第2話


初めて目を開けた時に見た世界は、知らない男の手だったと思う。

体に木くずをつけ、節くれだった手にはのみを持っていた。

男は真剣な眼差しで我を見つめると、『あぁ、良い出来だ』と言って目元を和ませた。


その瞬間に、我はこの世に存在した。

その後すぐに本堂に運ばれたから、それからずっと外の世界を見ることはなかった。




寺の外に出ると、どこまでも広い世界が続いていた。


晴れた青い空が天高く広がり、白い雲が悠々と流れる。

緑深い木々が生い茂り、鳥たちがさえずる。

澄んだ風に明るい光が流れ、生き物の気配が賑わいを見せる。


久しぶりに見た外の世界は、だいぶ変わったように思う。

四角い背の高い建物が立ち並び、箱のようなものがあちこちを物凄い速さで走っている。

道は土ではなくて、何やら硬い。

上を仰ぎ見れば、そこには変わらない青い空が広がっている。


「どうした?大丈夫か?」

「大丈夫だ」


我の手を引く人の子を見ると、さっきと少し装いが変わっていた。


「その顔につけているのは何だ?」

「マスクだよ」

「何故そんなものをつけている?」

「新型コロナウイルスっていう感染症が流行ってるんだ」

「…疫病えきびょうか」


菩薩は眉を寄せる。

周りを見渡してみれば、子供も大人もみんな「ますく」とやらをつけている。


「みんな、感染予防でマスクをつけてるんだよ」


今はもう屋外ではマスクをつけなくてもよいのだが、最近またコロナが流行っているので用心のためにマスクをつけている人は多い。


「そういえば、菩薩の力でコロナとかどうにかならないのか?」

「…我らは万能ではない」


菩薩は悔しそうにぐっと唇を結ぶ。


「我らは人々の苦悩に耳を傾け、その苦しみから救う。しかし、病の根絶などはできない」


菩薩がうつむくと、コンクリートの地面に涙がぽたぽたと落ちる。


「それに我は、いつまで経っても如来になれない落ちこぼれだ。人々を救えるほど、力はないのだ」

『…だから、泣いてたのか』


薄暗い本堂の奥で。

自分の姿を映した仏像の影で。

如来になりたくてがんばっているのに、なれない。

人びとを救いたいのに、その力がない。


『うちの菩薩様は泣き虫だけど、がんばりやで優しいんだな』


空は菩薩を慰めるように頭をぽんぽんと撫でる。


「大丈夫だよ。コロナを収めようと、人だって頑張ってる。コロナなんかに負けないさ」


菩薩は、涙でうるんだ瞳で空を見上げる。


「…では、我らは必要ないのか?」

「そんなことは…」


「やめてよ!」


大きな声が聞こえて、空と菩薩は足を止める。

声がした方を見ると、近くの公園に子供が数人いた。

小学校低学年くらいの子供たちが滑り台のてっぺんにいる。

どうやら、3人の子供が1人の子供を囲んでいる。


「かえしてよ!」


どうやら何か持ち物を取られたらしく、囲まれている子供は泣きそうになっている。


「この声は…」


菩薩はあの子供の声に、聞き覚えがあった。


「あの子、うちによく来てる子じゃないか?」


3人に囲まれている小柄な男の子に、空は見覚えがあった。

たまに寺の境内で1人で遊んでいる子だ。


「あんなところにいたら危ないぞ。もし落ちたら…」


子供たちに駆け寄ろうと公園の敷地内に入った時、自分の持ち物を取り返そうと小柄な男の子が3人に手を伸ばす。

3人のうち一番体が大きい男子がその手を払った時、男の子の体がぐらりと傾いた。


「危ない!」


バランスを崩した子供の体は、滑り台のてっぺんから落ちていく。


『間に合わない!』


空が走っても、手を伸ばしても、子供を受け止められそうにない。

あのまま落ちれば、怪我だけでは済まない。


男の子を押してしまった子の後悔が見える表情と、地面に落ちていく男の子の驚いた顔が何故かはっきりと見える。

時間がゆっくり流れているように感じるのに、空が伸ばした手は届かない。


その時、空の隣からさぁっと風が流れた。

頭の上に大きなお団子を乗せた幼子が、風のように駆けていく。

男の子の体が地面に落ちる直前に、その小さな体で受け止める。

ドンッという音と共に、土埃が舞う。


「大丈夫か!?」


駆け寄ると、菩薩は男の子の体の下敷きになっている。

どうやら完璧に受け止めることはできなかったらしく、べちゃっと潰れている。


「菩薩!」

「…我は大丈夫だ」


少し弱弱しいが、菩薩の声が返ってきて安心する。


「…あれ?いたくない…?」


男の子は自分の頭を触って不思議そうにしている。

菩薩が下敷きになったおかげで無事だったらしい。


「痛いところはないか?」

「うん」


どうやら大きな怪我はなさそうなので、ひとまず安心する。


「菩薩のおかげだな」


菩薩がいなければ、この子は無事ではなかった。

菩薩は立ち上がると、男の子を見つめる。


「この子供は、いつも我に救いを求めてきていた」


お母さんの病気が治ってほしい。

お父さんに早く帰ってきてほしい。

学校が楽しくなってほしい。


「だが、我の力ではこの子供を救うことができなかった」


それが悔しくて、悲しかった。

如来になれないことよりも、悲しかった。


菩薩は、自分の姿を見る。

幼子のような小さな手に、土まみれの体。

