バケモノと人間
原作で死んだ推しは生かしたくなる。原作で死ななかった推しは殺したくなる。一部の創作者が抱える業の深い二律背反である。我も、それを抱えている。しかし二律背反はもう一つある。
人間を翻弄するバケモノと化した推しを見たいが、バケモノに翻弄される人間であり続ける推しも見たい。嫌な二律背反である。ただ、大抵おとなしい推しはバケモノになる気がする。
バケモノの定義は作品によって異なる。本能以外の特定の目的を持ってして人間を害し、人の言葉を解さず、しかし高い知性を持つ正体不明の存在をバケモノと定義する者がいたはず。何か違う気もするが、様々な作品においてバケモノとはおおよそこの四要素を含んでいるだろう。
では我の描写するバケモノはどんなものか。まず加害性。おおよそその通りである。目的意識を持たない場合もあるが、大抵バケモノは人間を傷つけ、害し、陥れようとしてくる。理由は様々。ヒトを捕食対象としているもの、縄張りに入ってきたものはなんであれ排除するもの、復讐のため、真社会性のように護衛や警備がその個体の仕事故、娯楽目的の殺傷、人間をオモチャとして認識している。後半になればなるほどろくでもない。
ちなみに人とヒトの使い分けというものをしている作品で、「人」と書くと文化的な側面、性格や趣味嗜好のことで、「ヒト」と書くと生物的な側面、ヒト科の機能や生態のことだとしているものがある。これに対し素直に「なるほど」と感じたのであえて使い分けている。
次に言語。並びに知性。大抵人の言葉を解し、何なら達者な部類が多い。ほら言語は文化的側面だから「人」と表記した。しかし文化的な言語と言えば、イルカも言語を持ち方言も存在するが、彼らは人の言葉こそ解すが声帯の作りがそもそも違うので発音は難しい。それ以前にイルカはむやみに人間を傷つけないものと思われている。故にバケモノとは定義されない。陸に上がってヒトを捕食しない限り。これで人の言葉を使って惑わせてこようものなら最悪である。脳裏にB級映画のサメが暴れ狂う。銀幕ないし動画配信サービスに帰ってくれ。
そしてその正体。少し範囲を狭めてヒト科かどうか。おおよそヒト科ではない。外見だけ見ればヒト科に似ているものもいる。機能や生態は似ても似つかないが。元はヒト科に分類されていた場合もある。その場合信心深いとなおよい。己がバケモノに変質する恐怖は宗教を心の支えとしてきた人間ほど深まる。おおよその宗教でバケモノは信仰に対する敵や罰だからだ。残念ながら我は無信仰に近い神道信仰なのでその恐怖は解さない。日本にはバケモノじみた神々も本来悪に寄った要素を司る神もそこそこいるもので。そこの感性は人によって違うだろうが。
人間社会に属しているが、正体不明の殺人鬼。これもバケモノに分類していいだろう。有名どころではジャックザリッパー。(便宜上)彼は通り魔的に女性を殺し、その女性の遺体からは医学的に正しい解剖の痕が残っており、警察や国家を翻弄し、今の今まで正体がわからない。彼は、バケモノに近しい人間なのだろう。
正体のわかっているバケモノも乙なもの。例えば吸血鬼。我は実際に、とある推しに吸血鬼設定を生やしすぎて二十五個の大台を突破した時点で数えることをやめた。今はどうなっているかわからないが、忘れ去ったものもあるので減っているかもしれない。そしてその一つに、明確な弱点が存在する。おおよその吸血鬼に共通する弱点もあるが、今回は「氷属性の吸血鬼」の話。氷属性が好きすぎる。が、不死の肉体は冷たいだろうし、設定の整合性は作中とれていると説明している。ツッコミはお控え願いたい。そして氷は火、ないし熱に弱い。流石に彼はとけることはないが、目に見えて弱体化することになっている。弱体化状態であれば銀でも魔法の力を持っていない武器でも傷つけられると、判明している。判明しているが、一向に退治されない。むしろ退治に赴いた者は返り討ちにされている。これも立派なバケモノだろう。
当然、これらに当てはまらないバケモノも存在する。人間が勝手にバケモノだと呼ぶ悲しき生き物である。しかし推しをそういったものにはしたくない。バケモノになった推しには、人間ごときをあざ笑うかのような何かであってほしい。氷の吸血鬼でありながら未だ焼かれていない彼のように。
そして人間。人間そのものの定義はおそらく賢い方が論文としてどこかに提出した方が有意義なので、「バケモノに翻弄される人間」を定義する。バケモノにとっての人間は「無力で愚かな、それでいて蛮勇にも近い勇気あるもの」であってほしい。
まずは無力であること。どんなに怪力だろうと、どんなに賢い人間であろうと、どんなに美しかろうと、どんなに社会的地位が高かろうと、バケモノにとっては無意味なのでここは気にしなくていい。
次に愚かであること。気づいていようと気づいていなかろうと、バケモノに近付く時点で愚かなのでこれも気にしなくていい。ホラー映画で最初に死ぬ奴は「お作法」があるが、それを無視する作品も星の数ほどある。学校で「知らない人に近付かないように」と教わったはずだ。それを破って凄惨な結末に至った事件は現実で起きている。これを見ているよい子はいないはずだが、知らない人には挨拶程度までにするように。それでもそこから勘違いが起こる可能性もあるが。世知辛い。
最期に蛮勇にもほど近い勇気。これもバケモノに近付く段階で高得点だが、さらに加点のチャンスがある。バケモノだと知ってなお友人で居続けたいと願う者、血迷って討伐を試み英雄になってやろうとして無残にも殺される者、おびえ錯乱し逃げだそうとする者、誰かに伝えようとしたまでに口封じとしてすさまじい拷問の後破棄されるモノ、彼ら彼女らにはプラス十点。他にも加点の余地はあるので、これから開拓していきたい。
その最期がどうであるかは、我はあまり気にしていない。無残な最期でも、英雄として称えられても、愚か者だとして嘲笑されても、誰にも知られず隠蔽されようとも。死は確かにドラマチックで劇的だが平等に訪れ、そして死に方は選べない。自然な流れであれば、どんな最期でも受け入れてきた。
その人の善悪も気にならない。足して二十になる自営業のカシラが、己の力が通用しない理の外にルーツを持つ何かと邂逅し、恐怖と混乱と絶望で顔から出せる汁全部出してかつ失禁する、というあらすじを練っただけでよだれと脳汁がべちゃべちゃに分泌される。非の打ち所のない完璧美少女(肉体、精神の性別は問わない。腐女子は屈強なマッチョに対して美少女だの幼女だのえっちなお姉さんだの抜かすような生き物なので)が残虐非道な殺人モンスターと心を育むストーリーは、幸せな最期と凄惨な末路の二つを瞬時に出力した。当然この二つの物語のプロローグが逆でもかまわない。裏社会の人間とバケモノの心温まるような物語も、完璧超人がバケモノによってめちゃくちゃにされる物語も、どちらも見たいし書きたい。
結局のところ、すべては「ギャップ萌え」という一言に収束するかもしれない。が、その一言で済ますには、あまりにも幅が広い。「死を忘れるな」と言う意味のラテン語で「メメント・モリ」という言葉がある。それを少しアレンジして「メメント・ギャップ萌え」とでも呼ぼうか。いつもどこかにギャップ萌えは存在する。
推しは花や星に似ている 大和田 虎徹 @dokusixyokiti
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