第3話 さよなら、異世界

 ジルの家には人の自由を奪う道具が豊富だった。何に使っていたかなんて考えたくもないが。だが今は感謝していた。復讐に使える。手始めに家に入った葵の意識を奪い、手足を縛って柔らかいカーペットの上に寝かせた。

 準備をあらかた終えて母親の元へ行く。

 彼女は昨日から風邪をこじらせてずっと咳ばかりしていた。ジルが中に入ると、沙世は苦しい息の下からにこりと笑って「お父さん……栄養ドリンク、ちゃんと子供用の買ってきてくれた……? お父さん、いつもの癖で大人用ばっかり買ってくるんだもん」 と言った。

「母さん、もうすぐだよ」

「……? やだ……あなたどこの子? 私は子供を産むような年じゃないわよ」

「母さんをこんなにした怪物……仇は取るから」

「怪物? 変な子ね。漫画の読み過ぎじゃないの。ああでも、私も好きだった漫画の続き読みたいなあ。あのあと、ヒロインはどうなったんだろう」


 最近の沙世は元の世界にいた頃の話ばかりする。人は老いると一番楽しかった時代に頭が戻るというが、彼女はこの世界で楽しかった時なんてないんだろうなと思うと、ジルはたまらない気持ちになった。


 特殊な魔法でも葵にかけていたのだろうか、それとも魔法で虱潰しに捜索したんだろうか。どちらにしても、予想より早くオリオンはジルの家へやってきた。


「葵はどこだ?」

「その前に、会ってほしい人がいます」

「何でお前に命令する権利があると思ってるんだ。家ごと消してやってもいいんだぞ」

「その場合、葵さんも死にますね。僕はどっちでもいいので好きにすればいいと思います」


 ジルに権利はなくとも、オリオンに選択肢はなかった。

 オリオンは黙ってジルについていく。この時オリオンは葵のことで頭がいっぱいで気づかなかった。ジルが短剣を隠し持っていることに。



 ジルに案内されたのは、鉄の扉の前だった。

「誰か監禁でもしてるのか? 趣味悪いな」

 ジルは葵を家に閉じ込めていたお前が言うのか、と腹も立ったが、それでもこんなところで喧嘩する訳にはいかない。

「貴方にとっては懐かしい人だと思いますよ」

 ギギィと錆びた音を立てて扉が開いた。オリオンは綺麗にする余裕もないのかと心の中で嘲笑うが、ふと思ってしまった。もし葵と最初に会った時、葵が自分を気にしてくれなかったら、自分は余裕で葵をこの環境以下のところに放り込んでいただろうと思うと、胸に嫌なものが走った。


 気分が悪くなるような咳の音がする。オリオンが病院にぶちこめよと思っていると、咳の主がこちらを向いた。


 あ。

 葵の直前に異世界に落とした女だ。

 オリオンは動揺したが、それ以上に沙世が狂乱した。

「あ……あ……」

「母さん、この男は……」

「いやあああああ!!! やめて来ないで! もうどこへも行きたくない!! 行きたくない!!!」

「母さん! 母さん!!」


 

 遠くで女性の悲鳴が聞こえる。……女性? 今住んでいるところに女性なんていたっけ?

 葵がぼんやりと瞼を開けた。そして気付いた。自分は縛られていると。

 ええと、自分は確かジルさんの頼みでここに来て……え、ジルさんがこれやったの?

 こういうのを裏切られたというのかもしれない。だが葵は天然で魔性の少女だ。

 理由を聞くまでは! 保留! 自由になるのが先! 部屋を見回すと、ロウソクが一本机に立てかけられていた。起きた時に真っ暗にならないようにという配慮だろうか。そんなに気を遣ってくれる人がどうして。

 ともかく、芋虫のようにはって机に近づき、根性で立ち上がり後ろ手で縛られた縄を火に近づける。

 熱い、熱い。けどこうしないと自由になれない。ジルさんと、よく分からないけど現在進行形で恐怖に怯えている女性がいるんだから。



 オリオンは沙世の狂乱から目を逸らした。葵と同じ世界の人間。葵がたどったかもしれない姿。そう思うとどうしても直視できない。だがそんなオリオンの顔を掴んで沙世のほうに向かせる男がいた。ジルだ。

