追記 異世界無双は果たして“なろう系”か

この文章を書くに当たって細心の注意を払ったのは「“なろう系”の読者がおかしい」ことを肯定しないことであった。

これは読者の受け取りの問題であり、提供されたものを読者がどう受け止めるかは供給する側が関与できる余地はあまりない。

あくまで「書かれたもの」をどう楽しむかであり、そこを論点として争っても仕方ない。そこは社会学が行うところだ。


そもそもで言ってしまえば“なろう系”に代表される異世界無双ものや悪役令嬢もの、異世界料理という作風は古今東西例がなかったわけではない。


時代劇などはまさに典型例だ。

例えば水戸黄門を例にとってみよう。


「水戸光國とその仲間達が諸国を周遊する」

「新たな地で新たな出会い(ゲスト)と問題を水戸光國がみる」

「一方その裏側では悪代官と越後屋が結託して悪さをしていた」

「悪代官と越後屋の魔の手がゲストの手に」

「水戸光國登場。助さん格さんの二人が懲らしめ一件落着」

「水戸光國とその仲間達、また新しい旅へ」


これだけではワンパターンであるゆえにお銀、弥七、八兵衛といった脇役が舞台を動かす役としているのだ。

時にお銀が入浴をし、弥七が風車を投げ、八兵衛が盆回しをする。これこそ日本人が慣れ親しんだ構図なのである。これは「水戸光國」を「必殺仕事人」「桃太郎侍」「徳川吉宗」「遠山の金さん」にしても変わらない。

これを世間では「王道」と呼ぶのだ。


この構図はそのまま異世界無双ものに当てはまる。 主人公の周りに悩みを持つ誰かが来て、それを超常的な力で解決し、新たな問題を解決に向かう。

慣れ親しんだワンパターンの舞台を変えてやっているだけなのだ。


さらに多くみられる

「現実では大したことないが、本来は力が漲るほどのものを隠し持っている」

という構図は日本でいえば「豊臣秀吉」などの立身出世ものであったり、イギリスで言えば「アーサー王物語」だってそうだ。アーサー王などは「血筋」「証明する聖物」「超常的な力」と古今東西問わず好まれる要素も多い。

チートと呼ばれるものもここに入ってくる。水戸黄門で言えば「印籠」「助さん格さん」がチートに当たる。

印籠が何故悪代官をひれ伏すほどのものなのかを説明することは難しい。しかし水戸黄門一行が印籠を掲げた瞬間真ん中にたつ老人は水戸光國として扱われるのだ。この時点で水戸光國とその一行が勝つことを示唆し、悪あがきを悪代官達が行うことで「チート」の行使となるのだ。

よほど後の展開を考えていない限りは助さん格さんは負けない。それは印籠を見せた水戸黄門の力を行使する、いわば「チート」であり、そのチートのキーが印籠であるのだ。


そこは読者も一緒だ。

印籠が出た際、特段理由がなければ助さん格さんが負ける姿を求めない。印籠が出され、悪代官が悪あがきをすることで助さん格さん、時には水戸光國も暴れて勝つのだ。我々ですら「お決まり」と捉えているそれらを一々おかしいというのも無粋なのだ。我々はそれが面白くないと思えばチャンネルを変える権利を持つのだから。すべてのテレビ局で水戸黄門はやっていない。それに準じた番組はやっていたとしてもだ。

そこを楽しんでいる人に一々腐するのは不粋そのものだ。


一方、終わりにかえてでは「小説」「なろう小説」を選択することを最後に記名したが、これにも一部作家から注文も出てくるだろう。

これは正直に言えばどちらが上という話でもなく、皆平等に厳しい道を歩む、という事に他ならない。


作家とはどうしても文量をこなしていけば本人の見えてなかった特徴が生まれてくる。情景描写に書き筋を得たり、心理描写の楽しみを知ったり……。これを「作家性」と呼ぶ。

同じプロットで同じ作品を書いてもこの作家性が作品を違うものたらしめるのは今から説明する必要もなかろう。

それこそが「作家性」であるのだ。


しかし“なろう系”ではそれを重きに置かない。

必要なのは漫画のような視覚的表現であるから文学的表現は「時間を食うもの」として認識されるのだ。

この「作家性」に気付いてからこれを“敢えて”止めるのはかなり辛い作業である。


多くの作家が“なろう系”の文体を書けないのはこういった慣れ親しんだ「作家性」を手離せなかったり、それを外した文章を書く事を経験やプライドが邪魔するところにもある。

「作家」は「作家性」を簡単に切り離せるほど器用ではない人がほとんどなのだ。


そうなってくると「作家性を敢えて排除する書き方」を選ぶとなるとそれは息を殺してひたすら道を進む作業に他ならない。

「多くの読者に読んでもらうため」、いや、「売れ筋のIPを作るため」にひたすら己を殺して、作家自身にとってすら味気のない文章を書き続ける必要性が芽生えるのだ。


それは過酷な事なのだ。自らの好きなジャンルでの成長を否定するタイミングが来てしまうために。なまじっか売れてしまえばもう逃げ場はない。


その「飽くなき王道」に立ち向かうことも“なろう系”作家に求められていくことなのである。


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何故“なろう系”はここまで流行ったのか ~その構造と問題~ ぬかてぃ、 @nukaty

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