第3話
ダダニウムでさえあえて近付かないあまり治安がよろしくない区画にある娼婦街。その店はバス通りに面した一角にあった。派手な電飾に彩られた一階が娼婦館で、薄暗い上階が娼婦たちの寮となっている。
「ここが、あたしんち」
歴史ある建築物なのか、赤煉瓦で装飾された古風な外見で、そこへ現代風のネオンサインと原色の電飾がやたら場違い感を演出している。
グリニッチとダダニウムの姿を見つけたコボルド種の女性店員が小さく頭を下げた。呼び込み要員だろう。胸元の開けたスーツが子犬のように突き出た鼻と口によく似合っている。
グリニッチは軽く手を上げて挨拶を返し、そそくさと店舗の裏手にダダニウムを引っ張った。
「ぼさっと突っ立ってると、入るの迷ってるお客さんだと間違えられるよ」
寮棟に上がる階段は建物裏にあった。オークの躯体にも耐えられる幅の広い階段を登ると、そこはもう普通のマンションだ。階段から一番手前のドアを開ける。
「ただいま」
電気の点いた室内にグリニッチが声をかけると、すぐに喉の奥で低く潤った声が返ってきた。
「おかえり」
声の主は顔を出すなり驚きの声を上げた。
「って! なんて格好してんのよ! で、こっちは誰? あんたがグリニッチを襲ったのか!」
そのマーメイド種は巻きスカートを着けた魚の尾鰭で器用に跳ね、水掻きのある長い指でダダニウムの鼻先を指差した。流線形の整った顔立ちに皺を寄せて緑色の髪を逆立てて捲し立てる。
「この子に手ぇ出しといてよくもまあのこのこ来れたものね! 組合と戦争する気? 受けるわよ、そのケンカ!」
水を撒き散らすようなあまりの剣幕にダダニウムもグリニッチもただ後ずさるしかなかった。
「ハーレイ、ちょっと、落ち着こうか」
ダダニウムの影に隠れて、グリニッチはしわしわに萎んだ声を絞り出した。
「いやほんとごめんねえ。グリニッチの服があまりにボロボロなもんだから、私ったらつい熱くなっちゃって」
人魚のハーレイはキャミソールからはみ出た背鰭が見えるくらい頭を下げた。ダダニウムはそのヒレをぼんやり眺めながら思った。今日はなんて濃い一日だ。もう何が起ころうと驚かない。
「ほら、ダダくん。はじめましての自己紹介は?」
自分専用の椅子に腰掛けてホットプレートの温度を確かめつつ、卵とたっぷりの砂糖を混ぜるグリニッチ。
「えーと、ダダニウムです。格闘家やってます」
床に直で座って、縮こまるように頭を下げるダダニウム。
「グリニッチがよくあんたのこと話してるよ」
クッションにしなだれるようにして尾鰭を斜めに崩して座るハーレイ。奇妙な三人組がテーブルを囲んでいた。
「そうそう。地下格闘界のニュースターよ」
グリニッチがスポーツ雑誌を開いて見せた。地下闘技場でのダダニウムの活躍を紹介する誌面だ。そしてあっさりページを閉じてテーブルに敷き、アルミボウルを乗せて小麦粉を投入する。
「格闘技が好きなのか?」
自分が掲載された雑誌を鍋敷き代わりにされてしまい、ダダニウムは自分の写真を救い出そうと雑誌に手を伸ばす。
「その業界の勢力図を一変させちゃうような強い存在が好き。ダダくんみたいな」
何を勘違いしたか、グリニッチは差し出された手にアルミボウルを手渡した。卵と砂糖と小麦粉がくたくたに混ざっている。
「よーく空気を含ませて混ぜて。ちょっとお店のバーから蜂蜜取ってくる」
淡い色合いの部屋着のまま飛び出していくグリニッチ。
後に残されたダダニウムとしては、言われた通りに小麦粉を混ぜるしかない。大人しくゴムベラを握るが、それがまたダダニウムの手には異様に小さ過ぎた。
「あの子に迷惑してる?」
同じく取り残されたハーレイがどこか居心地悪そうに言った。魚の下半身を持ったマーメイドと巨体のオークが一室に閉じ込められて、何の話題で盛り上がれるか。
「いい意味でいい迷惑だ」
「わけわかんないわ」
寄越しな、とダダニウムの手からボウルを引ったくるハーレイ。上手いこと生地と空気とを撹拌して、さらに牛乳を混ぜ込む。
「バーって、どこの店だ?」
「ウェイティングバーよ。あの子はそのバーでショウタイムに歌ってる」
何気なくダダニウムは耳を澄ませてみた。ハーレイが生地を混ぜる音と冷蔵庫のコンプレッサーの音しか聞こえなかった。
「グリニッチの歌に癒されてる子もこの娼婦館にはたくさんいるのよ。私もその一人だし、どうやらあんたもそのようね」
「あんたも、その、娼婦なのか?」
「特殊な性癖を持った奴もいるのよ」
巻きスカートをちらりとめくり、尾鰭を床に叩き付けて鳴らすハーレイ。