「目を背けるな! ……お前がやったことなんだろ。最後まで見ろ! お前が、お前がこうしたんだから!」


 知らない。知らないよ。馬鹿が他人を不幸にするっていうことがどういうことなのか今知ったよ。大切な人が酷い目に合うのがどれほどつらいのかなんて。

 たった今理解したよ。


 ベッドの隅から隅へ逃げようとする沙世だったが、体力の限界だったのか、それともそれが寿命だったのか、ふと動かなくなったと思ったら、事切れていた。

 オリオンに無理矢理異世界に拉致されて死んだ、最後の人間だった。


 沈黙が辺りを包む。




「……ごめん」


 そう呟いたオリオンに、ジルの手が離れた。


「悪かった。時間は戻せないし死人も生き返らせることは出来ないけど、お前が願うなら沙世を今からでも元の世界へ戻す。あとはお前に何か能力でも与えればいいのか?」


 オリオンの考えた出来得る限りの謝罪。人の心が分からなかった魔物がこれほど気を遣えるようになったというのは驚嘆されるべきことだった。

 だが遅すぎた。


 ジルがオリオンに短剣を振り落とした。突然のことで悲鳴も出ない。

 じわじわと焼けるような痛みが広がり悶絶するオリオンの尻目に、ジルは観察するように言った。


「なんだ。普通にダメージ与えられるんだ。魔物の時でも刺せるのかな、それとも人間形態になってるからダメージが通るのか? ま、どっちでもいいけどな」

「なんで……謝ったのに……」

「勘違いするなよ、悪い事したら謝るのは当たり前だ。そして許す許さないは被害者が決めることだ。こっちは生まれてからずっと地獄を味わってきたのに、あんな上から目線の謝罪なんか受け取れるかよ。大体、死体だけ戻して何の意味があると思ったんだ? それで良いことしたって思えるのか? 馬鹿なのか? ああ、馬鹿だったな!」


 ジルは再び短剣を振り下ろす。血がワインのように流れ出た。


「どうしても許されたいなら今まで不幸にした人間のぶん刺されろよ。妥当だろう?」


 痛い。痛い。激痛にオリオンは苦しむが、もし自分が抵抗して葵に何かあったら……。そのほうがずっと嫌だった。



 手首に火傷を作りながらも脱出に成功した葵は、屋敷の中を彷徨っていた。どこにジルさんはいるの? 異世界人の女性は? そうやって探し回っていると、ある扉の前からぶちゅり、ぶちゅりと何とも言えない音が響いているのが聞こえた。

 よく分からないけどとにかくここに人がいる! と重い扉を開けると、返り血に塗れたジルと、全身刺し傷だらけのオリオンがいた。あまりの惨劇の光景に思わず目を逸らすと奥のベッドには女性の死体がある。もう悲鳴も出なかった。


「なんで……来てしまったんだ」


 ジルは悲壮な顔でそう言った。その顔だけ見ていると、とても悪い人には見えなかった。けれど、ともかく優先するべきは重傷のオリオンだ。駆け寄って容体を確認する。

「オリオン! オリオン、大丈夫!?」

「あ、あお、い……」

「喋らないで、手当てを……」

「逃げて……」

 オリオンは自分の無事はどうでもよかった。ここに他人を刺しても何も思わない人間がいるのだ。早く逃げてほしかった。

「逃げてもどうにもならないんじゃないの? 葵に一人で生きていく手段とかないよね。ああ、それが狙いか。お前本当大量の人間を不幸にしたもんな。数十回刺したくらいじゃ足りないよ」

「オリオンさんが何をしたっていうんですか!」

「じゃあ言うけどよく聞いて。葵、そいつが君をこの世界に連れてきた存在。人間じゃなくて魔物だよ。そして僕の母も無理矢理連れて来られて……さっきようやく楽になったところなんだ」

 そう言ってジルはベッドを見た。あの女性がジルの母親で、同じ異世界人の……。彼女と話してみたかった。他人に言うことで楽になることだってあるのにと葵は思う。


「僕の母だけじゃない、この世界にはそいつによって不幸になった異世界人の記録が数多くある。普通に生きてきた人間がある日突然地獄に叩き落とされてきたんだ。こんな理不尽なことはない。罪を犯したら罰が必要だろう? 僕は声もあげられずに死んでいった異世界人達の代弁者だ」


