二元論を超えた神の名は

キヲ・衒う

アブラクサス

中学校に入学したばかり、黄色っぽい空気が漂う教室で私の隣の席になった伊織ちゃん。河原の石ころみたいなクラスメイトの中で、水晶のように澄み切ったその女の子はすぐに私の親友と呼べる間柄になった。


森の中に立ち入ってしまえば木々の間にいても気づかないであろう容姿。

しかし人ごみの中に紛れていれば特別に目を惹き、すぐに見つけることができる存在でもあった。


彼女は普段明るく振る舞い子供のようにも見えたが、私に家の事情について滔々と語る表情は深い皺の刻まれた老人のようだった。

伊織ちゃんは母親と二人暮らし。生活は困窮を極めていたようで、休日はカップラーメンか業務用スーパーで買ったパスタを食べ、夜は何も食べないという。


それでも携帯電話を持っているし彼女をより美しくみせる髪も綺麗に整えられ、譲り受けたという制服もしゃんと着こなす彼女は普通の生活を送っているように見えた。


 だから普通の顔をしてシャーペンの芯が入ったケースを制服の袖口に滑り込ませたときは息を飲んでしまった。

「シャー芯とか小さめの消しゴム、あとはヘアゴムなんかはこうやって盗みやすいんだよ。」

学校の帰り道、寄っていこうと私に声をかけたときとおんなじ、はにかんだ笑顔で彼女はそう言った。

「冬用のコートとか着てるときだと特にやりやすいんだ。」

 消しゴムを2つ、片手で持ちそのまま消しゴムを吟味するふりをしてその1つを掌から袖口へと落とす。そして「やっぱりこれは買わない」と言って手に残ったほうの消しゴムを商品棚へと戻す。慣れた手つきだった。


「こんなことお店の人が困ってしまうし、伊織ちゃん、捕まっちゃうよ。」

店を出た後、私は拙い言葉で訴えかけたが、

 「一度もばれたことないし、平気だよ。個人商店だと監視カメラがあったとしてもダミーなところも多いし。」

彼女は笑っていた。

 万引き。これが彼女にとっては普通のことらしい。

 依然心臓がバクバクし頭に血が通っていないような、現実感をもってアスファルトの上に立っている気がしない私と平気な顔の伊織ちゃん。

私が抱いていた価値観は彼女にはどうでもいいものだったようで「早く帰ろう。」と小首をかしげて言い放つ彼女に、私はとうとう何も言えなかった。


伊織ちゃんは早速、盗んだシャー芯と消しゴムを学校に持ってきていた。

ぎょっとする私に気づかず、水ぶくれができた指で薄水色のシャープペンシルに芯を詰めていく。彼女の持ち物すべてがお金を払わず得たもののように思えてしまう。


 私は日夜さんざん悩んだがお店の人にも、先生にも言わなかった。言う勇気がわかなかったのだ。

また、彼女と距離を置くこともできなかった。他に私を認めてくれるような友人がいなかったから。



 たまにクッキーを作って学校に持っていくと彼女は「いい匂いがする」と朝礼前に寄ってくる。犬のように私の席に纏わりつく姿は手足が長くすらっとした彼女を可愛らしく印象付け、みなの視線を集めた。

 朝も食べてこないことが多い伊織ちゃんは私を「天才!神様!」とほめてくれるのが嬉しくて。そしてお礼といって私に可愛い飾りのついたシャーペンやヘアピンをくれるのも嬉しくて。

私にくれるプレゼントは盗んだものだと知っていても友達関係をやめることはできなかった。


 私は何ら面白味のない人間で、小学生時代もいつも一人だった。クラスメイトの講評は「ノリが良くない」、「暗い」に終始していた。伊織ちゃんになぜ私なんかと一緒にいてくれるのかを訊いたら、曰く「誠実だから」らしい。

自分の話を真剣に聞いて、貧乏でも笑わないから。


 そういって目を細めて笑う彼女の周りにはいつも人がいた。

せっかく学校に通わせてもらってるんだから、と授業に真面目に取り組んでいるおかげで成績が良い。縦に引き延ばしたような体躯も、卵のようにつるりと白い面長の顔に見事にマッチし中学生離れしたスタイルに見せている。

 頭良し、顔良し、長身を生かして運動もできる。

そんな彼女に友達がいないわけがない。





でもそれも過去の話だ。

伊織ちゃんの万引きがばれてしまった。


クラスメイトの一人がたまたま万引きのシーンを見てしまった。それをお店の人に話したらしい。そのクラスメイトはすぐに家に帰されたらしいが「警察を呼ぶ」と店主の奥さんがまくしたてた声を聞いたようだ。



やっぱり!

