『太平記』逸文――尊氏卿百首和歌詠進の事――

尾東拓山

『太平記』逸文――尊氏卿百首和歌詠進の事――

第一節

 鶯が鳴いている。

 塀の外に植わった桜に花はない。庭木も緑ばかりだ。もう陰暦五月になろうとしている頃のこととて、それが当然ではある。

 深緑の直垂ひたたれに、立烏帽子たてえぼしを被った中年の男が、微笑んでその明るい庭を眺めていた。いや、微笑んでいるのとは少し違う。その柔らかい表情が、彼の真顔なのだ。

 また鶯が鳴いた。あの美しい声が聞こえると、散った花がふわりと蘇って来るような心地がした。

 庭を眺めていた足利尊氏は、霞がかった頭の片隅でそのことを思うや、目を見開いた。

「――あぁ、そうか」

 と、呟いて執ろうとした筆を、結局は置いてしまった。

 桜が色づいたとわかった瞬間は、その心を掴んだと見て疑わなかった。新しい歌が一首うまれると静かに興奮した――その刹那だけは。

 今はもう、あの感動がなんだったのかが、すっかりわからなくなっている。

 そんなことを、今朝から何度となくやり続けていた。それだけをこととして、だらだらと時を費やしていたわけではない。かつての詠草の中から、百首を選出して歌集を作っている最中でもあるのだ。

 そのせいで、見ては置き、見ては放りを繰り返した詠草の書きつけが、床一面を覆いつくそうとしている。足の踏み場もない、とはこのことだった。

 尊氏はため息をつきながら、正親町公蔭おおぎまちきんかげという歌人の言葉を思い出していた。

「歌と申しますのは、言葉が先ではなく心が先なのだ、と教わりました。美しいもの、醜いもの、人も景色も、当然ながら恋もまた、頭にある言葉で枠をはめてしまうことなく、心から漏れ出した自然な言葉で詠む。それこそが最もよい歌である、と」

 公陰は、尊氏の縁者だ。尊氏の妻――登子の姉が、公蔭の妻なのである。その公蔭は、かつて京極為兼きょうごくためかねという大歌人の猶子であって、様々に教えを受けていた。

 歌を好む一方で、いまだに――都に住んで十年近く経っても――都の風に馴染みきれない尊氏にとっては、丁度いい相談相手でもあるのだ。

 今日、尊氏が公蔭の言葉や、為兼の存在を思ったのは、歌を詠もうとしたから、というのも勿論ある。けれどもそれよりも――政治的な観点からして――大きなわけがある。

 つい先日のことだった。武家執奏の勧修寺経顕かじゅうじつねあきから使いがあって、百首和歌詠進のことを申し入れて来たのだ。勿論ながら、その百首和歌というのが、尊氏が作ろうとしているまさにそれのことである。

 この百首和歌は、勅撰集を作る際の参考に供される。これからわかる通り、今現在、朝廷には和歌所が設けられ、新たな勅撰集が作られようとしているのだった。

 それがまた、なんと撰者は治天下の光厳院で、更にはその師父である花園院がまことの撰者であるとも漏れ伝わっている。花園・光厳両上皇は、京極為兼の歌論を継承する〈京極派〉の歌人であった。

 尊氏が、会うことのなかった為兼を思うのには、そういう事情があった。

 しかも……

 それに加えて、史上初という重みもあって、猶のこと頭が痛い。何が初めてなのかといえば、武家に対する百首和歌詠進のご下命だ。その栄えある第一号として、征夷大将軍にして前権大納言さきのごんだいなごんである尊氏が選ばれたのである。

 ――歌詠みとしては誇らしいが、はてさて……

 作法やら何やら、わからないことだらけで困惑しているのだった。

 因みに尊氏は、勅撰集への入集は既に経験していた。まだ関東御家人であった時分のことで、二十代の若さだった。

 だが今回は、自身が公卿に列している上に、武家の棟梁であることも相まって、その頃とは万事が異なった。それこそ、和歌懐紙にどう署名すればいいのかもわからないくらいだ。これは何も無知のせいばかりではなく、先例がないというのが大きい。

「面倒よのう……」

 思わず口をついた。

 誰にも聞かれてはいない。人払いを命じたわけでもないが、いつの間にか置き去りにされていたのだ。もしかすると、妻の登子がこっそり気を利かせてくれたのかもしれない。

 鎌倉北条氏の一族である彼女にとって尊氏は、夫であると同時に一族の仇でもあるのだが――どれほどの葛藤を乗り越えてのことか――支え続けてくれている。その登子も、登子の血族も、和歌には堪能だ。

 ――それを思うと、ここで腐っておる場合ではないな

 もうひと踏ん張り。百首和歌の撰出を再開しようとした尊氏は、

「誰かある」

 と、縁のほうに向けて呼ばわった。

 すぐに現れた若い家人は、一礼してこう言った。

「申しあげます」

 呼んだから来たのだと思っていたが、そうではないらしい。白湯を持って来るよう言いつけるつもりだったが、こうなると訊かざるを得ない。

「なんじゃ」

「は。三条殿がお越しになられました。〝大御所にお目通り願う〟との仰せでございます」

「直義が?」

 二歳下の実弟――直義は、三条坊門の屋敷に住んでいる。それで、三条殿と呼ばれていた。いわゆる〈二頭政治〉が行われている現在、政務を引き受けた直義はとにかく多忙だった。

 かつて――戦が全国で激化していた建武三年の頃――毎日のように大量の御教書みぎょうしょに署名し、軍忠状に応えて感状を作成し、恩賞給与のために下文くだしぶみを発していた尊氏であるから、弟が文書の海に呑まれやせぬか、と心配した時期もあった。だが、あの弟は驚くほど真面目かつ熱心に取り組み、心配など要らぬ働きぶりを示している。

 しかしそのせいか、このところ顔を合わせる機会は減っていた。使者の往来は頻繁で、何かあればこまめに報せ合っているが、対面するのはいつぶりだったか。

 尊氏は言った。

「すぐに通せ」

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