第20話 組み手
「なあお姫様、組み手しようぜ組み手」
そろそろソルレイ領に入ろうというあたりで、リヴィンがそんなことを言い出した。辺りは鬱蒼とした森だが比較的開けた場所で、暴れるにはちょうどいい。以前は村があったのだろう土地は草と木々に覆われ、建物の残骸と中央の広場がその面影を残すのみだった。
「なぜですか?」
「いや……身体は動かしとかないと鈍るだろ?」
ぱちぱちと瞬きするリヴィン。理由を問われるとは思ってもみなかったという顔に無性に腹が立つ。
「理由が欲しいなら、そうだな……もっと強くなりたいだろ、お姫様? いっちょ揉んでやるよ」
「はぁ……わかりました、いいでしょう」
「おっ、やる気になったかい? じゃあ、こんなとこで怪我してもおもしろくないし武器はなし、鎧も邪魔だな。動きやすい格好で構えなよ」
どうせ今晩はこの村跡で過ごすつもりだった。武器と鎧は外し、向かい合って徒手で構える。距離はフラクタの歩幅で五歩、攻防どちらにも移れるよう重心をフラットに置くフラクタに対して、腕を畳んで両手を顔の前に置いたリヴィンの構えは攻め気を表すように重心が前に置かれている。
対峙しているだけなのに空気が張り詰めていく。リヴィンはどこまでも自然体で悠然と構えているようで、いつ飛びかかってきてもおかしくはないとも見えた。体格や筋力を差し引いても、彼が手練れであることは認めざるを得ない。迂闊に動けず、足を縫い止められたような錯覚すら覚える。
「これはリンタローに教えてもらったやつなんだけどな」
ゆっくりいくぜ、と言ってリヴィンが歩を進める。スローモーションのようなゆるゆるとした動き。それに合わせて拳が繰り出される。避けるのは容易だったが、目線で制される。インパクトの直前、天輪が煌めいた。リヴィンの拳がフラクタの掲げた腕に触れた瞬間、受けた箇所から身体の芯へと衝撃が貫く。
「ちゃんと天輪で受けた方がいいぜ。今度はそっちの番な?」
にやっと笑ったリヴィンがくいくいと手招く。
その全身が天輪で強化されている。横溢した気力が不可視の流れとして立ち昇るようだ。
拳の速度を乗せない、純粋な身体強化のみでこの威力。そして最初の一手を受けたことで、この組み手の意図も理解できた。天輪の出力向上と維持、この二点に眼目を置いたものなのだろう。確かに、不意打ちと速攻による暗殺を繰り返してきたフラクタに不足していた部分だと認めざるを得ない。
右ストレートを繰り出す。リヴィンがそうしたように、スローモーションで。意趣返しも兼ねて、時間をかけて練った天輪の力を注ぎこむ。骨を折るくらいの気持ちと力をこめて、リヴィンが掲げた腕を打った。ずしんとした手応えが拳に返り、空気を震わせる。寝床で羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び立った。
「いいね。じゃ、続けていくぜ」
動きの起こり、拳の軌跡。全てがはっきりと目で捉えられる速度でのやり取り。じれったくさえ思える速度でのやり取りで、組み立てを考える時間は十分にある。にもかかわらず。
(……追いつけ、ない……ッ!)