前にお店の人が何度も在庫確かめてたもんね~

そのときからずっとやってたってこと?!

うわ最低

え、この前「買い換えた」って言ってたノートも!?


すぐにクラス中に広がる驚きと呆れが混じった声。

そしてそれが糾弾するような響きから個人を嘲笑するような響きに変わったとき、とうとう私は耳をふさいだ。


 私は話題に興味のないふりをして机に突っ伏していた。傍からみたらさぞ滑稽だったろう。いつも一緒にいた人間の話に興味がないなんてことはないのだから。

 

手に粘っこい汗をかくのを感じる。伊織ちゃんはどうなったのだろう。逮捕?されたのかな。私も逮捕…とまではいかずとも何らかの罪に問われてしまうのかな。

貧困状態に置かれていた伊織ちゃんは皆からあれやこれやと尾ひれもついた噂まで流されているのに、盗まれたものだと知っていてプレゼントを受け取っていた私はなぜ何も言われないんだろう。



突然、ざわめきが止まった。数秒空気が凍ったような感覚、それからしばらくしてどよどよと今までとは声色の違うざわめきが教室を満たす。


空気が揺れる。

「ねえ、」声をかけられハッと顔を上げると大きく顔を腫らした伊織ちゃんが私の机のそばに立っていた。

 「びっくりした?…顔、お母さんに叩かれたの。警察と家の人…お母さん呼ばれて。でも微罪≪びざい≫処分?っていうのになって示談で済んだんだ。お母さんに恥晒しって言われてアパートから追い出されておばあちゃんちにしばらく引き取られることになったの。」

 彼女は切れた口の端をときおり引き攣らせながら語る。

青あざが顔に浮かぶ痛々しい姿でも女神のように美しかった。制服の下にも傷ができているのだろうか長く伸びるまつげを震わせて短い呼吸をする様は雪の中にたたずむ鹿を思わせた。


 「でね、私転校するの。だからはい、これ。」


急に私の前にピンク色のシャーペンが差し出される。水仕事であかぎれ、ぼこぼこと湿疹が浮かぶ手はお世辞にも綺麗とは言い難かった。


 「ごめん。包装する暇なくて。」


ラッピング用品なんか買えるお金がないんだろ。


 「これは…ちゃんとしたやつ、だから。」

 

盗んだやつじゃありません、ってちゃんと言いなよ。


 私は黙って受け取った。

 喜んで受け取ったら周りの目がさらに冷たくなるのが目に見えているから。私の近くの席にいた子は私が伊織ちゃんから物を貰っていたことをきっと知っている。私まで変な噂を立てられるのは勘弁だ。

 突き返すことができなかったのは今までの彼女とのやり取りを否定するような形にしたくなかったから。

 私は伊織ちゃんという美しく、醜く、高貴で、貧乏な、普遍的で、特別な友達を失いたくはなかったから。


 伊織ちゃんはうっそりとほほ笑むと、「じゃあね。今までありがとう。」と言って私に背を向ける。

おっかなびっくり顔とにやにや顔を向ける面々を、見えていないかのように机の間を縫っていく。彼女の動作の一つ一つから粗を探そうと鵜の目鷹の目で見つめる面々と同様に彼女を見守っていると、伊織ちゃんは教室の扉に手をかけながら一度だけこちらを振り向いた。



私が最後に見た彼女は微笑んでいた。


壮絶に美しく、何処までも醜く、私の心の中を全て見透かすようにも、全くもって蒙昧にも見えた。柔らかい男性のようでも、果てしない砂漠のようでも、空を見上げる鳥でもあった。








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