 葵はちらりとオリオンを見る。オリオンは観念したように認めた。


「……そうだよ。悪いことなんて思わなかったから、異世界人を玩具にしていた」

「ほら! こいつは悪魔なんだ!」

「葵……君と出会わなかったらもっと続けていた……。君が、俺に、愛をくれたから……。だから、君は逃げて……」


 葵は決心した。短剣を持ち直して再びオリオンに近寄るジルの前に、オリオンを庇うように立つ。

「……どうして? そいつに脅されてるの?」

「違います。オリオンのしたことは酷いけど、酷いけど、私は彼といて不都合なんてなかった。守ってもらってたんです。嫌なことなんてされなかったんです。だから、だから、世界中の人がオリオンを非難しても、私だけは庇わないといけないんです」

 理不尽だ、とジルは思う。なら自分のことだって庇ってほしい。今まで苦労したのは全部そいつのせいなのに。よりによって葵が……。

「ねえジルさん、あなただって本当はこんなことしたくないでしょう? 復讐なんてやめましょう。見張りが必要なら私が見張ります」


 葵は人の心をとらえるのが非常にうまい。この人は自分を理解してくれている、と思わせて依存させるのが得意なのだ。全部無意識で行っているが。

 だが頭に血が上った人間と話した経験はない。

 ジルは初めて会った時から葵に好意があったが、だからこそオリオン側に立った発言に逆上した。


「なにが……なにが分かってそんな知ったふうな口を聞くんだ! 邪魔をするならお前も消えろ!」


 短剣が葵の上に影を差す。が、いつまでも振ってこなかった。

 葵がおそるおそる目を開けると、身代わりに刺されたオリオンがいた。

 唖然としたジルが慌てて短剣を抜いて、オリオンはどっと倒れた。


「オリオン!」

 ボロボロ泣いて縋る葵。ジルは魔物が人間を庇うなんて、と目の前で起こったことが信じられないでいた。

 ジルの動きが止まっているのを見て、オリオンは今しかないと思う。

「葵……さよなら」

「え?」

「全部忘れて、元の世界に戻って……」

 瀕死の状態で魔力を行使すればどうなるか。オリオンは何となく自分の最後を理解した。葵の手を握り、魔力をこめる。生まれて初めて異世界人を元の世界に帰る魔法何て使ったな、と思う。

「え、何で私透けてるの? オリオン?」

「……」

「オリオン? ねえ、死んじゃやだよ? オリオン! オ」


 ふっとシャボン玉がはじけるように葵は消えた。やっと正気に戻ったジルが「てめえ!」 とオリオンに詰め寄るが、もう感覚のないオリオンにはどうでもいいことだった。


 おかしいな、最強だったのに、こんなことで死ぬとか。ああでも、人間が話題にしてたな、愛を知って魔物が人間になるって恋愛話。そうだな、愛を知ったら、もう昔のように魔法は使えない。死ぬしかないんだな……。死んだら地獄に行くんだろうな。俺以外に神様なんて見たことないけど、もしいたら、今まで苦しめた人間のぶん罪を償うから、また葵に会いたい。


 ジルはなりふり構わず短剣を振り下ろしていたが、オリオンの姿は徐々に溶けるように消えていき、気が付けば床に短剣を刺していた。

 オリオンの血痕も死体も消え、辺りにはジルと沙世の死体だけがあった。





 気が付くと、いつもの通学路に葵はいた。一瞬状況が理解できなかったが、段々ついさっき友達と別れたところだという記憶が蘇る。プレゼントの感想聞かせてって言われても、子供の名づけ辞典とかどう反応していいか困るんだけどなあ。

 思考回路が段々日常に戻っていく。暗くなった冬の夜道を再び歩き始める。ふと見上げると、オリオン座が頭上に煌めいていた。

 それを見た葵は走り出した。走って、走って、泣きながら家で待つ母に飛びついた。

「どうしたの? 何か嫌なことでもあったの?」

「違うの。何もないの。でも何だか悲しくて、悲しくて」


 明らかに異常な反応をする実娘に、母親は優しく抱きしめてぽんぽんと背中を叩いた。葵は母にあやされるのが大好きだった。どんな悲しみも溶けていく気がする。


 母の胸に抱かれながら、葵は「あの人は救われたのだろうか」 と考えるもあの人とは誰だろうと思っていた。

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全部忘れて、元の世界に戻って 菜花 @rikuto

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