海井 奏多【絶海】.2


 月は雲に隠れたり強く光を放ったり、それを繰り返し海が揺らめきながら水面に写す。海は月をありのままの形では写してくれない。波に揉まれて、滲んで、無様に歪む。

 あれから俺は居ても立ってもいられず、風を浴びたくなって外へ出て何時間か経った。だからといってどこまでも行く気には到底ならず、家の前の砂浜に蹲る。

 自分の行動を振り返れば、目の奥が痛くなる。あの瞬間俺を見た金崎が、泣いただけで発作を起こさなかった事がラッキーだったとしか思えない程、俺は動揺していた。


 俺の問いかけに対して金崎は、写真の中で笑う俺を指差した。

「……雄二くんは、こっち、でしょ」

 脳を鷲掴みで潰されるような頭痛を催し一歩下がると、部屋の角に置いてある姿見鏡が視界に入る。そこに映る姿は背が高く面の良い雄二とはとても似ても似つかない、ただ最後に見た雄二と揃いのクマを目元に誂えただけの疲れ切った「海井奏多」そのものだった。こいつのどこが雄二だよ、痛々しくて怒る気すらも起きない。

 これが金崎にとってのリアルだ。金崎は単純に俺を「雄二」として認識しているだけで、写真を見ても雄二を思い出すことはなかった。

 俺は恐る恐る、雄二を指さして「こっちは、誰か、分かる」と訪ねた。

「……ウニさん、かと思ったんだけど……違うの?」

 金崎の口からは、この世で一番最低で、一番残酷な模範解答が返ってきた。


 金崎は俺が寝坊をしてバタバタと出掛けていった後、ソファ下に落ちていたこの写真を見つけて微笑ましく眺めていたという。雄二から話にはよく聞いていたのに顔を知らない「ウニさん」が、こんなに幸せそうに笑う人なんだ、と。

「雄二くん、私が見たことない顔で笑っていたから。なんか羨ましいな、って思って。あまりに素敵な写真だったから、つい。勝手なことしちゃって、ごめんなさい」

 俺はぐちゃぐちゃになった頭の中から何とか発せられる言葉を拾い出して「ごめん」とだけ謝った後、家を出た。耐えられなかった。




 金崎が俺を「雄二」と呼ぶことには慣れた。ごく稀に彼女が思い出す雄二との些細な思い出に話を合わせることも、二人で鴻上珈琲にいる時にはオーナーに「酒田」と呼ばれることも、慣れた。

 もう彼女は何も思い出さなくても良いと思っていたし、今だって、いっそ思い出されると困る、という所まで来てしまった。緑の家を隠れ蓑にして、絶望から逃げて、俺は「雄二」として彼女を守りたいと本気で思っていた。だから、何も思い出さなくって良かったんだ。

 それなのに、雄二のあの笑顔を真正面から否定する姿が耐えられなかった。わざとじゃない。分かっている。矛盾していることも分かっている。第一に俺が「雄二」でいることが悪いのだ。雄二が二人いる訳にはいかない、それも重々に分かっている。どちらも選ぶことなんて、絶対に出来ない。

 それでも俺は、雄二を、忘れてほしくなかった。


 だが、分かってしまった。雄二の顔を見ても、もう彼女は何も感じない。雄二の顔が分からないから、本当の雄二を「雄二の親友」だと言う。本当にこれで良いのか、なんて今更思いもしないけれど、答えが出ていても悲しくて仕方がない。

 俺が雄二との思い出を一つずつ時間をかけて忘れていってしまうのを恐れている間に、彼女は俺が作ったシナリオの上で赤の他人が演じただけの「雄二」を愛し続ける。

 彼女が現実に気付いてしまう事を恐れて飛んで帰って来たはずが、気付かなかったら気付けないことに絶望している。都合が良いな、俺は一体何なんだ。誰として生きて、誰として悲しんでいるのか。惨めだ。




