甚み

@oscuridad_usagi

混沌と愛

苦しくてもう、泥沼なのだ。

起き上がれない。死んでいい。こんな身体はもう死んでくれ。

ただ無表情に、ぼうっと天井を見つめる。

体は冷え切って、指先も足先も氷のように冷たい。

爪と唇は血色がなく、くすんだ青紫のような色をしている。

カサカサに乾燥した唇は、閉じるあもなくほんの少し間を空けている。

半分死人のようにソファーに横たわって、頭の中はただ虚空を描いている。

涙はもう枯れて、尽き果てていた。

よく死ぬくらいなら最後にはちゃめちゃなことをしてしまえ、と言う人がいるが、そんなことをして更にリスクを背負う覚悟など死にたい人にあるわけがないのだ。死ぬ前にやり残したことをやれ、と言われても、やり残したことが思い浮かばない。何かをしようという気すら起きないのだ。ただもう無気力で、何も考えたくない。

自分の心臓がドク、ドク、と鼓動する音が聞こえる。

こんなにこの身体に入った魂はもうお前に止まってほしいと思っているのに、この心臓は何か不調がない限り最期まで血液を全身に送り続けるのだ。

ドク、ドク、ドク…

もう止まってくれ。もう動かなくていいんだよ。そんなに頑張らなくてもいいんだよ。

そう言い聞かせるたびに、その言葉を一番求めているのは自分なのだと痛感する。

苦しい。息がしづらい。もう何も希望は見えない。

俺は36年間もさまざまなことに耐えて生きてきたのに、その結果がこれなのか。

生まれたときから親は俺に愛情など示さなかった。母親は俺が3歳にあがる頃に死んだ。

どうやら俺に父親の血は入っていないらしく、俺は母親が父の会社の同僚と浮気をしたときにできた子なのだということを4歳のときに知った。

母が死んでから、父は俺を見る度殴った。過度な栄養失調で倒れそうになる度、ほぼ一日中預けられていた幼稚園の先生に食べ物をもらってなんとか育った。

父から食べ物を与えられた記憶はない。

「お前はまだ生きてるのかよ」

「なんで産まれたんだよ、さっさと死ねよ」

「いらない子だな」

父親からはそんな言葉を幾度もかけられた。

俺のおでこや脚にできた打撲や傷は常に癒えることがなかった。何度も蹴られて、トンカチで脛を叩かれた。首も絞められた。水にも沈められた。

なのに俺は、ありえない生命力で生き続けた。

小学校に上がっても、友達ができることはなかった。

身体に残った傷、日に日に増える打ち身や擦り傷、栄養失調による成長障害、ボロボロの服装、ストレスで抜け落ち、すり減った髪の毛…

俺は周りからどう見ても異端児だった。そして嫌われ者だった。いろいろな人から気味悪がられた。

毎日が地獄で、どうかもう誰か殺してくれと毎朝目を開ける度思った。

苦しい苦しい日々の中で、ある女の子に出会った。

その子は僕に興味を示したようで、「どうしてそんなに体にキズがあるの?」とか「お兄ちゃんのいらないお洋服あげようか?」とか、特に警戒心も持たずに俺に話しかけてきた。

ある日その子にもらった服を着て家に帰ると、父に「なんでお前なんかがそんな綺麗な服を着てるんだ!」と咎められ、散々殴られた後、その服はズタズタに引き裂かれ捨てられた。

ただ悲しくて泣いた。あの女の子の顔が頭に浮かんで離れなかった。

しばらくしてその女の子から「あげた服、全然着ないけどどうしたの?」と聞かれたが、大事なので汚さないようにタンスの奥にしまったと言った。その子は喜んだ。

しばらくしてその子は転勤でどこかに引っ越していった。

先生は俺のことを見ないふりしていた。なぜ身体にたくさん傷があるのかも、なぜ面談に毎回親が来ないのかも、なぜ一度もお弁当を持ってきたことがないのかも、一度も聞かなかった。

