蛍雪
結騎 了
#365日ショートショート 337
ドアにはディスプレイが搭載されていた。あらかじめメールで送られてきたパスワードを打ち込むと、カシャと音がする。鍵が開いたようだ。
ドアを開けると、思いのほか中は暗かった。照明は点かないのだろうか。しかし、実際にその部屋に身を運んでみると、次第に目が慣れてくる。暗いといっても窓はあるのだ。上部の小窓から外の光が差し込む。その光は絶妙にデスクに向かって伸びていた。なるほど、そういうことか。
個室のワークスペース、店の名を『蛍雪』。作家である男は、たまたまネットで見つけたこの個室を予約し、訪れていた。テレビにコーヒーメーカーに本棚と、家での作業はあまりに誘惑が多すぎる。昔の文豪は旅館で執筆したというし、一昔前の漫画家はホテルに缶詰になったそうだ。自らを普段とは異なる限定空間に押し込むことで、集中力を加速させる。抱えている作業に行き詰まりを感じていた男は、そういった経緯で『蛍雪』に足を運んだのであった。
あらかじめネットで予約と支払いを済ませ、ビルのワンフロアに向かい、パスワードで開錠して入室する。受付らしきカウンターが廊下にあったが、無人であった。人件費削減と感染対策。よくできている。何よりこの光の演出だ。蛍雪とは、学問に励むことを指す。その漢字は、貧しいため蛍の光や雪の明かりで書を読んだという故事に由来する。環境はともかく、真に大切なのは信念と集中力。この『蛍雪』の個室は、それを思い起こさせる。
三畳ほどの小さな部屋。良い香りの畳とデスクがあるのみ。そこに向かい、ノートを広げ、がりがりと文字を書き込んでいく。暗い。照明が無いのだから、もちろん暗い。しかしどうだろう、窓から差す光がノートの表面を薄く照らしていく。紙の繊維が見えるほどの、柔らかな光。鉛筆の先が溶け出し、そこにゆるやかに付着していく様子。ここまでじっくりと執筆それ自体に向き合ったのはいつぶりだろう。男は一心不乱に書き続けた。
数時間後、ぽきりと首を鳴らした。ああ、驚くほど捗ってしまった。このワークスペースは良い。常連になってしまうかもしれない。ちょっとした感慨に耽っていた頃、携帯電話が振動した。見慣れない番号だ。はて。
「すみません、『蛍雪』の管理者の者です。本日ちょっとしたトラブルがありまして、スタッフの対応が出来ていません。照明すら点けていなかったと思うのですが、大丈夫だったでしょうか」
蛍雪 結騎 了 @slinky_dog_s11
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