 夜が更けてゆく海辺は少し肌寒くなってきた。

 俺の横で雑に丸まったアウターが、まるで隣に座るように存在感をアピールしていて笑う元気も無いのに少し笑える。

 こんな時でも俺は雄二のアウターを掴んで出てきたんだ。

 月明かりとそよ風程度の潮風を浴びながら「段々寒くなってきたな」と相手のいない会話を雄二の抜け殻に投げかける。投げたって返ってこないのは的を外すような暴投をしたからじゃない。俺が一人だからだ。投げるだけの言葉の無意味さなら、今日までに嫌というほど理解させられてきた。アウターを羽織ってスマホを開き、既読されずに一年以上経ってしまったメッセージを眺める。明日、なんて来なかった。何度リロードしても何の通知も入らないチャット画面に、ほらな、とかつての雄二を模倣して「やっぱクソも似てねぇよな」と悪態ついて画面を閉じた。

 ただ返事が欲しい、それだけの事が猛烈に恋しくて悔しくて堪らなくなる。


「おい、雄二。俺も連れてけよ」

 立ち上がって見上げた空は鬱陶しいほど綺麗な星空だ。そういえば、雄二のリストに星空を見ると書いてあった。水族館へ行った日、レンタカーを借りて見に行こうとしていたのはこんな空だったのだろうか。もしあの時雄二が仕事になんて行かずに俺と居たなら、男二人で星を眺めて何を喋っただろう。きっといつもと同じ、バカ話をしてコーラでも飲みながら朝まで騒いだだろう。たられば、を何度繰り返しても雄二は帰ってこないのに自傷行為のようにしつこく妄想をする。憎たらしく光る星に近付こうと砂を噛んだ足を進ませる。


 雄二がいない世界がどれだけ辛いか、これからだってずっと覚えておけるのは俺だ。どれだけ最悪でも金崎の世界を繋いでいるのは俺だ。でももう無理かもしれない、雄二のいない世界で生きていくことに限界を感じてしまった。

 金崎にとって俺が必要であることは分かっている。けれど俺にとって必要なのは金崎じゃなくてやっぱり雄二だ。俺は「雄二」じゃなくて「ウニ」なんだ。

 出会ってから居なくなる迄の全部。春、夏、秋、冬。全ての季節にいつも雄二が居た。どうでも良い喧嘩をして、次の日には笑って、いつも通り。コーラ、パーマ、海老天丼。雄二の色々な顔が、声が、空気が、押すのに引いてくれない波になって俺を溺れさせる。

 そうだった、雄二のことが好きだった。その感情の名前なんて知らない、何なのかなんてどうだって良くて、俺はいつだって彼女に嫉妬するほど雄二が好きだった。


 なぁ、雄二。

 俺はお前の友達で、今はお前の恋人にお前の名前で呼ばれているよ。お前がするはずだったように、毎日一緒に飯食って、喋って、介護して、家族みたいに生きてるよ。

 何でこんな事になったんだろうな。お前がいなくちゃ何の意味も無いのに、俺は愛ちゃんと馬鹿みたいに、幻と嘘だらけのイカれた生活を送ってる。最後までやりたかったんだ、お前のやりたかった事を全部。それしか考えていなかった。雄二の望みを叶えたくて頑張ったんだよ、でもそれは俺が雄二を好きだからだった。

 隣にいたから好きになれた筈なのに、俺が雄二になってしまったら、好きだった事を忘れてた。雄二にならなくちゃって必死になっているうちに、俺は俺のことを忘れてしまっていた。好きだから叶えたかった、好きだから辛かった、なのに「好きだから」を置いてけぼりにしていたら、お前のことも置いていってしまった気がする。

 雄二、見てたか、笑えるよな。これが現実逃避ってやつだぜ。逃げて、逃げて、あっという間に時間が過ぎた。俺達に正しさなんて一つもなかったよ。唯一絶対に正しかった筈のお前に対する「愛」みたいなものですら、俺達は二人揃って嘘で埋めてしまっていた。

 なぁ。あの写真を撮った時、何で笑ってたか覚えてるか。俺はさっき思い出したよ、あれは雄二に彼女ができた日だ。お前の惚気を朝まで散々聞かされた日の写真だ。あまりにも嬉しそうに話す雄二がどこか手の届かない遠くへ行ってしまう気がして、俺はそれが寂しくて悪足掻きのように写真を撮ろうと言ったんだ。

 皆、自分の醜さは記憶から消したくなるものなんだな。金崎は自身の惨めさや嘘を忘れてしまったし、俺は情けない嫉妬心を忘れてしまおうとしていた。

 俺は雄二が居なくなった後、金崎に会って責めるつもりだった。雄二が死んだのはお前のせいだろと、雄二よりも苦しんでくれと思っていた。なのに、そんな事だって無かった事のように忘れて、お前の為だとかほざいて、必死で支えようとしている。