そのまま高校生になった。父は家に帰らないことが増え、自由になることが増えた俺は見窄らしい古びた本屋でアルバイトをした。そこの店長は老けたおじさんで、いくつもシミのあるしわがれた顔をしていた。父親に暴力を振るわれることがなくなった俺は、跡が残っているもの以外に身体に傷が増えることはなくなった。アルバイトで稼いだお金でご飯を食べ、服を買い、普通の人と似たような生活ができるようになった。

そのおかげで、小さく痩せ細っていた身体はぐんぐんと背も伸び、男らしく成長していった。

高校の卒業式の前日、ある訃報を受けた。

それは酒に酔った父が夜中に交通事故に遭い、心肺停止になったというものだった。

俺は父親に特に思入れもなかったが、自分の居場所がなくなったかのような、奇妙な銷魂の穴が心の奥に広がった。そしてその穴を満たすように、父の遺産で大学に入ってからは酷く女と戯れた。俺の母は美しく、そして面食いだったため顔のいい父の同僚と子を作り、生まれた俺は比較的綺麗な顔をしているようだった。女は尽きることなく俺の前へと湧いて出た。

そのせいでしばらくすると学内では俺に関しての悪い噂が広まり、関わりに来る者はいなくなった。

本物の愛など俺にはわからなかった。産まれてから誰一人として、俺に愛情を示す人などいなかったからだ。

大学を卒業してからは、小さな不動産屋に勤めた。収入はそれほどなかったが、一人でなんとか生活をやりくりするのには十分だった。

毎晩風呂に入り自分の身体を見る度、父親から暴力を振るわれた時のことを思い出した。その記憶はいつまでも俺の中で消えることはなかった。しかしいくら憎んでも、父はもう生きてはおらず、その遺恨を晴らす事はできなかった。

不動産業を続けていく中で、記憶の断片に残る母親に似た顔と雰囲気の女性と出会った。

どこかに運命を感じて、連絡先を交換してもらい、恋人にまで発展した。彼女は身体が弱いらしく、激しく運動したりすると発作や癲癇が起きてしまうみたいだった。俺は彼女を通して昔の痛々しい自分を見てしまい、彼女には自然と丁重に接するようになった。

綺麗で儚く、しかし弱々しい女性だった。彼女がふんわりと笑うと、俺の心の淋しさも和らぐようだった。彼女は俺の過去もしっかりと理解してくれて、偏見を持つこともなくただ寄り添ってくれるような人だった。

彼女は俺の人生の中で一番大切にしたものだった。

おおらかな日々を数年間送ったあと、俺たちは小さい式場で結婚した。純白のドレスを身に纏った彼女はまさしく女神だった。そのとき俺たちは幸せの絶頂にいた。

その日から輝くシルバーのリングをお互い左手の薬指に付けて、また平凡な日々を繰り返した。

そしてあるとき彼女は妊娠した。

日が経つにつれて彼女はどんどん弱っていった。家で眠ることも増えた。しかし彼女は前より食事を摂るようになり、変わらず俺にふんわりとした笑みを投げかけた。子を産む力があまりに乏しかったため、帝王切開での出産になった。俺は彼女が心配でしょっちゅう仕事を抜けては病院を訪れた。彼女はどんなに激しい陣痛がきても、苦しそうに顔を歪め涙をこぼすだけで、泣き喚いたりしなかった。俺がそっと彼女の手を握るとこちらをちらりと見て、目を細めながら力なく微笑んだ。

数日経ってから、間もなく子は産まれた。子は彼女と違い産まれてすぐぎゃあぎゃあと暴れて泣き叫んだ。その赤ちゃんの姿を見た彼女は、心から嬉しそうに微笑み、歓喜の涙を流した。そしてゆっくりゆっくり赤ちゃんに向かって手を伸ばした。愛しの我が子に触れたかったのだろう。しかし、その望みは叶わなかった。その手が赤ん坊の頭からその子の足の裏の長さほどの距離を残したとき、彼女の命は途切れてしまった。しかし俺には眠っているように見えた。気を失っているのかとも思った。だが、彼女の表情はその時から変わることはなく、心臓が脈を打つこともなかった。