手数を重ねるほどに息苦しさを感じる。
全てが見えているのに対応が追いつかない。
リヴィンがイカサマをしているわけではない。彼の動きはフラクタ以上にゆったりとしている。むしろ焦りから一定の速度を維持できなくなっているのはフラクタの方だった。にもかかわらず、イニシアティブは常にリヴィンの側にあり、その差は詰めるどころかどんどん開いていく。
「詰み、だな」
崩れた体勢を戻しきれず、防御が間に合わなくなったところで拳を寸止めし、リヴィンが宣言する。外気は肌寒さすら感じる温度なのに、汗がどっと噴き出た。時間にして五分ほどのやり取りだったはずだが、濃密なやり取りに頭も身体も疲弊していた。その場で膝を突くのだけは意地でもこらえる。
「はは、けっこうキツいだろ。大半の天輪持ちにとって、身体強化はただ力をこめるのと同じくらい無意識に使える能力だからな。意識的に使うのは必殺の一撃を食らわせるときくらいで、こうして常時全開の状態で戦ったりはしない。初回で三分ちょい保ったなら上等だよ」
「それだけじゃ、ないでしょう……先読みの能力でも使わなければ、ああは動けない」
「先読みねぇ……もちろんしたが、別に天輪の固有能力ってわけじゃないぜ。ああ、まあ……全く関係ないかって言われると微妙なとこだけど……ま、とりあえず気にすんなよお姫様。あんたが知っとくべきは、あれはあんたにもできるってことだ。というか、できてもらわなきゃ困る。最終的には全力戦闘しつつ敵と己の動作を完璧に把握して、常に最善の手を打てるようになってもらいたいとこだな」
リヴィンはさらりと言ったが、それがどれほど困難な目標なのかは分かる。喩えるなら、本気で殺し合いながら脳内でチェスを指すようなものだ。まともな勝負になるはずがない。
勝ち筋が見えたときだけ仕掛け、相手の動きへの対応だけを考えるいつもの戦いとは根本から異なる。決してフラクタが臆病だったわけではない。全ての天輪を砕く旅。勝利は過程でしかなく、戦い続けることを考えれば負けるわけにも傷つくわけにもいかなかった。天輪を砕くという目的に同調する保持者がいるはずもなく、安全な訓練などできなかった。
(わたしには必要ないと思っていた、けれど……)
かつて挑んだソルレイもまたその領域で戦っていたのなら、軽く一蹴されたのも当然だった。にもかかわらず、リヴィンに指摘されるまでそんなことにも気付かなかった自分の愚かさに怒りを覚える。そして考える。天輪の固有能力ではないとリヴィンは言った。相手の動きを読む方法が他にあるのだ。
「見ているのは天輪、ですね? いえ、それだけではない。目線や姿勢、筋肉の動き……そうしたものを総合的に捉えて、相手の動きが起こる前に応じている……」
「ご名答。相手の強さ、仕掛けるタイミングは天輪を見ていればほぼ読める。これは天輪持ちなら誰でも知ってるよな。フェイントに使ったりもするが、それは次の段階だな。まずは組み手のスピードを落として観察からだ。解像度を上げ……あー、よく目を凝らせば、どこにどれくらいの力を流してるかも分かるようになる。均等に全身を強化してる状態から、攻撃時にどう力を配分するかにも気を遣え」
その場で軽いジャブからフック、裏回し蹴りと繋げてみせるリヴィン。ぎりぎり目で捉えられる程度の速度だったが、どの一撃もインパクトの瞬間に最高の威力を叩き出せるよう、この上なくスムーズに打点へと力が流れていた。おそらくリヴィンは加減している。武器を持っての立ち会いならともかく、素手での殴り合いならフラクタの意識を刈り取るくらいはわけもないだろう。
「支配の魔女がそうしているように、天輪を帽子やフードで隠してはどうですか?」
フラクタが尋ねると、リヴィンは苦笑した。
「ルニエは格闘のセンスが壊滅的なんだよなぁ……ま、だからこそ守りがいもあったんだが」
「のろけを聞きたかったわけではありません……いえ、考えてみれば、あれだけの支配能力があるなら護衛は貴方や部下に任せ、最低限の自衛ができれば問題ないという思考になるのは当然でした。それよりもどのような天輪を戴いているのかを秘匿する方が効果的、ということですね」