 いつからか俺は雄二の『やりたいことリスト』が雄二の全てだと思いこんでいた。雄二が残したものだから。でも違うよな、本当はもっともっとやりたいことがあったよな。そこには俺も居たんだろうか。俺は雄二の知らない事ばかり知ろうとして、俺の知ってる雄二まで知らないと決めつけていたかもしれない。

 とは言え、やっぱり俺は雄二を知らなかった。いや、知らないことが多すぎた。俺の事だって、雄二は知らないままだ。もっと話したかった、今度こそ醜くても、話がしたい。情けねぇよな、中途半端だって雄二は怒るだろうか。いや、アイツの事だからきっと笑うだろうな。笑われてもキレられても呆れられても何でもいいから、雄二に会いたい。雄二がいない未来が、

「……分からねぇ」

 どこまで行けば会えるのだろう。靴のまま波をかき分けながら月を追いかける。辺りは真っ暗なのに月だけは異様に明るくて、まるで雄二みたいだと思った自分に小さく笑いがこみ上げる。馬鹿だな、月が綺麗ですねとでも言えば良いのか。ああ、遠いな。寂しい。もっと近くで見せてくれ、傍に居させてくれよ。

 



 ぶわ、と伸びきった髪とアウターが膨らんで静かだった水面が大きく揺らぐ。刹那、強い向かい風が吹いたのだ。

 俺の肩を軽い拳で一発殴って去ってゆくような瞬き一回分の突風で波に押されよろける、俺は思わず月を背中に向けて今来た砂浜を振り返った。

「……雄二?」

 雄二の気配だった。いや、そんな気がした。昂った神経に触れた「気がした」程度の体感に面食らって、風の抜けていったその先にいる男の存在を探そうとするが、その先に見つけたのは、何か叫びながらおぼつかない足取りで俺を追ってこようとする金崎の姿だった。

「雄二くん!! ねぇ、やめてよ、行かないでよ雄二くん!!」

 金崎はずくずくの涙声で叫び、まともに動かない貧弱な体を何とか引き摺って砂浜に降りてきた。その亀にも劣るであろう遅さに一気に力が抜ける。

「……愛ちゃん、何してんのよ」

 腰まで浸かろうとする水がザブザブと体に打ちつける感覚がやっとリアルに体に響く。寒さに気付いてしまうと海水は冷たくて、身震いする。

 金崎はやっと波打ち際まで来たかと思えば、何もないのに大きく躓いて転んだ。


 俺は瞬間的に体が動いた。浜まで慌てて水を掻いて戻り、泥だらけで倒れ込んだ金崎を起こして抱き上げ、水のつかない場所まで運んで座らせる。無心でその砂だらけになった洋服をほろい払って、乱れた髪を手ぐしで少し直してやる。一年かけて俺の体は、気持ち以上に金崎との生活に慣れてしまった事を知る。

「愛ちゃん、大丈夫? 痛くない?」

「……痛いよ」

「どこ? 怪我したかな、見せて」

 金崎は俺を睨んで下唇をぎゅっと噛んで「なんで」と溢したかと思えば、箍が外れたようにしゃくりあげて泣き出す。

「……なんで海になんか入っちゃうの、行かないでよ」

 びちゃびちゃに濡れた俺の足に縋り付いて金崎は泣いた。

「ねぇ、なんで、私が勝手なことしたから? それとも私ボロボロだし邪魔になっちゃった? 私が悪かったなら私が消えるから、雄二くんは行っちゃ駄目、お願いだよ。生きてよ、嫌だ、お願いだから行かないで」

 金崎の嗚咽と波の音に混ざって、少し離れた所できぃきぃと風見鶏の鈍い音がする。

「……でも、どうしても、どうしてもダメなら、私も連れて行って。お願い、置いていかれるのは、もう嫌だよ」

 まるで自分を見ているようだった。遅れて、濡れた服の重さが金崎を傷付けているのだとと理解した。

 金崎の言葉は、一度人生を終わらせようとしたヤツの台詞としては説得力にかけるが、子供を失くして親に捨てられて夫も恋人も失くした人間の言葉だと思うと、それは重く海の底のように深く沈む。彼女が持ち合わせている記憶の程度はともかく、残される人間が辛いことは分かりすぎるほどに分かるから、肋骨の奥の方が軋んで痛んだ。

