エピローグ【落日】
エピローグ【落日】
――そろそろ、なのかもしれない。
水平線は弧を描いているのに、どこまで行ったってそのカーブに追いつけない。そもそも線ではないのだから当たり前だ。月もそうだ、近付こうとして手を伸ばした所で距離は縮まらない。詩的に言えば「月が逃げていく」のだろうが、生憎そんな素敵な感性も持ち合わせていない。ただぼんやり、未だにあの夜の海の冷たさを思い出しながら、やっぱり遠いなぁと実感するだけだ。
時間が経つのは早すぎる気も遅すぎる気もする。
気付けば潮風に触れる髪は白い毛束を多く認めるようになったし、何十年も着続けたアウターはいよいよ年不相応に見えてきた。いや多分かなり前からそうだったのだろう。他のものに変える気にならなくて買い替え続けているスニーカーも既に六代目で、同じモデルが廃盤になってしまったばかりに、底は磨り減り、砂と潮ですっかり変色して、ゴムは劣化している。いい加減諦めて他のものでも買わなくちゃいけないと思いながら履き潰して二十年選手だ。
自分の身なりを客観的に見て老いを自覚する度、なんとも言えない切なさがある。出来ることなら知りたくなかった感覚の一つだが、変わっていくものがあるから変わらないものが見えるのも事実だ。
海はどれだけ時間が経っても、面白いほど変わらない。荒れる日があったり満ちたり引いたりするものの、いつだって同じ顔で我が家のドアの外で待っている。悲しい時に海が見たくなるのは、きっと海が不変の存在だからだろう。絶対的な存在は心に安寧をもたらし、変わっていく自分を否定しない。だから、優しい。
横風に靡いて絡まる長い髪を押さえたりたまに梳きながら、いつものようにゆっくりと車椅子を押して河川敷を歩いてきたが、調子が悪いのか彼女は全く口を開かずに薄く開けた瞳で空中を見つめたままだ。この数日間の彼女はずっとこうだ。
ほとんど何も食べず、目が合っていてもその奥を見るように少しだけ微笑むだけで、こうやって散歩に行く以外はまるで老猫のようにじっと眠っている。そして時折、うわ言のように俺を呼ぶ。俺は毎回しっかり返事をするけれど、大抵は会話も始まらずに終わる。
年老いていく事に恐れは無いが、自分より先に彼女が弱ってゆくのを見ていると寂しくもあり、しかしそれに勝る安心がある。目に見えているものと現実は一致しない。歴史が正確かどうかなど知る術がない。それでも俺が生きている限り、彼女は苦しまない世界で生き、安らかに逝く事が出来る。
そしてその日が、そう遠くない気がするのだ。
この海辺の景色も、燃えるような夕焼けとかであるならば少しは心が洗われるのかもしれないが、水平線と同化するように溶けた夕暮れは赤く滲む間も無く、ひっそりと夜の底に吸い込まれていく所だ。
砂浜に竿を並べた釣り人は、もう何十分も竿を持たず海を眺めて煙草を吸っている。俺はそれを眺めていた。じっと海を眺めるよりはマシだからだ。今はまだ一人きりと向き合って良い時ではないだろう。
俺の存在を無視するようにかれこれ数十分何も言わずに海を見つめるだけの背中が、ようやく声を出す為に僅かに膨らんで「ねぇ」と小さく穏やかな口調で話し出す。
「ん、何」
「……寒くなってきたね」
俺は「そうだね」と小さく返事をして鞄からブランケットを取り出し痩せた肩へ掛けて、ハンドルを握る。彼女の「寒い」は帰宅の合図だ。
タイヤのロックを外してゆっくりUターンして元来た道を歩く。彼女と共に夏も冬もしつこく繰り返してきた小さな思い出達が、映画でも見るように脳裏に浮かぶ。彼女とは出会いから別れまでずっとこの海なのだな、と最悪の出会いから順に憶い返して少し涙が滲む。
俺達は最初からずっと歪んでいた。
ボロボロに欠けた者同士、埋め合ってきたのだと思う。たった一人の事を想い続けて、決して向かい合う事はせず横並びで同じ幻を見つめて、毎分毎秒、互いを命綱にして生きた。関係性を表すならば、戦友、と形容するのが正しいかもしれない。
彼女はきっと全て気付いていたのだと思う。最後まで素振りにも出さず言葉にもしなかったけれど、彼女の意思で長い夢から醒める事を拒んでいたように思う。今となっては遠すぎる昔を、俺達は時計を止めるようにして息を潜めて生きてきた。
そして近頃、再び秒針が進み始めて、時は有限であると気付く。
あまりに長く一緒に居てしまった。親友の名を借りて彼女の幸せを願いながら過ごした日々に終りが来る。彼女に出会ってからの自分が、彼女を失うとどうなるのかを、俺はまるで知らない。強く願った未来が正しく現実のものになったとして、幕が降りた後のことは分からない。
今はただ漠然と、少しの寂しさと羨ましさを感じている。
彼女の髪が追い風に吹かれて舞い上がり、反射的に振り返った。
一瞬強く吹く潮風に、今でもドキリとしてしまう。いつも少しだけ風の行く先を振り返ってしまう。肩をポンと叩くように透かして風が通り抜けていった先にうっかり何かを期待したくなって立ち止まり、見慣れた世界で歩き出す。
あの晩、俺の肩を小突いた風が向かった先には、彼女がいた。もしかしたら、救おうとしたのは俺ではなくて彼女の方だったのかもしれないな、と苦笑する。愛されていたんだよな、と散々時間の経った今でもまだ嫉妬してしまう。
「……帰ったら珈琲、淹れて欲しいな」
彼女はどうせそう言うだろうと思っていたから、すぐに珈琲を淹れられる準備をしてから家を出ていた。すっかり慣れたものだな、とおかしくなる。
俺は今日も、透き通るような柔らかい笑顔で背もたれに体を任せる彼女が羨ましい。海の風を纏う細く白い首筋には確かに血が通っているというのに、まるで苦しみなんて無い世界の生き物であるかのように笑う彼女が、心底羨ましいのだ。
きっと、ずっと、羨ましかった。例え虚像でも愛する人のいる日常で息を吸って吐く、それだけの事が。
それでも、俺は俺自身の心で、どうか彼女が最後の一秒まで幸せであるように、と願う。
錆びついた緑色の屋根の上で、壊れかけの風見鶏がカタカタと音を立てている。何度直しても隙間風が入ってくる古びたドアを開けると、錆びた兆番がギイと哭いた。
「おかえり、雄二くん」
「うん、ただいま。おかえり」
気付けば少し日焼けした雄二がいつもと同じ壁で笑っている。きっと願いの全てが叶うぜ、と着古したアウターに首を埋めて小さく俺も笑う。俺達は終わりのある恋愛ではなくて、二人でどこまでも行ける親友でいい。これからも、ずっと。
なぁ、雄二。俺は今日も、上手くお前をやれていたか。
(了)
海と幻影 noy @riddx
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