終わりにかえて ~作家はどうあるべきか~

ここで作家に迫られるところがある。

それは作家性をどのように扱うか、だ?


先ほど強めに書いたと言えばそうなのだが、実際“なろう系”で売れている作品は枚挙に暇がないため、それそのものを否定する気はない。世間は小説よりもIP化された企画書の方が自分に読みやすくイメージしやすい、という層が増えたのは事実であるし、これが小説という文章を読むことを趣味とする層にとって受け入れられる文化に定着している事に他ならない。

第三者要素は書き手ではどうにもならない。


では我々作家はその読者やIPを求める人間たちにどう返すか。これが重要になってくる。


あえて“小説”を書き、棘の道を歩いていくか。

“なろう小説”を書き、己を徹底的に殺していくか。


この二者択一を確実に迫られるだろうし、どちらも決して楽なものではない。感情豊かな文章は死に絶えつつある。一方で感情を圧し殺したかのようなクールな演奏をひたすら続けていくのはやはり苦しい。

その融和点は必ず出てくるとは思うが、作家それぞれのスタンスは必要とされてくるだろう。


また、死に絶えつつある“小説”は数を減らしつつも一定数生きていくのはきちんと伝えておきたい。

確かに現状小説を読む層は一気に減った。最早過去の文豪が今本を一冊だしても毎日書店に送られてくる大量の本の間に埋もれてしまうだろう。そんな時代だ。

しかし、ある程度本を読みなれて、第三者が読みにくいと思える文体でなければ満足できない層は一定以上いるし、“なろう系”などのそういった要素を圧し殺した作風を読み進めた読者からもごく少量ではあるが生まれたりする。

そしてそういう「読者」は文体を圧し殺した作風を「ありきたり」と切り捨て戻ることはほとんどない。卒業した学校に学生として戻らないように、洗練された読者は過去を思い出しても戻ることはない。故郷は遠きにありて思うもの、と懐かしんで十年後一回手に取るか、だ。


どちらに重きを置くか。これが重要なのだ。


作家性を求めていくと少数のために徹底的に研ぎ澄まされたものを書いていくことになる。

IP性を求めていくと大多数のために徹底的に個を圧し殺したものを書いていくことになる。


どちらを選択するか、が重要なのである。

読者や世間を取り巻く層を書く側がコントロールする事は不可能だ。であれば自分をどの位置に置いて自分をコントロールしていくのか。


これからの作家にはここが重要になってくるのである。


「小説を書く」のか、

「なろう系小説を書く」のか、


これは作家に残された大いなる判断なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る