「それで、グリニッチも?」
「あの子は特別。お客さんは取らないで、歌でみんなを癒してるだけ。……安心した?」
「別にそういう意味で聞いたんじゃねえし」
ハーレイからボウルを取り返し、ダダニウムなりに不器用にも生地を混ぜてみる。生地は意外ともったりと重たい。
「客を取る気はないかって聞いたことあるけど、笑われちゃった。半分妖精半分エルフのおばあちゃんを選ぶ客はいないって」
ゴムベラが止まる。
「あの子、なんて言ってるけど、グリニッチはもう二百歳越えてるお姉さんよ」
エルフは長命種だ。五十年も生きられないオークと比べると、妖精種の血が混じっていれば不老長寿に近い。何百年も少女の姿のままだ。
「あんたいくつ?」
ゴムベラが止まったままのダダニウムにハーレイが訊いた。
「十四になったばかりだ」
「若いわね、少年」
パンケーキ生地は十分に空気を含んだ。ホットプレートも熱くなっている。バターが溶けて焦げそうだ。
「ずっと一人きりだったから、髪をぽんぽんって優しく撫でてくれるような頼れる存在を求めてるのかもね」
「それならもうやった」
「あらあら、ずいぶんイケメンなオークだこと」
もう話すこともなくなった頃、ようやくグリニッチが戻ってくる。
「お待ちー。冷蔵庫からベーコン盗んで来たよ!」
部屋に戻るなり、ビニール袋に包まれたベーコンと蜂蜜のガラス瓶を掲げてホットプレートの前に陣取った。
「準備万端ね。じゃあベーコン焼きますか!」
「ベーコンを焼く?」
ハーレイが呆れたように言った。さっきまでパンケーキを焼く気まんまんだったくせに。
「蜂蜜ベーコンと焦がしバターのパンケーキ! どう? 新メニューよ」
テンション高めではしゃぐグリニッチをどうやってもコントロールできそうにない。ハーレイとダダニウムは軽いため息とともに見つめ合った。
どうするの? ハーレイが目で問いかける。どうしようか? ダダニウムも目で訴えかける。
「試合の後はお肉食べるんでしょ、ダダくん」
「ああ。その試合なんだけど」
熱いホットプレートに溶けたバターの水たまり。ベーコンをスライスして投げ込めば、溶け出した塩気のある脂と蜂蜜とが絡まってパンケーキとの相性もばっちり。
「次は優勝候補の奴と当たるんだ。どうしても勝ちたい。だから、グリニッチにセコンドをやってもらいたい」
「ええっ? あたしが? なんで?」
「一番近くで、君の歌を聴きたい」
若いオークが歳の離れたエルフに思いを告げた。
ベーコンがこんがりと焼けた。蜂蜜をたっぷり染み込ませたパンケーキとともに、さらに追い蜂蜜をとろり。新メニューのベーコンパンケーキの完成だ。
それはダダニウムにとって、今までに食べたこともない甘さだった。
地下闘技場は火が点いたように熱かった。トーナメント準決勝戦、勢いに乗る新人ファイターと優勝候補の前大会チャンピオンが激突する。燃え上がらないわけがない。
選手入場。半神半人との呼び声が高いケンタウロス種が登場した。上半身は筋骨隆々のヒューマン、下半身がたくましく大地を蹴る野生馬の、両腕のパンチと四本の脚で鋭い蹴りを繰り出す猛者。
対するは巨体を誇るハーフオーク。ついこの間まで無名の新人だったが、その剛腕から撃ち出される鉄の拳で名を売った脅威のファイター。
通常のトーナメント戦では選手入場の際にそれぞれの入場テーマソングを流したりはしない。観客の歓声と罵声で十分だ。
しかし今回は違った。歌が聴こえる。
打てよ 鉄飛礫 飛べよ 風切り羽
ダダニウムとグリニッチはお揃いのパーカーを羽織り、表情が窺えないほどフードを深く被っていた。
グリニッチは歌う。このリングという戦場に、荒ぶる観客たちに、一人のファイターのために。その澄んだ声は何もかもを癒やす魔法の歌声。
あったか寝床で やらかく眠れ
八角形の金網リングで、ケンタウロスとハーフオークが向かい合った。最上の殴り合いが始まろうとしている。
ダダニウムは大きな拳を突き出した。真っ直ぐに前チャンピオンを見据えて、その目で礼をする。
「ぶん殴らせてもらうぜ。よろしくお願いします」
歓声が湧き上がり、それでもグリニッチの澄んだ歌声は飲み込まれずに響き渡る。前チャンピオンは微笑んでオークの拳に自らの拳をこつんと重ねた。
「大きな拳だな」
拳で語れ ともに歌え
「そりゃそうさ」
歌が聴こえる。
君は 撲り鬼
俺は、撲り鬼。
撲り鬼と詠み妖精 鳥辺野九 @toribeno9
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