「おかげで捜査がしやすいですよ。どんなところでも、誰にも見つからずに侵入できますから」煤が補足した。

「それじゃあ、煤も妖だってことなのか?」

「はい、私は鼠の妖です」

「あれ?でもさっき神社にいた時も君のことは見えていた——」

人型ひとがたに化けているからです。妖本来の姿を普通の人間は見ることができませんが、人型に化けている時の妖は見ることができるのです。ですから時折、人間の子供と遊びたくて住処の山を離れ、人里に下りてきてしまう妖がいるのです」

 龍生は幼いころに体験した不思議な——今では幻を見たのではないかと思っている出来事を、記憶を辿るように話した。「4歳の頃、祖父母の家に遊びに行って山で迷子になったことがあるんです。帰れなくなって泣いていると、どこからか鳥が飛んできて、すごくきれいな鳥だったので捕まえようと思い、夢中で追いかけたんです。ところが、いつの間にか山を下りてきていたようで保護されました。それからもその鳥を俺は時々見かけていましたけど、祖父も祖母も見たことがないと言っていました。それから、3年程経った頃、俺も見かけなくなってしまった。てっきり死んでしまったんだとばかり思っていたけど、見えなくなっただけなのか?」

玉依姫が答えた。「妖かもしれませんね。迷子の子供を気の毒に思ったのでしょう」

「人型になって声をかけてくれたらよかったのに——」

黒紅が言った。「子供の妖だったのでしょう。大人にならないと人型に化けることができないのです」

「——そうなのか」これが現実で、妖やら幽霊がいると仮定して、あの時救われたのだとしたら、いつか祖父母の家に行った時、山の中へ命の恩人の鳥を探しに行ってみようかなと龍生は思った。

「桔梗、常磐、煤と烏羽からすばを連れて調査に行ってきてください」玉依姫が指示をした。

桔梗が答えた。「分かりました」

 龍生と桔梗は玉依姫に暇を告げて、煤と一緒に来た道を歩いて戻り、霊域と人間界を繋ぐ鳥居のところまで戻ってきた。

突然飛んできたカラスが龍生の目の前で人型に変化して着地した。

178㎝の龍生より5㎝ほど背の低い、20歳くらいの溌剌とした好青年が歯を見せて笑った。「俺は烏羽からすばカラスの妖だよろしくな」

「常磐龍生だ、よろしく」龍生は烏羽の笑顔につられて口元を緩めた。

「莞爾、子供がらみの事件なんだって?気が重いな」烏羽は肩を落とした。

「児童相談所が虐待の可能性ありと認識している人物を、片っ端からあたってみることにしよう。次のターゲットを殺される前に解決しないとな。烏羽と煤は何か不穏なものを感じたら教えてくれ」桔梗が指示した。

 人間界に戻ってきた龍生たちは、装束から洋服に着替えを済ませた——装束のままで聞き込みをしたのでは、目立って仕方がない——

烏羽が龍生に訊いた。「なあ、龍生は恋人いるのか?」

「いないよ」今は仕事が最も優先すべきことだと思っている龍生に、誰かと付き合うような暇はなかった。

「良かった!それなら姫様と交尾ができるな!」

「何だって⁉」

4人は並んで駐車場へ歩いた。

「常磐、言ってなかったことがあるんだが——俺たちには別の任務もあってな、言いにくいんだが、玉依姫の夜のお相手をしなきゃならないんだ。子孫を残すために」桔梗は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「それでは、警視正は玉依姫と?」龍生は青褪めて聞いた。

「以前はな、今は黒紅と恋人になっちまって役目を降ろされたんだ」ほんのりと赤らめた顔で、照れながらまた頭を掻いた。

「何ですって……」見たくもない30を過ぎた男の照れた顔を、何故見せられなければならないんだろうかと、龍生は吐き気がした。

龍生は桔梗の車——黒いセダンの助手席に乗り込んだ。後部座席には烏羽と煤が、運転席には桔梗が座った。

「昔は強制的だったみたいだが、今の玉依姫に代替わりしてからは、意思を尊重することになっている。お前が嫌ならそれでいいんだ。俺が断っといてやる。それでチームを外されるなんてことにはならないから安心しろ」桔梗は車のエンジンをかけて、駐車場から車を出した。

 烏羽が口を挟んだ。「姫様はあんなに美しいんだ、嫌なことなんてあるものか。そうだろう?龍生」

「美しいのは分かるが……だからってこれは何か違う気がする」ハリウッド女優顔負けの美人を相手に出来るなら、天にも昇る心地だろうが、任務となると男のプライドが許さない気がした。

煤が口を挟んだ。「もしかして、常磐様は交尾をしたことがないのですか?」

少女のような愛らしい女性から、そんな言葉が出て来るとは思いもせず愕然とした。

龍生は困ったように言った。「煤——君の口から交尾なんて言葉を聞きたくないんだが」

「煤は子沢山だぞ、みんなETERNITYで暮らしている」桔梗が言った。

「ええ!煤って何歳?」

「妖は歳を数える慣習がないので正確には分かりませんが、私は生まれてから60年程です。妖の寿命は人間よりも長く、約800年くらいは生きると言われています」

「そんなに長生きなのか——」妖が人間と一緒に暮らせない理由は、ここにもあるのではないだろうかと龍生は思った。100年生きれば大往生の人間と800年生きる妖では、流れる時間のスピードが全然違う。

「夜の相手をするかどうかは、この事件が解決するまでにゆっくり考えてくれればいい」

 夜のお勤めのことでいっぱいになり龍生の頭は、グルグルと回った。さらに眩暈がしてきて、目を固く閉じた。

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