俺は居ても立っても居られなかった。彼女は子を残して死んだ。赤ん坊なんかのせいで、愛しい彼女は儚い命を絶ったのだ。俺は子を愛せる自信がなかった。

家に連れ帰ってからも、その子を見る度彼女を思い出した。苦しかった。なのに赤ん坊は朝夜問わずしょっちゅう泣き喚き、何をしても機嫌がよくなることはなく、俺は完全に寝不足になった。仕事もあったため日中は世話ができず、保育園に預けることにした。俺はとにかくその子を見るのも嫌になってしまった。そして溜まったストレスをその子にぶつけた。赤ん坊は殴ると気を失って静かになった。そして目を覚ますとまた泣いた。俺は自分が子供の頃父親にされたことと同じことをその子にしていた。子が憎くて仕方がなかった。このままでは俺はこの子を殺してしまう。そう思った俺は児童養護施設にその子を預けることにした。

めまぐるしくまわる日々は終わりを迎えたのものの、俺の心は全く晴れなかった。ただ自分のしたことを思い出しては繰り返し反省し続けた。

そして今、ソファーに横たわって自己嫌悪の苦しみに襲われている。

俺は子を持つべきではなかった。いや、愛しの人を作るべきではなかった。むしろ、そもそも俺はこの世に生まれてくるべきではなかったのかもしれない。誰かもう、俺の息の根を止めてくれ。

目を閉じると、俺の瞳からは熱を持った水滴が一筋、ゆっくりと流れた。

その水滴は側から見れば間違いなく透明なのだが、俺には濃度の高い真っ黒な墨汁のような汁がどろりと垂れてきたように思えた。

気づくともう朝になっていた。

俺はやはり、まだ生きていた。

体は冷たい。喉も大きく腫れている。どっしりとした気怠さが胸を覆っていて、息がしづらい。

そうだ。今日は間違いなく昨日の続きなのだ。

この状況を、誰かが知らない間になんとかしてくれたわけではない。何一つ改善していなければ、悪化もしていない。死ぬ勇気のない俺は、自分のしたことの罪を背負って、命の続く限り毎日生き続けなければならないのだ。俺の父親はそのことに気づけなかった。そして俺に当たり続け、酒に溺れ、事故で死んだ。なんとも滑稽な話だ。そして、父と同じ道を歩もうとしていた自分も同じく滑稽だ。物事に正面にから向き合うことの大切さに気づくまで、俺は少し遠回りしすぎたようだった。

今日施設に子を引き取りに向かおう。

そして父のような過ちは絶対に犯さない。

俺はちゃんと、天国の彼女の代わりにあの子を幸せにする。そして父から受け継がれたこの負の連鎖を止めなければならないのだ。


ソファーから起き上がると気怠さは下腹部に移動し、腹が減っていることに気がついた。

冷え切った床を素足で踏んで、台所に向かう。

蛇口を捻って水を出すと、出てきた液体は朝日に反射してキラキラと輝いた。それをコップに注いで、一気に飲み干す。腫れた喉がずき、と痛む。

しかし、俺の身体の中にはしっかりと冷たくて透明な液体が入っていった。

それはなんとなく心のどす黒い部分を洗い流してくれているような気がして、少しだけ荷が軽くなった。

俺の身体にはまだ、父親につけられた沢山の傷跡が残っている。でもそれはもう、思い出して胸を痛めるようなものではなくなっていた。

俺が生き方を間違えないために深く刻まれた、父からのメッセージなのだ。

そう思うと俺が強靭な生命力で生き延びてきた理由がなんとなく分かり、心の暗い部分に少しだけ光が差し込んできたような気がした。

浮かんできた色々な感情を体外に逃すように、ふーっと息を吐き出す。

もしかしたら今がこれまで生きてきた中で一番楽な時なのかもしれなかった。

足取りは重い。喉も痛い。体も冷たい。

それでも、俺は前を見れている。現実と向き合えている。

行かなければ。俺のこの状況を改善できるのは俺しかいない。

昨日まで見ていた景色は変わらないが、なぜだか少し輝いて見えるような気がした。

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