天輪さえ隠せば背格好の似た別の天輪持ちを影武者にできる。
「そうでもないぜ? 実際、あんたの奇襲はばっちりハマった。ルニエをかばった俺もろとも頭を砕いて、ヴァレリア帝国を崩壊させたんだ。まぐれや運も実力のうち、誇っていいんじゃないか?」
「……わたし、バカにされているのでしょうか?」
「さすがは我が主、ご賢察にございます」
「あっはは! 指輪君、久しぶりに喋ったと思ったらそれかよ。あんたら、本当におもしろいな」
「お褒めに預かり光栄にございます。我が主を鍛えようという魂胆はどうにも解せませんが」
「おいおい、お姫様に死んで欲しいような口振りじゃないか、指輪君? まあ、あんたらの複雑っぽい関係についてはおいおいな。それに言ったろ? 俺は惚れた相手に尽くすタイプなんだよ」
「決して報われませんよ」
「そうかい? まあ話を戻すと、こっちの動きを読ませないためにフードや帽子で隠すのもありっちゃありだ。けど視界を遮られるデメリットがデカい。勘も鈍るし気配にも気付きにくくなるから、本当に強いやつは天輪を隠さない。例え、それが最大の弱点であっても、だ」
最大の武器であり、弱点。
天輪持ちにとって、天輪は命に代えても護るべきものだ。
保持者と非保持者を隔てるそれが与えられる基準や法則性は今なおはっきりしていない。
判明しているのは、天輪を生まれ持つ者と後天的に得る者がいるということだけ。後天的に得た場合、非保持者だったころの記憶は曖昧になるためきっかけのようなものがあったかどうかも分からない。そして天輪持ちになってからは、己の抱く衝動のまま、あるいは生き延びるために、天輪持ち同士の果てしない戦いに巻きこまれ、自分が天輪を与えられた理由などどうでもよくなってしまう。
この世界は詰んでいる、とフラクタは思う。
天輪持ち同士は殺し合いに明け暮れ、非保持者は支配を受け入れ漫然と過ごすのみ。
きっと、人々に天輪を与えている神のような存在を殺すか、再生産される仕組みそのものを壊すかするまで、この世界は一歩も前に進めない。だが現実のフラクタはそのずっと手前、根本的な解決策を見出せずに手当たり次第に天輪を砕いて回っているに過ぎない。
「遠い目してんぞ、お姫様。もう十分に休めたろ?」
フラクタが休んでいる間も一人で型の練習をしていたリヴィンが顎で招く。
「いつまでもその余裕を保てると思わないことです」
「楽しみだね。やってみなよ、お姫様」
十戦十敗。
実戦なら二十回は死んだところでその日の組み手は終わった。
「ところでさ」
「はぁ……はぁ……なん、ですか」
息も絶え絶えで座りこむフラクタを見下ろして、リヴィンが頭をかく。
「俺とあんたにずっとついてきてる恥ずかしがり屋のお仲間さん、そろそろ紹介してくれないか?」
「……トーキィのことなら、ただの従者です」
「あっはっは、嘘が下手だねぇ、お姫様。余裕がなくなるよう仕向けたのは俺なんだけどな」
そう言うと、リヴィンは前触れもなく森に向かって走り始めた。
駆け引きをする暇もなかった。そして、鎧を外した本気のリヴィンから逃げ切るのは天輪持ちでも容易ではない。一分と経たずして、アースカラーの衣服に身を包んだ男が引きずられてくる。
「気配が薄いとは思ってたが、やっぱ非保持者か。しかも支配されてるわけじゃない。にもかかわらず迫ってくる俺を見て逃げ出した。不思議なこともあったもんだな、お姫様?」
「ッ……うぐっ……!」
「おっと、舌は噛ませないぜ? つーか、なんか仕込んでんな?」
男は奥歯に仕込んだ毒薬を噛み砕こうとしたが、口に指を突っこまれて阻止された。当然、保持者であるリヴィンが軽く強化しただけで非保持者に噛みきれるような代物ではなくなる。無遠慮に口内をまさぐられてえずくのが関の山だ。取り出された薬は地面に投げ捨てられた。
「さて、答え合わせの時間だお姫様」
悪意や嗜虐心というより、純粋な好奇心に満ち溢れた瞳でリヴィンはそう言った。
王冠砕きの戦姫と欠け冠の魔女 天見ひつじ @izutis
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