「……置いていかれるのは、嫌だよな」

「うん」

「会いたいよな、やっぱ」

「うん」

「なんで置いていかれたんだろうな」

「うん」

「何にも分かんねぇよ」

「……分からないよ」

 金崎は止むことなく涙を流しながら悲嘆の表情を浮かべて鈍い返事をする。

 自分以外のことが分からないのは、ごく自然で、しかし一番苦しいことだった。きっと誰にとっても、なのだろう。金崎だってそうなのだろう。向き合わなければどうだって良い事象も、向き合った瞬間不安の種になる。それを聞くことも確かめることも出来ない相手を想い続けるという事、もう二度と答え合わせが出来ぬ地獄は、残された人間だけに与えられる最悪のギフトだ。ずっと大切に心に閉まって場所を取る。


 俺は死にたいんじゃなくて雄二に会いたかった、月を、星を見ていたら雄二の顔が浮かんだから近くまで行きたかっただけだ。

 でも、通り抜けた風に雄二の気配を感じて、俺は雄二に肩を小突かれて我に返った。譫妄でも勘違いでも、あの瞬間、雄二は俺の傍に居た。それが金崎が見ている世界のような、俺の脳が作り出した幻影だったとしても、俺は確かに、雄二に命を救われていた。こういう男だからモテたんだろうな、と至極納得して数分前に夜の海に入っていた事なんて忘れてしまうほど心は凪いでいた。

 姿形が無くなっても、俺はこうして何度も雄二に救われてしまう。俺はあいつを救えなかったのに。恨まれているか怒っているかさえも俺はもう知る事はない、でも解答のない未来で、雄二の不在も、残された現実も全部受け入れて、そしてまた好きでいたい。


「なぁ、金崎さん。俺ね、」

「いい、何も言わなくていいよ。一緒に帰ろう」

 金崎は腫れた片目で微笑んで、俺の手のひらを優しく握った。







 俺達はソファで黙ったまま寄り添った。

 金崎は泣き疲れたようで肩にもたれたまま眠ってしまったから、そのまま寝かせておくことにした。外が明るくなってゆくのを感じながら、壁に貼り付けられた写真を見つめる。何度見返しても雄二は良い顔で笑う。どうしたってその笑顔が恋しいが、恋しいと思えるだけ幸せなのかもしれない。寂しいけれど、今日も朝が来る。明日だって来る。

 金崎が目を覚ませば、俺はまた「雄二」だ。一瞬本当のことを伝えようとしたけれど、金崎はそれを制止した。よく考えれば、目の前で恋人に自殺されそうになった挙げ句に本当は別人だなんて言われたら、それこそ心中のコースだったかも知れない。きっと金崎の勘が正しかった。今は話して良いタイミングじゃないのだろう。

 雄二の顔も分からない彼女を初めて不憫だと感じる。不憫さで言うならば本当に不憫なのは雄二だが、自覚が無いにしても愛する人を認知出来なくなる事ははあまりにも恐ろしく悲しい。いつか自然と全部思い出す日がきたら、その時は俺が救ってあげられるように、生きていく。雄二にしてやれなかったことを、雄二が出来なかったことを、役不足でも今度こそ俺が。辛くても、なんとか。最後まで俺が付き合おう。


「……唯」

 小さく寝言を洩らしながらすうすうと寝息を立てて寄りかかる金崎の体温で、冷えた体が温まる。彼女は娘の夢でも見ているのだろう、それがどうか幸せな夢であるように、と祈る。

 外から太陽の光が差し込んで、いよいよ眠気が立ってくる。知らずのうちに俺も疲れ切っていたのだろう。写真と、ハンガーに掛けられた濡れてしまった雄二のアウターをちらりと見て、目を閉じる。流石に一度洗濯をしなければな、と自嘲混じりに笑う。ゆっくりと底のない穴に落ちていくような浮遊感と共に潮が引くように遠のく意識の裏で、小さな金崎の声を聞いた気がした。




「……ねぇ、雄二くんの言う通りだったよ。ウニさんは優しい」


 

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