恰好悪くて、みっともない。

これが菩薩の姿だと、誰が信じてくれるのだろうか。


「…我は、落ちこぼれだ」

「そんなことない」


ぽろぽろと涙を流す菩薩の肩に、空は優しく手を置く。


「今この子を助けたのは菩薩だ。落ちこぼれだなんて言うなよ」


子供のような姿で。

土まみれで、泣き虫だけど。


「菩薩は、人を救うんだろ?この子を助けてくれた菩薩が菩薩じゃないなら何なんだ」


子供の命を助けるために自分の身を差し出した菩薩が落ちこぼれだなんて、空は思わない。


「お前は立派だよ」


「………ぅ…っ…」


菩薩の瞳からぼろぼろと涙が流れ、しゃっくりをあげる。


「…ひとのこのくせに、なまいきだ」

「人の子にあれこれ言われたくないなら、はやく如来になるんだな」


ぽんぽんと、頭の上の大きなお団子を撫でる。



「…おにいちゃん、だれとしゃべってるの?」


男の子の言葉に、空は菩薩と男の子を交互に見る。

どうやら、男の子には菩薩の姿が見えていないらしい。


「普通、人の子に我らの姿が見えるわけがなかろう」

「おれって普通じゃないのか…」


新たな事実を知って、少しショックな空である。


「君を助けてくれたひとと喋ってたんだよ」

「だれ?」

「菩薩っていうひと」

「ぼさつってなに?」

「如来になるために修行してるひと」

「にょらいってなに?」

「菩薩が修行して、悟りを開いたひとだよ」

「?」


男の子は首を傾げている。

小学生には少し難しい話だったかもしれない。

それでも、自分を助けてくれた存在を知っていてほしかった。


「いいか?また今度あそこから落ちたら、次は大怪我をする。今回は、たまたま助けてくれたひとがいたから助かったんだ」

「うん」


空の真剣な声に、男の子は素直に頷く。


「まぁ、詳しい話はあの3人からも聞くけどな」


空は、滑り台の上にいる3人を見る。

男の子を落とすつもりはなかったのだろうが、その前に嫌がらせをしていたのは間違いない。



空は、全員から事情を聞いたうえで3人に説教をした。

軽い嫌がらせのつもりで男の子の荷物を取り上げたらしい。

男の子が取られたのは、小さな巾着だった。


「おかあさんがつくってくれたんだ」


男の子はそう言って笑うと、家に帰っていった。

その後ろ姿を、菩薩と共に見送る。


少し日が暮れ始めた空は茜色に染まり、あたたかい色が広がる。

ずっと本堂の中にいては、知らない世界が広がっていた。


「外の世界も、悪くないな」

「だろう?」


菩薩の言葉に、空は明るく笑う。


2人はしばらく、綺麗な夕焼けを眺めていた。




「おにいちゃん」


境内の掃き掃除をしていると、先日公園で会った男の子がいた。

あれから学校終わりに寺に寄るようになったので、たまに喋っている。


「どうした?」

「きょうね、『われはぼさつである』っていうこどもがゆめにでてきたの」

「へぇ。その菩薩様は、何か言ってた?」

「『てらでかしわではするな』っていってた」


空はおかしくて少し笑ってしまう。

どうやら寺で柏手をしていたのは、この子だったらしい。


「かしわでってなに?」

「お参りの時に手を叩くことだよ」

「それ、やっちゃだめなの?」

「お寺では、手を合わせるだけでいいんだ」


神社で柏手をするのは、神様に呼びかけるためだ。


「手を叩かなくても、仏様は近くにいるからちゃんと願いは聞こえてるよ」

「わかった」


男の子は本堂へ向かうと、手を合わせる。

目をつむり、一生懸命に願いを伝えているのだろう。



「そうか。おぬしもがんばっておるのだな」


本堂の仏像の前に座っている幼子が優しい眼差しで男の子を見つめている。

頭の上に大きなお団子を乗せて、バスタオルを巻いたような姿で。

泣き虫だけど、優しいうちの菩薩様。


男の子はお参りを終えると、空に手を振って帰っていった。


「やっぱり、おれたちには仏様が必要だよ」


人は、いろんなことができるようになった。

医療も科学も発達して、仏様に祈ることは少なくなったかもしれない。


「それでも、仏様は人の心の支えになってくれる」


独りで悩んでいる時。

どうしようもなく辛い時。

手を合わせて思いを伝える相手がいることで、人は前に進める。


「おぬしもよいことを言うではないか」

「これでも寺の子なんでね」


菩薩は頷く。


「我も、がんばらねば」

「おれも手伝うよ」

「人の子に何ができるのだ?」

「一緒に困ってる人を探すくらいなら、人の子にもできるさ」


泣き虫な菩薩様を、放っておくことはできない。


「1人でできないなら、2人でやればいい」

「…我は、菩薩であるのに?」

「そんな菩薩がいたって、悪くないさ」


空は、涙目になっている菩薩に笑いかける。


「がんばって、如来になろうな」

「…うむ」


菩薩が頷くと、一粒の涙が地面に落ちる。


それは空にしか見えていない、優しい菩薩様の涙だった。



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ダメダメ菩薩は如来になりたい 国城 花 @kunishiro

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