“なろう系”小説の弱点
しかしこの作成方法に弱点がないと言えば嘘になる。
というのは視覚による想像力を非常に重視するためにビジュアルと言ったIPにかなりウエイトを置くことになる。
これはどういうことかというと自然と文章はIPの方向指示器のようなものになってしまい、IPとしての地力を小説から求めなくなっていくのだ。
この際IPの主要はパワーはどこにあるかというとビジュアルを作ったイラストレーター等であり、その次にIPを動かしていくプロデューサー、そしてアニメ化などしたら声優やアニメディレクターなどとなっていく。原作者はあくまで“原作者”以上の権限を得られなくなってしまうのだ。
これが黎明期であればそうでもなかったであろうが現在は“なろう”系小説多くのものがIPの売り出しとしてアニメ化、メディアミックスされている。
つまりIPを創造する媒介としてしか小説家は意味を持たなくなっていくのだ。
そしてこれが文章性のなさに追い込みをかけていく。
前述した通り、IPさえ出来てしまえばゴーストライターに書かせようがAIに書かせようが、読者のなかでIPが動いている姿を想像できるから成り立ってしまうと書いた。
つまり作家としての特色を排除したが故にIPがある程度固まってしまえば後はそのIPが想像できる範囲を踏み出さない限り誰がなにをしても成り立ってしまう構造でもあるのだ。
こうなってくると限り“なろう系”というものの正体が浮かび上がってくる。
“なろう系”は小説を媒体とした企画書である、ということなのだ。
それはもう一企業の企画営業が商品を売るために会議書を作る行動に等しい。つまりはIPが世に出ればなにをしても構わないのだから「IPの完成」こそが“なろう小説”に求められることであり、そこから先の作家性などは必要とされない。むしろ読者にもコンセプトだけ伝わる視覚表現の方が好まれるのだ。
そういう意味では作家性や小説の否定も若干に含まれる。その小説性や作家性こそが最も邪魔な要素であるからだ。少しでも「読んでいる内に考えてほしい」なんて要素は読者にとってIP性の邪魔になり、排除されていく。下手な作家性を出すよりはAIに書かせたり他者からのコピー&ペーストの方がむやみやたらにIPを崩されないからまし。この発想が“なろう系”を支えているのである。
“なろう系”小説は想像しやすい企画書なのだ。
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